第168話 その微笑みは誰へと向けられるのか
主の意向によって闇夜を染め上げんばかりに輝かせられ、昼間の如き様相を呈するヴェルジネア邸。
その、
「いいか、決して手抜かるな! 例えなにがあろうとも貴様らは貴様らの役目を果たせ! お前たちがこれまで私の恩恵に与ることが出来ていたのは、全て今日この日のためだ! いくら元は平民とは言え、その程度も分からぬ愚鈍な輩ではなかろう!」
彼は手すりに身体を預けて上半身を乗り出し、興奮のままに大きく拳を天へと振りかざす。
僅かにこけた頬を不気味に紅潮させ、唾を飛ばしながら激励とはほど遠い罵声紛いの言葉を部下に浴びせるその姿は、人の上に立つ者としてはまさに愚劣と評さざるを得ない。
アヴァルが平然とそのように在るのは、彼が自分を客観視することを知らないからだ。自分の主観こそが絶対であり、それに周囲が従うのが当然なのだから――アヴァルとその一族は、自分がもし同じ扱いを受けたならばどのような思いを抱くか……などとは露ほども考えたことがない。考える必要が、その機会がなかったのだから。
「……けっ、知ったことかよ。面倒だな、どうせ俺たちじゃ怪盗なんてどうしようもねえってのに」
「あんなこと言っといて、要するに黙って力貸せってことだろ? 一々言うことが鬱陶しいんだよな」
彼の元へ馳せ参じた百余名の騎士たちは、誰も彼もが不愉快そうな表情を浮かべていた。
元より忠誠心や礼儀を欠片も持ち合わせていない上辺だけの騎士だからか、その内心が顕著に外側へと表れる。
睨みつける、陰口を叩く。分かりやすく地面に痰を吐き捨てる者もいた。
「――やかましいわっ!」
己の背負う貴族の栄光を悟ることも出来ない連中にその威光を知らしめるべく、アヴァルが腰の剣柄に手をかける。
「今こそが、貴様らの皆無に等しい存在価値を私に示すことの出来る唯一無二の機会と知れ! なんとしてでもあの怪盗を名乗るコソ泥を捕らえ、我が目前に引き摺り出せ! ……それが出来ないなどと申すような不心得者がこの場にいるとすれば、須らく我が魔剣の前菜としてくれる!」
しゃらん、と白銀の魔剣が解き放たれる。
たったそれだけのことで、場の空気が二度か三度ほど冷え込んだ。
「おいおい……なんだよ急に。なんだよ、ありゃあ!?」
「やべえ……急に肌寒くなってきちまったぞ……? あのやべえ感じの剣のせいなのか?」
ただ姿を見せるだけで、生意気な者たちの態度が一変して大人しくなる。
アヴァルは自分の腰から抜いた
「ふははっ、そうだ! それこそが貴様らの在るべき姿だ! 理解出来たのならば、ただ粛々と従うが良い! 私の命令に従い、ことを為せっ!」
本能的に危険を直感して恐れおののく哀れな配下の姿を見ながら、彼は瞳に愉悦と侮蔑の半々に混じった光を浮かべる。
――そも、アヴァルはこの対
脳は足りなくとも、力だけは見所がある。故に少しは使える手駒として目をかけてやったというのに、いつの間にか主の知らないところで役立たずへと変貌していたとはどういうことか? 失望が怒りを呼び、アヴァルは彼らを処分してしまうことも一時視野に入れていた。
――だが、役立たずだろうと、まったく使い道がないわけではない。
アルセーナ戦を前にして出来る限り考えを巡らせていたアヴァルは、なんとなしに思いついた。
「これより貴様たちは屋敷の内部に散らばり、怪盗を発見したら声を上げよ! そして、捕まえられずともその場になんとしてでも止め置け!」
今宵、アヴァルが彼らに与える役目は鳴子である。
これまでのような、騎士たちが束になれば怪盗を捕縛できるという考えは捨てていた。彼らはただ、その物量で以てアルセーナの神出鬼没性をある程度打ち消す程度で良い。
攪乱、翻弄、奇策……それらを駆使する怪盗をまずは
