第169話 告白と宣言


「――さて、と」


 呼吸を整え、柔らかな夜風の中に息を潜める。

 身体に満ちようとする緊張を乗りこなし、発汗や発熱を抑え込む。

 最後に身体を満たす魂の波長をこの街ヴェルジネアに満ちる自然の魔力へと調えて、屋上に登ったラストは自分を見下ろした。


「これで彼女には僕が見えない。見えていても、意識することが出来ないはずだ」


 幻影の魔法を被って自らの外見そのものを操作するようなことはしない。

 違和感なく世界そのものと一体化したような今のラストをラストとして認識するのは、深淵樹海アビッサルの魔獣でさえ不可能な芸当だった。先ほど騙されていたアヴァルは言うまでもなく、多少荒事に長けている程度のオーレリーにも見破られない自信が彼にはあった。

 屋根の一角に腰掛けて、ラストは両手を顔の前で組む。


「……僕が最初から手出しをしたら、彼女の活躍を奪っちゃう。単に今の身の安全を考えるならそれでも良いけれど、今後のことを考ればオーレリーさんには今夜もある程度普段通りの活躍をしてもらわなきゃならない。僕がここでやるべきなのは――おっと、お出ましだね」


 ラストは、下から飛び上がってきた知った気配に口を固く閉じる。

 昇ってきたのは、全身を包む黒い衣を纏った小柄な影だ。 


「誰もいないのですね……ほっ」


 その人物は周囲を入念に二度見回してから、煙突へと一足で飛び乗った。その腰の辺りには、やや粗削りな点も見られるが及第点を与えられる程度にはきちんとした強化の魔法陣が浮かび続けている。

 ――継続して強化魔法をかけられるなんて羨ましいことだ。ラストはそんなことをふと思いながら、彼女・・に気配を悟られないまま対象の観察を続行する。

 一方、眼下に集まった人々は誰一人として影の存在に気づく様子がない。隠すものが何もない、屋敷の頂点へと立った人影――夜闇に紛れるが如き黒衣によって、その輪郭をうまく視覚が認知できないのだ。ラストとは真逆の、光学的な隠形術。

 人影が、ばっと黒布をその身から取り払う。

 内側から現れた鮮烈な深緑の輝きが、夜の世界になによりも燦然と灯る一番星として降り立った。


「――おい、見ろよあれ。アルセーナじゃないか?」

「本当だ……本当だ! みんな、今夜の【怪盗淑女ファントレス】が来たぞ!」

「むっ、居たぞ! アルセーナだっ、早く上の方に知らせろ! ――アルセーナは屋上にいるぞぉっ!」


 しかし、ラストの視線の先の少女はなにも話そうとはしない――まだ。

 偶然その姿を認めた人々の熱が伝播し、一気に最高潮へ向けて増していく。

 歓び、感動、警戒……様々な声が興奮した彼らの間で飛び交う中、彼女はそれでも無言を貫く。

 普段のような皮肉気な挨拶を口にすることなく、彼らの視線を一身に集めたオーレリー……アルセーナは動かない。


「……どうしたんだ? なんかいつもと様子が違うぜ?」

「なんなんだろ? なんで黙ってるのー?」

「俺にだって分からねえよ。分かるもんか。でも、なんか変だなぁ……」


 月明かりの下で一人祈る修道女のように、俯いて黙し、密やかに佇む。

 やがて大衆の騒々しい声は不審を伴った細かなざわめきへ代わり、鎮静化する。

 誰もが彼女の反応を期待して、余計なことを止めてその一挙一動を注視する。

 その静まり返った光景が生まれて、ようやくアルセーナは自前の可憐な唇を動かした。


「――ごきげんよう、愛しきこの街の皆様。今宵もようこそおいで下さいました」


 あえて何もしないことで相手の意識を極限まで惹きつけた上で、話しかける。存在感を植え付けるための初歩的な技術で、それを受けた人々は素直に彼女の言葉へと沈黙を保ったまま耳を傾けていた。

 だが、これはどちらかと言えば、支配者側に立つ者の使う心得だ。

 怪盗としての側面で彼女がそれを行使することにラストは一瞬だけ違和感を抱いたが、すぐに一つの仮説を立てた。

 ――いや、つまりはこういうことなのかもしれない。

 逆説的に、これはなにを使ってでも今夜の仕事を完遂させようという彼女なりの強い意志の表れなのではないか――?


