第171話 魔竜の息吹が枯嵐を喚んで
屋根から天井裏を伝って普通の廊下へと降りたアルセーナ。その眼は、ヴェルジネア邸の西棟三階に存在する領主の執務室へと向けられている。狙いはそこの仕掛け扉からのみ侵入出来る宝物庫――その中で待ち構える、アヴァルの懐の魔道具に違いない。
ラストは天井を逆さに踏みしめながら、小走りに駆ける彼女の後を追う。
「――いたぞ、アルセーナだっ! 四階の東の廊下にいるぞーっ!」
しかし、アヴァルの命令によって屋敷内部には大勢の騎士が詰めている。先日は戦力外だからと外で民衆を遮る壁にさせられていた者たちさえもいるのだから、見つからずに目的の場所へ辿り着くことは真っ当なやり方では不可能だ。
姿を見つけられてしまったアルセーナは、すぐに見渡す限りの鋼の甲冑軍団によって隙間なく取り囲まれてしまった。
互いに鎧をぶつけ合うほどの密度で彼女の周りに集った騎士たちによる防波堤は、廊下の端から端までを二重三重にぎっちりと埋め尽くしている。
「っしゃあっ! 絶対逃がすなよっ! 金貨百枚は俺たちのもんだぁっ!」
「逃げられると思うなよ! 前はよく分からねえ粉撒き散らしてどこかから逃げてたが、これだけいれば隙間を縫って逃げられることもねえ! ははっ、観念しやがれ!」
早くも勝利を確信した騎士たちが笑う。
前回も同じような戦法を問た挙句煙に巻かれてしまった彼らだが、その二倍も三倍もある人垣を作れば流石のアルセーナと言えど逃げ切れるわけがないと高を括っているようだ。
好き勝手にもの言う彼らだが――今夜のアルセーナは気合の入れようが違っていた。
「観念? そのような文字は私の辞書にはありません――邪魔ですわ、痛い目を見たくないのでしたらそこをお退きなさい!」
彼女はこれまでに見せていたような余裕ぶった問答を行うことなく、それだけ言い切った後に答えを待つことなく指に挟んでいた三つの煙玉を炸裂させた。
純粋な目眩ましの白煙が一つに、催涙薬を混ぜた桃色の煙が二つ。
勢いよく破裂した煙が、瞬く間に廊下を埋め尽くす。
「早速かよっ! 分かってるなお前ら!」
「おうっ! 目を閉じて、耳に詰め物だよな!」
「んでもって肩を組んで円陣だ、アルセーナを取り囲んだまま動くな! 煙が落ち着くまで、慌てず待て!」
以前痛い目に合わされたアルセーナの魔法具に対しても、一応は対抗策を講じていたようだ。
彼らは目を固く瞑り、鼻と耳の穴に丸めた布をねじ込む。
催涙の煙幕だけでなく、その後に控えた魔の歌声【
「だけど、それくらいでどうにかなるようならとっくに他の誰かが捕まえてたと僕は思うけどね」
裏を返せば、そのようにして感受性を低めてやり過ごそうとする行為はアルセーナの動きに対しても鈍感になってしまうことを意味する。
もし彼女が騎士たちの囲いを抜け出す方法を持っているのであれば、彼らはそれをみすみす見過ごすことになる。目に見える危険に対策を施しただけで満足して、その先のことまで想定して罠を張り巡らさないのでは、彼らは一生アヴァルのような人間に顎でこき使われるだけの下僕のままだ。
ラストもまた、口元を鼻ごとローブで覆い、目を閉じて視界を魔力光の世界に切り替える。
その天地のひっくり返った視界の上では、強化魔法で人垣を軽く飛び越えたアルセーナがぴょんぴょんと兎のように騎士たちの上を走っていた。
「あがっ!?」
「ごがっ!?」
「痛っ!?」
彼女は騎士の頭や肩を足場にして、人波をなんなく突破していく。
踏んづけられ、時には蹴り飛ばされる彼らは情けない悲鳴を上げることしかできない。みっちりと互いに動く隙間がほとんどないほどに密度を高めていたことがあだとなって、彼らはアルセーナの地面となることを受け入れるほかなかった。
一方のアルセーナはと言えば、大した対策も施すことなく煙の中を前進している。
「……その風が防護壁になってるんだね。なるほど、それで煙幕を吸い込んだりしないのか」
ラストは彼女の背中側に浮かぶ魔法陣を読み解き、その原理を解明する。
オーレリーがアルセーナへと転じるための、髪と瞳の色を取り換える魔法の正体は風だ。
正確には風を吹かしているといったよりも、大気の密度を操作していると言うべきか。
密度を変えた大気を身体の各所に纏うことによって偏光率を操作し、外見の色を変化させている。
その影響で彼女の周囲には常に薄い風の防壁が張られる状態となっており、煙幕を警戒することなく行動することが出来る。
――とはいえ、煙が身体に及ぼす悪影響を遮断できるというだけで、変装魔法にはそれ以上の力はない。
広く拡散した煙幕の中では、近場の視界はなんとか確保できても遠くを視認することは叶わない。
だからこそ、物理的な障害に構わず先を見通すラストが彼女よりも先に気づいた。
「あれは……駄目だ、オー――アルセーナ!」
煙幕の出口付近に立つ、複数の影。
その内の一つが渦巻かせる魔力の輝きに、ラストの直感が警鐘を鳴らす。
既に完成まであと一歩に達している魔法――【
ならば、次善の手は攻撃範囲外に脱出することだ。
――口を閉じて、舌を噛まないよう気を付けて!