そして、最後に満を持して登場したアヴァル本人がユースティティア大金貨一千枚も払って手に入れた絶世の魔剣でアルセーナを一刀両断する。
――これが、ヴェルジネア家当主の描いた筋書きだった。
あまりに彼にとって都合の良すぎる台本であり、現実はそううまく行くわけがないのだが、彼はその成功を一切疑っていなかった。
自分はこの街の頂点に立つ存在であり、かくも素晴らしき魔剣を携えている栄えあるアヴァル・ヴェルジネアなのだから――と。
その揺るぎない自負心が、アヴァルに本来の実力を大きく越えた自信を与えていた。
「手を失おうと、足を失おうとも、齧り付いてでも奴を引き留めろ! 私がお前たちに求めるのはそれだけだ! もし、奴を捕らえられたというのならば、その時には金貨百枚を進呈してくれる! 欲しいのならば死ぬ気で励め、さすれば万に一つの確率で叶うかもしれんぞ! ふははっ、ふははは――っ!」
主役を気取って哄笑するアヴァルに、騎士たちは魔剣に怯えながらも内心ではふつふつと苛立ちを覚えていた。
しかし、金を目の前に餌の如く吊るされたならば話は別だった。
彼らはすぐさま、媚び諂うように屋敷の各所へと散っていく。
よくよく考えてみれば、主の言動に腹が立つのはいつものことだ。今日はそれが少しばかり度を越しているだけであり、それをちょっと我慢するだけで平民には手に余るほどの金が与えられる。
それを思い出した騎士たちは単純な金銭欲に思考が満たされ、先ほど受けた暴言のことなどさっぱりと忘れて与えられた職務に励もうとする。
その姿を見て満足したアヴァルは自らも怪盗の出現に備えるべく、マントを翻して屋敷の中へ戻った。
高揚した気分のまま、宝石の埋め込まれた靴で廊下の赤絨毯を踏み躙るように乱暴に歩く。
「ふん、今日こそ目にもの見せてくれる……そう言えば奴の姿が見えんな。ええい、あやつはどこで油を売っている!」
「はい。僕のことでしたら、ここに控えさせていただいておりますが」
主語の省かれた呼びかけに正しく応え、ラストがアヴァルの右斜め後ろに気配を現わした。
デーツィロスから三分もかからず到着した彼は、ちょうどアヴァルが部下の鼓舞には不適切に過ぎる演説をぶちまけている所に出くわし、邪魔をしないようにと静かに傍に控えていたのだった。
返ってくるとは思っていなかった返事が返ってきたことに、アヴァルは驚きのあまり興奮がぴたりと収まってしまった。
「ぬおっ!? 貴様どこから――いや、どこでも良い。これより私は奴が狙うであろう場所へと赴く。だが、お前はついてくるな。別のどこかで……そうだ、怪盗が最初に姿を現わすであろう屋上で備えていろ」
「お傍についておらずともよろしいのですか? あえて別れなくとも、二人でかかった方が勝利の確率が上がると思うのですが」
「たわけ、あの場所は貴様如きが足を踏み入れて良い場所ではない! ……いや」
急に言葉の尻を窄めたアヴァルが、迷いに百面相を浮かべた後に首を振る。
「……ううむ。やはり、貴様がそれが最善と思うのならば、そうするが良い。気に食わんのは事実だが、私は心が広いからな。平民の我儘の一つくらい、受け入れてやってもよかろう」
ここでラストの機嫌を悪くすれば、またもや魔剣を奪われかねない。
それだけならばともかく――とは言っても、アヴァルの肥大化した自尊心を大いに傷つけられる屈辱的な行為であることに十分間違いはないのだが――ここまできてへそを曲げられて、彼に協力を取り下げられるわけには行かなかった。
「いえ、構いません。アヴァル様がそう望まれるのであれば、その通りにいたしましょう」
ラストは自分の意見に拘ることなく、素直に引いた。
思わず問い直してしまったが、彼には無理にアルセーナに不利益をもたらす提案を通す必要はなかった。
