第167話 風は流れ、月は三度満ちる


 ラストとオーレリー、アルセーナとヴェルジネア。

 それぞれの相容れない信条と思惑が緻密に交錯し、思考の糸が絡み合って先が見通せないまま、それでも当事者たちは漠然と感じ取っていた――此度の満月が、全ての運命を決めるのだと。

 彼らが己なりに行動を起こす中で、街の雰囲気もまた移ろう。

 そこに生きる人々は、肌を撫でる風が日に日に異様な重みを増していくことを敏感に悟っていた。


「……嫌な風だ、今日はもう店じまいだな」


 迎えた満月の日。デーツィロス唯一の料理人である老爺シュルマは、がらんどうになった店の中を見て白帽を脱いだ。

 誰もが皆、アルセーナの活躍を目にしようとヴェルジネア家の屋敷に駆けつけているのだ。

 特に、今夜は普段と違う何かが起こるに違いない――そんな予感を胸に抱いて。


「そうですね。私達年寄りには厳しい風です。かつて血で血を洗うような争いが繰り広げられていた世代交代時の不安定な時期には鬱屈とした鉄臭い風に肩を重くさせられたものですが、それと似ているようで、なにかが異なります。この風の吹く先に良いことが待っているのか、それとも悪いことが待っているのか、まったく判別がつきません。……ラスト君、貴方も今日はお屋敷に向かうのでしょう?」


 目元に小皺を一つどころか三つほど増やした老婆エルマが、店の制服を脱いで着替えていたラストを見つめる。


「貴方がアヴァル様のお話を受け入れて、なにを考えているかは知りません。しかし、どうかお気をつけなさい。今日の騒ぎは、なにかが普段と違います」

「御忠告痛み入ります。ですが、僕は大丈夫ですよ。お二人は安心して、明日の準備をしておいてください。……行ってきます」


 差し伸ばされた彼女の細い腕をそっと握って、彼は店の外へ出た。

 身に纏うのは街を訪れた時と同じ、未来の【英雄】としての一張羅だ。

 何にも染まらないことを示す純白のローブをはためかせ、全身の動きを阻害しない伸縮自在の素材で作られた戦闘着の感覚を確かめる。

 肌に吸い付くように密着した衣は、エスお手製の魔道具と言うだけあってラストに違和感の一つも感じさせない。

 久々の戦闘の機会と言うこともあって、彼は人が出払っているのを良いことに、大通りを自由に使って念入りに準備運動を行う。筋肉をほぐし、身体を暖めながら、視線の先に佇むヴェルジネア邸を見据える。

 たっぷりと焚かれた篝火に照らされたかの屋敷は、地上の太陽と見紛うほどに煌々と輝いている。

 ――今宵、彼と彼女アルセーナはその輝きを完膚なきまでに地に堕とす。

 それはラストにとっては既に決定づけられた運命であり、どうでも良かった。

 問題はむしろその後。

 堕ちた栄光の中から、真の月女神オーレリーをヴェルジネアの空に冠させることが出来るのか。


「やってみせるよ、必ず。君の吹かせる希望の風に乗って、僕は君も未来へと連れていく。だから覚悟していてくれ、アルセーナ。君を倒して、僕はオーレリー・ヴェルジネアの迎えるべき死の運命とやらを覆すさ」


 見上げれば、欠ける箇所の一切無い美しい満月が夜空を照らしている。

 下界の諍いなど知ったことかと冷然と浮かぶ、かの巨瞳に見せつけるようにラストは宣言した。


「誰かに与えられる運命なんて知ったことか。僕は、僕たちの望む未来を掴んでみせる。これまでも……そして、今夜もね」


 柔軟体操を終えたラストが、限界まで引かれた弓から解き放たれた矢のようにヴェルジネア邸へと駆け出した。

 幾多の苦難を越えて世の決めた宿命に抗い続ける彼の背中を、変わることのない月が見下ろしている。


 ――そして、生まれながらにして決定づけられた貴き天命を自称する者たちの背中をも。

 いつでも手放すことの出来る、終わりに向かう宿星を自ら背負う淑女の後髪をも。


 月は等しく、眼下に収めている。

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