「怪盗アルセーナ、ここに参上いたしました。こうして誰にも囚われることなく再び相まみえる機会に巡り合えたことを、心より喜ばしく思いますわ。それでは、直ちに皆さまのご期待に応えさせていただきましょう。と、申し上げたいところではございますが、その前に」


 人々の耳目の集中するところで、彼女は唐突に頭を己の腰よりも深く下げた。


「私は、貴方がたに謝罪しなければなりません。私の自己満足のために、皆様に多大なるご迷惑をお掛けし続けたことに。――真に、申し訳ございませんでした」


 その、彼女の口から出ると予想されたものとは真逆の言葉に人々はどよめかざるを得なかった。


「なにを言ってるんだよアルセーナ!?」

「私たちはあんたのくれた宝石のおかげで、どれだけ助かったことか!」

月の憂雫ルナ・テイアがなきゃ、俺たちの一家はとうに飢え死にしてたってのに! 謝る必要なんかどっこにもねえぞ!」


 沈黙を破り彼女を肯定しようとする民衆に、アルセーナは強く首を振る。


「いいえ。――私が盗んだ財貨は確かに皆様に一時の安らぎを与えたかもしれません。ですが、その補填として領主は皆様に更なる負担をかけました」

「それ、は……そうかも、だけど!」

「皆様の抱いた苦慮、その一部は私の浅慮が招いたことなのです。私は、ここに告白いたします。少なくともこの身は、皆様に胸を誇れるようなものではなかったということに。――そして今夜、この身を以てその罪を償うことを」

「なにを、なにを言ってるのアルセーナ……罪を償うって、いったい?」


 彼女が今夜何を為すつもりなのか、それを知らない彼らは不安に疑問の声を上げる。

 一方、ラストは納得した面持ちで彼女の宣言を聞いていた。

 やはり彼女はこの夜に、街を取り巻く大いなる破滅の運命に決着をつけるつもりなのだ――と。


「今宵、私は全てを終わらせるつもりでここへ参りました。……聞こえていますか、アヴァル・ヴェルジネア!」


 凛とした声に転じたアルセーナが、姿の見えない屋敷の主へと呼びかける。


「次に満月が瞬く時、汝の最も大切なものを頂きに上がりますーーこれが今夜私が送らせていただいた予告ですわ。……しかし、今宵貴方から盗むのは、宝石でもお金でもありません」


 彼女は宣言する、今夜淑女たる怪盗が盗み出す大いなるお宝を。


「貴方がこの街に敷いた不埒な悪行三昧、その証拠を記した書。この街の新たな始まりを告げるものにして、貴方たちの栄光に終わりの鐘を鳴らすもの。今夜の私はそれを盗みに参ったのです! 今ここに宣言いたしましょう――貴方たちヴェルジネア家が独善の果てに積み立てた虚構の栄華、その全てを! 私がこの美しき満月の下で暴き、崩して御覧にいれると!」


 いつもとは全く異なるアルセーナの大演説を人々はすぐには理解出来なくて、互いに目を見合わせて首を傾げた。

 彼女の謝罪と大胆不敵な宣言を同時に受けた彼らは、一時的な混乱に陥っていた。

 その中で動くことが出来るのは、そう、彼女の言葉に囚われないような人種だ。

 例えば、他人に耳を貸すことなく、暴走した猪のように唯我独尊で突っ切ることしか知らないような……。


「なにをごちゃごちゃと――炎よ! 我らが尊き青き血に服従せよ、我が意に反逆せし愚者を焼却し万人の見せしめにするがいい! 【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】!」


 静寂を切り裂く火焔流が、夜闇をさかしまに駆け昇る。

 自身に迫る業火を、アルセーナはその場から飛び降りることで回避した。

 ひらりと煙突から屋根に降り立った彼女に、爪に朱塗りの施された第三者の肉厚な人差し指が突きつけられる。


「ここで会ったが百年目よ、小娘ぇ! 今日と言う今日こそは逃がすものですか、火炙り――いえ、真っ黒焦げの炭になるのを覚悟することね!」


 耳にキンキンと響く声の正体は、グレイセスだ。

 今日も今日とて破裂寸前の腸詰のような身体を細いドレスに無理やり押し込めた姿で、アルセーナへとがなりたてる。

 そんな彼女にふてぶてしい笑みをぶつけながら、怪盗もまた舌で応戦する。


「ええ、貴女の方こそお覚悟を。放っておいてこの間のように皆様を傷つけさせるわけには参りませんもの、まずは貴方から喜んでお相手させていただきましょう。ですが、本日の私は逃げ惑うばかりではないことお忘れなく」

「なにを一丁前に、私と張り合えるつもりなの!? なんて傲慢だこと! 良いでしょう、その思い上がり、正してさし上げますわ! 精々あの世で嘆き悔いることね!」

「悔いるのは果たしてどちらでしょうか――やれるものなら、どうぞご自由に」

「小癪なっ!」


 人々が未だアルセーナの宣言をうまく呑み込めないままに、最初の戦いの火ぶたが切って落とされる。

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