アヴァルがあえて自身の有利を減らしたいというのならば、邪魔をすることもない。
「よく言った。それこそが貴様らのあるべき姿だというのに、他の愚図どもと来たら……ちなみに聞いておくが、準備に抜かりはなかろうな?」
「もちろん、万全でございます。この剣には万に一つの揺るぎもありません」
「結構。……まったく、それに比べてリクオラめ。今日と言う大事な日にも関わらず、前祝いだと称してしこたま酒を飲みおって。酔った挙句、立ってもいられないとは……」
あからさまな安堵を見せたアヴァルが、姿の見えない長兄をなじる。
それもそのはず――長兄リクオラは今、酒の飲み過ぎで立ってもいられないほどに酩酊してベッドで横になっている。
普段の言動が言動なだけに、アヴァルは彼の自己管理力の低さのせいだと決めつけて苛立っていた。
――しかし、アヴァルの側に立つより先にこっそりと一族の全員の様子を窺ってきていたラストは隠れた事実を知っていた。リクオラのグラスに、酒精が身体に回りやすい薬がこっそりと盛られていたことを。
彼の部屋に残されていたグラスの底には、溶け切らなかった粉末が沈んでいた。その正体は、血管を拡張させて酒精の巡りを早くする媚薬だった。酒に惚れ込んだ男との悪名を持つリクオラがそのような飲み方をあえて行う理由がない。
間違いなく、オーレリーが仕込んだものに違いないとラストは判断していた。
「まあ、あやつが役に立たんのはこの間と同じだ。……ふはは、構うものか。いずれにせよこの魔剣の力で、今日ですべて終わりにしてくれる」
そう言って、アヴァルは堪えきれない嘲笑を滲ませながらラストから遠ざかって行った。
彼は決して口にしなかったが、ラストはその向かった先にある秘密の部屋の正体が地下の宝物庫であることなどとうに知っていた。
とはいえ、今日のアルセーナは宝物を狙っているわけではないのだが……本当に彼女が欲しいものは常に彼が身につけているため、結果的にそこが彼女の狙う場所になったことには変わりない。
的外れな予想が事実に変わってしまった偶然を面白く思いながら、ラストはふと、空に浮かぶ月を見上げる。
「さて、あの月が微笑むのは誰なんだろうね。僕か、オーレリーさんか、それともアヴァル氏か」
――彼と同じく、他の人間もまた空を見上げていた。
オーレリーの姉であるグレイセスは、濃い塩味のついた干し肉を齧りながら。
「今度は絶対に逃がしてなるものですか! 私の高貴な魔法で焼き尽くしてくれますわ!」
長兄リクオラは酒精と吐き気で顔色を赤と青に切り替えながら。
「うろろろ……ははっ、空に巨大な赤葡萄が浮かんでる。今日は赤葡萄酒だな――」
次兄セルウスは表情のない部下を複数人付き従えて、傍に立つ一際小さな影を撫でながら。
「さあて、今夜は特別良いことが起こる、そんな気がするな。そうだろう、お前たち。新たな仲間を迎える準備を整えておけよ?」
母パルマはベッドの上でシーツを何重にも被って、懐に宝石の詰め込まれた小箱を大量に抱えて。
「ああ、恐ろしい、これだけは決して、奪われてなるものですか……」
――そして、オーレリーもまた、月を見上げながら密やかに詠う。
「今日で全てが終わるのです。さあ、最後の夜会と参りましょうか。――風よ、我が真意を覆い隠したまえ。月よ、我が偽りの姿を照らしたまえ。小鳥のさえずりは
部屋の窓の縁に立った彼女の色が、反転する。
翡翠の瞳が、琥珀色へ。琥珀色の髪が、翡翠を溶かしこんだような髪へ。
暴虐の支配を意味する色から、オーレリーは反逆の狼煙を上げるアルセーナの色合いへと転じる。
不敵な笑みをたたえながら、彼女は準備していた服を纏っていつものように夜空へ飛び立った。
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