第170話 返る罰は、為した罪の重さ
先手を奪取すべく、グレイセスが右腕で照準を合わせる。
「その眼にしかと刻みつけなさい、あたくしの華麗なる紅炎を! ――炎よ、我らが尊きへぶっ!?」
彼女は長ったらしい前口上と共に魔力を滾らせ、手の平の先に【
しかし、今回は思わぬ一撃によって発動を防がれてしまった。
「あっ、
呂律の回らない口を動かしながら、グレイセスがアルセーナを憎悪の浮かんだ瞳で睨みつける。
いつの間にか彼我の距離を縮めていた彼女は、右手に携えた日除け傘を真横に振り切った状態で静かに残身を取っていた。
そう、アルセーナはグレイセスの顎を側面から打ち据えることで強制的に魔法の詠唱を中止させ、発動をなかったことにしたのだった。
「ごめんあそばせ。あまりに無防備でしたので、つい」
「
「ですが、貴女も悪いとは思いませんか? 後衛の魔法使いが前衛もなしにのうのうと詠唱出来るだなんて、鼻で笑われるほどの愚考でしょうに。それとも、そのような常識すら知らずにこの場にお立ちになられたのですか? 随分と私を軽んじてくださったのですね」
視線だけで人を殺せそうな雰囲気を放つグレイセスを真っ向から見据え、アルセーナは鼻歌でも歌うかのように語る。
彼女の持つ傘の、鋭く尖った先端部分がきらりと輝く。金属で作られているようで、突けば
それをくるりと回して杖のようにしながら、彼女は睨むことしか出来なくなったグレイセスに微笑みかける。
「私は違いますわ。貴女に魔法を自由に使わせたらどのような惨劇が起きるのか、あの晩からずうっと考えてまいりましたもの。市民に死をもたらす魔法を振るうことをまったく厭わない、危険な人物。ですから今回お邪魔させていただくにあたって、貴女の魔法能力は出会ったならば即座に排除すべきだと考えていたのです。そして、それは無事叶いました」
グレイセスの両手は、自らの顔の下半分を痛みをこらえるために覆い隠している。
その隙間から見えた顎は、痛々しく紫色に腫れあがっていた。
「顎の骨を砕かせていただきました。力を込めて話そうとすれば、痛みで発音がままならなくなるでしょう? その状態では集中の必要な魔法の発動などは夢のまた夢ですわね」
「ふんっ!
「やらせはしませんわ。まだ懲りないというのならば、もう少し痛い目を見てもらいます!」
アルセーナが再び、魔法の詠唱を始めようとした相手へと接近する。
グレイセスはなんとかして避けようとするが、足場が悪い。踵の高い靴では斜めになった屋根を駆けるには役不足であり、普段の運動不足も祟って、彼女は回避がままならない。
不格好に姿勢を崩したグレイセスの懐に、アルセーナは容赦なく踏み込んだ。
「
避けるのを諦めて両手で掴みかかろうとするグレイセス。
それに対してアルセーナは左右に払うように相手の腕を弾く。一見邪魔そうに見える傘は握り手を逆手に持つことで柄尻で殴ることが可能となり、それと拳とを巧みに使って相手の防御を外側へ打ち払った。
そしてがら空きになった頬を、彼女は挟み込むように左右から勢いよく引っ叩いた。
――乾いた音が、夜空にめいっぱい響き渡った。
「んぎゃああああああっ!?」
乙女としての外聞すら忘れて、骨の内側に走った激痛にグレイセスが鈍い叫び声を轟かせる。
――えげつない、とそれを側で見ていたラストは思う。
アルセーナはグレイセスの頬を打つ際、手のひらにせり出た指の根元部分で砕けた顎骨を張っていた。
あれでは衝撃が拡散するのではなく、ほぼ一ヶ所に集中したに違いない。それも、先の傘による一撃で骨が折れていた所となれば全身を貫くような激痛に襲われただろう。これまではろくに怪我をすることもなかっただろうグレイセスには、相当痛い傷となったと彼は見ていた。
「う、うぐぐっ……! う゛う゛う゛う゛――っ!」
立っていることも出来なくなったようで、ぺたんと膝が崩れ落ちたグレイセスはぽろぽろと涙を流しながら内出血で更に膨れ上がった顎を抑える。
大小の痛みの波が口の中に交互に押し寄せ、それに耐えきれず叫ぼうとすると、更に痛んで仕方がない。
慣れた憎まれ口を叩くことも出来ず、呻くばかりの彼女をアルセーナは冷めた瞳で見下ろす。
