第166話 この親にしてこの子あり
「せっかく未来の兄が気を利かせてやったというのに、生意気だな。ああ、胸の奥の方がもぞもぞとしてきたぞ……これは、そうだ。蛆虫に心臓を外内構わず這い回られてるみたいな、寒気立つほどに不愉快な感じだ」
全身をぶるりと震え立せながら、セルウスが自分を見ているラストの目を覗く。
「その眼……そう、その眼だ。それが何よりも気に食わないんだよ……」
悪を知らず、人の善性だけを信じる純真無垢な子供とはまた違う。
この世の覆せない困難を知ってなお敢然と立ち向かおうと揺るぎない覚悟を示す、アルセーナと同じ瞳。
叶うはずもない夢に向かって足掻こうとする彼らの星のような瞳を見ると、セルウスは無性に腹が立ってしまう。
――その輝きを、自分と同じ奈落の底にまで引きずり落としたくなってたまらない。
「アルセーナに見られた時は、そりゃあもう屈服させたくて仕方がなかった。この綺麗ごとをのたまう女が快楽の沼から抜け出せなくなった時に、俺の名前を愛おし気に呼ぶ……それを想像すると、全身が恍惚と悦ぶのさ。――だが、男にそれを向けられたら駄目だ。苛立って苛立って、肉片になるまで潰したくなってくる。そうだ。親父殿はもう試したんだろ? だったら、この俺も少しばかり試してやろうじゃあないか」
邪魔そうに、セルウスが目元にまでかかっていた長い前髪を左の手で掻き上げる。
それと同時に、彼の反対の手が毒蛇が鎌首をもたげるようにゆったりと持ち上げられた。
「【
「――いい加減にしろ、セルウス!」
ラストに向けて開いた手の先に魔力の輝きを湛えさせ始めた息子を、ここまですっかり蚊帳の外に置かれていた部屋の主が怒鳴りつけた。
声と揃えて机に叩きつけられた父の拳の音に集中力を途切らせてしまったのか、魔法陣を構築しようとしていたセルウスの魔力は風に流されるように周囲へと霧散した。
きちんと閉め切られていなかったインク壺の蓋が衝撃で跳び上がり、中身が僅かに机の上に零れ落ちたのにも構わず、アヴァルは唾を飛ばさんとする勢いで捲し立てる。
「実力ならば既に試した、それで十分だと私は言っただろう! 父の判断にけちをつけるつもりか、女遊びにふけるばかりでまともな嫁ぎ先も学園で見つけてくることの出来なかった愚か者の分際で!」
「おいおいおい、そんなことまで言わなくても良いだろうに。ってか、なんでそこまで怒るんだよ。俺はただ、ちょっとばかり味見してみようと――」
普段は金のこと以外にあまり執着しない父の珍しい反応に不思議そうにするセルウス。
だが、アヴァルの怒りは簡単には収まらないようだった。
「ほう、味見か。この間アルセーナを追い詰めたからと執務室をやたらと壊したのを不問にさせておいて、その傷跡も忘れられない内にこの部屋まで壊そうとするか。あれの修理にどれだけかかったと思っている? またやらかそうというのなら、今度は前の部屋の分も含めてお前の小遣いから天引きにするぞ!」
彼の吠えるような警告を聞いて、セルウスはそれは勘弁と両手を上げて降参の意を示した。
「おおっと、それをされたら一年近くも新たな奴隷を仕入れられなくなってしまうじゃないか。……分かったよ、俺が悪かった。だから小遣いなしは勘弁してくれよ、親父殿の目を疑うようなつもりは決して、これっぽっちもなかったんだ。本当だぜ」
どうやらお小遣いとラストへの制裁を比べた時、彼の中では前者が勝ったらしい。
ラストへの激情は、既に組み立てていた今後の買取計画を崩すほどのものではなかったようだ。
反省の様子を見せた次男に、アヴァルはふんと機嫌が悪そうにしながらも腕を戻して胸の上で組み直す。
それ以上怒鳴られることもないと分かったセルウスは、すっかり元の飄々とした顔つきに戻っていた。
「ふぅ、やれやれ……それにしても、今日はやたらと気分が悪くないか? そんなにもこの平民の実力を認めたってのかよ? 俄かには信じられないし、俺だけじゃなくって他の家族だって……」
「答えてほしいか。ならば金貨百、いや三百枚だ」
「おおう、そこまで真剣に拒否られるとはな。こいつは相当悪いことがあったと見た……ああいや、これ以上はなにも聞かねえよ。だから天引きは止めてくれって」