「ラ――!?」
魔力の波を合成して作った声で忠告し、ラストは同時に右腕から魔力糸を伸ばす。
彼女が聞こえた声の主の名を叫ぶより早く、彼は糸の先に掴んだ身体を全力で引き寄せて近くの適当な部屋の扉を蹴破った。
そこへ二人が飛び込むと同時に、幽かな童女の歌声が聞こえる。
「――【
その銘がラストとアルセーナの耳を打った途端。
巨大台風の具現、はたまた竜王の息吹とも呼ぶべき暴威の旋風が唸り声を上げ――術者の意のままに解き放たれた。
ごうごうと音を立てる蹂躙の風が廊下どころか近場の部屋の四分の三までをも食い破り、薙ぎ払う。
嵐の中に散りばめられた千や万では届かない無数の風刃が、進行方向に立ち塞がる全ての障害をあって無いかのように破壊し、暴虐の限りを尽くす。
それを目の鼻の先にしながら、アルセーナは傍に立ったラストへと眼を向ける。
「――ラスト君、なのですよね?」
「うん。君の思惑を打ち破るってせっかく格好良く宣言したんだし、ここで死なせるわけにはいかないから干渉させてもらったよ。悪く思わないでね」
「助けていただいたことを恨みはしませんわ。ありがとうございます、ラスト君。ですがそれとこれとは話が別ですからね」
「知ってるよ、オーレリーさんならそう言うと思ってた。それを承知で助けたんだから、君もそこまで気にしないで良いよ。じゃあ、ここから先も気を付けて。……ああ、騎士たちの方も無事だからそっちも気にかけなくていいからね」
一瞬だけ姿を現わしたラストが、敵の風が和らぎ始めると同時に気配を消す。
アルセーナが一つ瞬いた所を狙って、彼女の視界外へ移ったのだ。
「ラストくっ……いえ、今は彼よりも優先すべきことがありますものね」
一切察知することが出来ずに消えおおせるラストを咄嗟に探そうとした彼女だが、まだ敵が健在であることを思い出して正面に意識を戻す。
――そこに広がっていたのは、無惨に破壊されたヴェルジネア邸の残骸だった。
彼女が立っていた四階の廊下は跡形もなく消し飛ばされており、一つ下の三階の廊下が姿を覗かせている。天井は屋上がかろうじて残っているものの、その下を支えるものはなにも残っていなかった。視界に広がる空虚な景色に、アルセーナはラストへの感謝も忘れて絶句した。
「なんという威力でしょう……」
命中すれば間違いなく、人体など欠片も残さない魔法。
騎士たちの身につけていた甲冑など無意味なように思えて、アルセーナは彼らのむごい末路を想像して顔を青くする。
「ですが、彼が嘘をつくとも思えません。きっと無事なのでしょうね」
父の下でもう力の限りを尽くした彼らとは言え、彼女は騎士たちの罰にまで死が相応しいとは思っていなかった。
胸を撫でおろして気持ちを切り替え、魔法の発動源へと琥珀色の眼を向ける。
「――ほぅ、まだ生きていたのか。この間といい、本当に逃げ足の速い小娘だ」
そこに立っていたのは、無表情の女配下を十一人引き連れたオーレリーの兄セルウスだった。
彼は不気味な笑みを浮かべながら、両腕を前に突き出していた傍の少女の頭を撫でる。
その顔には他の者と同じく生気がない――だが、それ以上に少女の見た目がアルセーナに驚愕を呼んだ。
「だが、一応はよくやったと褒めてやろう。見苦しい邪魔者をいっそう出来たのだからな。俺とあの女との決闘に塵屑はいらんからな。さすがは俺の
「――今、なんと? 父、それに娘とは……!」
「さあ、開宴だぜアルセーナ。今日の俺はこの間のように優しくはないぞ。総勢十二名、俺の可愛い奴隷どもの全力を相手にして逃げ切れると思わないことだ。今から恭順の言葉でも考えておくんだな――行け!」
耳を疑ったアルセーナに構うことなく、セルウスは禍々しい笑顔を浮かべて部下へと指令を下した。
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