「私を殺したくてたまらないですか、グレイセス・ヴェルジネア。そうでしょうね。このような、自分が本来置かれるはずのない立場に置かれて。相手にやり返すことも出来ず、ただ見下されることを受け入れることしかできない状況がさぞ憎くて憎くて仕方がないのでしょう?」
「むう゛ーっ!」
「ですが、その程度の痛みは、この街の住民がこれまでに味わわされてきたものに比べたら大したものではありませんわ。貴女は覚えていないでしょうね……家宅への放火五件、人身への放火八件。その中には、未だに後遺症に苦しむ者もいるのです。たかが顎が砕けたくらい、なんだというのですか!」
アルセーナがばしんと傘を足元に打ち付けると、グレイセスはびくりと身体を震えさせる。
「……もう終わりですか。覚悟を決めろと仰っておきながら、自分はその程度なのですね。では、これ以上何かを為されても困るので、しばらくはここにいてもらいましょうか」
彼女は半ば強引に、鞄の中から取り出した縄でグレイセスの身体を縛り上げていく。
グレイセスは一応抵抗の素振りを見せたのだが、アルセーナがその目の前に傘の先端をちらつかせると途端に大人しくなる。よほどの恐怖を埋め込まれたようだ。
両腕を後ろ手に括り、足も同様にくくっていき、彼女は姉をのたうつことでしか動けないような芋虫のような姿へと変えていく。
「そのお口もですわ。下手に動かそうとすれば治癒魔法でも元に戻らない可能性もありますので、私がいなくなったからと言って無駄な抵抗をなさらないでくださいね?」
「むごっ」
最後に口へと相手のポケットから取り出した厚手のハンカチを押し込んで、その上から縄をかけて猿轡のように抑え込んだ。
「さて、このままではふとした拍子に地面に落下してしまうかもしれませんからね。ザクロの潰れたような無残な姿を皆様にお見せするわけにもいきませんから、縄の端は煙突にでもくくっておきましょう。下手に暴れて首に縄がかかった場合までは私の知ったことではありませんので、その点はご注意を」
残った縄を煙突を一周するように結んで、彼女はグレイセスの身体をごろごろと手で押して動かしていく。
いくらなんでも、足で蹴飛ばさないほどの理性は残っていたようだ。
「それで、どういたしましょうか?」
「んむむむーっ!?」
これ以上なにをするつもりなのかと、グレイセスの瞳が恐怖に揺れる。
――ただでさえ大事な顔を醜く腫らさせられて、痛みを植え付けておいて、この上何をされるのか。
怯える彼女の正面に立ったアルセーナが、そっと片腕を伸ばした。
「分からないのですか? では、想像してみてくださいな。このように絶対的な有利を取った相手に、貴女ならばどうするのか。恵まれた力と立場に驕り高ぶったグレイセスと言う人物なら、ここから何を為すのかを」
「……む、むむむむーっ! むーっ、むーっ!」
彼女の言いたいことに思い当たったグレイセスが、必死になって逃げようと身体を跳ねさせる。
しかし、ついた脂肪に反して筋肉の少ない体は思うように動かず、彼女はびったんびったんと陸に揚げられた魚のような真似をすることしか出来ない。
「ええ、そうですわ。ねえグレイセス様。私、未だに先月の火傷の跡が時折疼くのです。身を這いまわる灼熱、骨にまで達する刺すような痛み……体の髄まで焦がされ、生気を喪った炭と化していく死への恐怖……」
「んむむぅーっ!」
深緑のドレスの上から身体を抑えるアルセーナに、グレイセスはいやいやと首を振る。
ただでさえ恐ろしい痛みを味わっている最中なのに、更にそれを追加するつもりなのだろうかと彼女は心の底から震え上がった。
「この状況、完全に同じとは言えなくとも相当近似しているとは思いませんか? 民衆を守ろうとする私と、嗤いながら次から次へと炎を嗾けた貴女。……ふふっ、その脂をたっぷりと蓄えたお身体はさぞよく燃えることでしょうね?」
アルセーナは嗤う――先月のグレイセスのように、嗜虐的に。
その悪意を浴びせられる側となった彼女は、かつて自分が浮かべていたものと同様の表情を突きつけられて、ドレスのスカートに薄い染みを作った。
「気高き炎よ、我が敵を打ち払いたまえ。――【
アルセーナの立てた人差し指の直上に、一つの火球が浮かぶ。
ぐっしょりと汗とその他の体液で身体を濡らしながら、グレイセスがいっそう強く首を横に振る。