ぎろりと整えられた眉の下で、アヴァルが有無を言わさぬ鋭い眼光を覗かせる。
これ以上関わろうとすれば今度こそ来月分の金が取り上げられてしまうと、父の本気度を感じ取ったセルウスはそそくさと部屋の出口へと歩き出した。
その近くにいるラストとの距離を縮めながら、最後に彼はやけに切羽詰まった様子の父を茶化すようなせせら笑いを浮かべた。
「これ以上ここにいる気も失せたし、ここは退散させてもらうのが最善と見た。つーわけでじゃあな、親愛なるお父様とクソを百倍くらい煮詰めたくらい真面目なオーレリーの騎士さんよ。ここで
「セルウスッ!」
「おお怖。んじゃ行くぞ、お前らもいつまで立ちっぱなしでいるつもりだ。さっさとついてこい」
颯爽と扉の向こう側へ姿を消したセルウスに命令され、従者の少女たちもまた密やかな足取りで出口へと向かう。
彼女らは主とは異なり、ラストの側へ近づいた折にきちんと頭を四十五度下げてから退出していった。
その礼儀正しさは実に静謐であった――人間らしさを一切感じさせない、陶器で作られた人形のような印象を抱かせる完璧な動作には、暖かみの一つもなかったが。
「……?」
彼女らの身体が動いて空気を波立たせると、蜂蜜を何百倍にも濃縮したかのように甘ったるい匂いがラストの鼻の粘膜をくすぐった。
それに一瞬眉を潜めた彼に、アヴァルが変わらない不機嫌そうな顔つきのまま話しかける。
「気を悪くしたか。だが、あれは生来ああいう息子だ。これから先何度も屋敷を訪れるつもりならば、自然と顔を合わせる機会も多くなる。慣れろ。諦めるか、覚悟を決めるかのどちらかだ」
そう、アヴァルは他人事のようにため息を吐いた。
しかし、そのように教育したのはどこの誰だろうか――その問いを、ラストは飲み込んだ。
「……肝に銘じておきます」
他人を軽んじ続けたその果てに、最終的に責任を取るのは紛れもないセルウス本人だ。
だが、本人をそうあっても良いのだと育てた無責任な親にもまた、責任の一端があるのではないか。
それをまるで関係ないかのように語るアヴァルが、ラストの子を交渉の道具として軽く扱おうとしたセルウスの軽薄かつ酷薄な笑みと不意に重なる。この父にしてあの息子あり、そんな言葉が浮かんだ。
――ならば、自分もいずれは息子を単なる出来不出来の物差しで測る時が来るかもしれないのだろうか?
「っ」
そんな馬鹿馬鹿しい予感が浮かんで、ラストは舌の内側を強く噛んだ。
それを振り払うように、ラストは心にもない言葉を口に出しながらアヴァルへと意識を向けた。
「お気遣い、誠にありがとうございます」
「うむ。それで、本題は何だったか。あの馬鹿者のせいで忘れてしまった……ああ、そうか。用が済んだのを告げに来ていたのだったか。それで、何らかの成果はあったか?」
「いえ。申し訳ありませんが、此度だけではなんとも申し上げることが出来ません」
「む。……いや、構わぬ。元よりお前にそちらの方面は期待していない。怪盗が現れた折にそちらへ急行し対処すれば、それだけで良い」
「はっ。つきましては、もう何度か訪れさせていただきたく……」
「好きにせよ。では帰るが良い、私も暇ではないのだ」
「それでは、また日を改めて訪れさせていただきます。アヴァル様におかれましては、次にお会いする時まで、どうかご壮健であらせられますよう……」
頭を下げながらじりじりと引き下がり、ラストは部屋を後にした。
赤いビロードの絨毯の敷かれた廊下の端を玄関へと向けて歩きながら、彼は廊下に漂う甘い残り香に鼻をひくりとさせる。
「――さて、彼女たちのこともどうしたものかな」
ラストの頭の中にあったのはアヴァルの健康などではなく、先ほどすれ違ったセルウスの配下である少女たちの身体のことだった。
魂を凍らせられたかのように感情を表に出さない彼女たちのこともまた、ヴェルジネアの改革の上で考えなければならない。
全てを終えた時、彼女たちになにをしてあげられるのか――ラストは彼女たちのために、なにを為すべきなのか。
それに対する思考を深めていくうちに、先ほど抱いた不安はいつの間にか彼の脳裏から消え失せていた。
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