「嫌なのですか?」
こくこくこく、と今度は縦に首を振る。
「そうでしょう。ですが、貴女はそうして許しを請うた無実の人々を、いったい何度許したというのですか? ――行きなさい!」
「ん゛ん゛ん゛ーっ!」
駆ける火球が、グレイセスの顔面へと迫る。
彼女は口枷の隙間からくぐもった悲鳴を上げて、涙や鼻水を振り乱す。
だが、一度設定された魔法の軌道は変わらない。
着弾。
「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ーっ!」
ぼふんっ、と火球が弾ける。
グレイセスの頭よりわずかに逸れた位置に、黒い焦げが刻まれた。
「冗談ですわ。私は貴女を捌くような立場にはありませんもの。けれども、これで少しは自身のしでかしてきたことの重さを理解出来ましたか? ……あら」
「むむむーっ、むぅぅぅ……」
がくり、と意識が許容できる恐怖の量を越えたのか、グレイセスは全身から力を失って気絶してしまった。
おまけに、ぐったりと身体を屋根に投げ出した彼女の足元には一つの川が生まれていた。
「……予想以上に耐性がありませんでしたわね。まさかここまで打たれ弱いとは……それも当然、なのでしょうか。あの父の庇護下にあれば、苦しむようなことなど何一つとしてなかったでしょうから。――炎よ」
散々打ち据えたとはいえ、流石にここまで乙女の尊厳を投げ出させてしまうのは心が引けたのか。
アルセーナは小さな火球でグレイセスの足元に溜まった水たまりを蒸発させた後、背中を向ける。
「さようなら、お姉さま。貴女はここで、全てが終わるまで悪夢の中で悔いていてくださいまし。いっそそのまま、醒めることなく旅立てることを願っていますわ」
思ってもいないことを呟いて、彼女はグレイセスの入ってきた場所から颯爽と屋敷の内部へ侵入していった。
残る彼女の無様に投げ出された身体には、これまでアルセーナの身体に隠されて見えていなかった民衆からの容赦ない声が浴びせられる。
そこにはあらん限りの嘲笑と罵声が、屋敷を覆う鉄柵の外から響いてくる。
「……」
それは、グレイセスがこれまでに積み上げた罪に対して向けられる、被害者からの恨みの言葉だ。
彼女はその嘆きを、悲しみを一身に受けなければならない。
当然のことで、ラストは彼らにはそうする権利があると分かっていた。
――だが、それでも。
そのように、やられたらやり返すという当たり前の感情をあらん限りに叩きつける彼らの熱気がどこか異様なものに思えて、ラストはこの場の空気をあまり好ましくないと感じていた。
「……追おう、彼女を」
ふと、ラストはエスの屋敷で読んだ古の劇の一幕を思い浮かべた。
――強欲な商人は、誠実な青年に対して金と引き換えにきっかり拳一つ分の肉を要求した。
されど、その契約に対して裁判官はきっかり指定された分だけを切り取らなければならず、他に血の一滴も流してはならぬとの決を商人に突きつけた。そして、強欲な彼は嘲笑われ、誠実な青年には拍手喝采が与えられるものとして劇は終わる。
契約に記された交換の対象は、価値が等しいものとして扱われる。
――罪と罰、それもまた、正義の天秤に乗せた時には釣り合うものとして扱われなければならないとラストは思う。
グレイセスはいずれにせよ、死を避けられぬ身だ。
その彼女が生きるものにとって最も重い命を持って償うのなら、それで十分ではなかろうか。
そこに追い打ちのように辱めを与えることが、果たして本当に正しいことのなのだろうか?
そうしなければ怒りを収められないという気持ちは、理解できる。
されど、やり過ぎた報復の炎はいずれ彼ら自身をも焼き尽くすのでは――その、なんとなく芽生えた疑問を胸に抱えながら、ラストはアルセーナを追って逃げるようにヴェルジネア邸の中に入る。
――彼が今この場で出せた答えは、ただ一つ。
もし王都で父と母に再会し、彼らを乗り越えた新世代の【英雄】になったと明確に示す時がきたとして。
彼らにあらん限りの怨みを吐き出し、ぶつけようとしたところで、
結局はお姉さんのために、醜い自分を曝け出そうとはしないだろうと言うことだけだった。
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