第162話 約束は誰と交わしたか


「それで、その直剣の切れ味は満足のいくものでございましたか? ただならぬ雰囲気を放っているようですが、この首の皮一枚すら斬れぬのではどうやら見掛け倒しに過ぎなかったようですが」

「なにをっ、戯けたことを……勝手に申すなっ!」


 地面に膝をついた状態でラストを見上げていたアヴァルが、怒りに眼を限界まで見開く。

 濁った汚泥のような毒々しい緑の瞳に魔力を滾らせ、吠えた。


「平民のくせに、少しばかり運に恵まれたからと調子に乗りおって……良かろう! ならば望んだ通り、我が魔剣の真髄を今ここで披露してくれる。余計な衆愚諸共、貴様を実験台にしてくれ――」


 アヴァルが上半身の支えにしていた【雪銀剣アル・グレイシア】に力を篭めようと奮起する。

 魔力を込めた大氷塊の雨を降らせて、平民ラスト相手に膝を屈したという大失態を知ることになったこの場の全員を纏めて消し去ろうという魂胆のようだ。

 しかし、彼が固く握りしめようとしていた柄は、気づいた時には既にその掌中から消え失せていた。


「――うぉぉっ!?」


 魔剣の解放が空振りに終わったのを自覚した途端、杖の代わりを失ったアヴァルの身体は前へと倒れ込んでしまった。

 腕を挟む間もなく、強かに顎を地面に打ち付けたアヴァル。

 彼がひりひりと痛む顎を擦ろうとするより先に、その鼻の先に消え失せた氷雪の刃が突き立てられた。


「――ひっ……」

「その台詞は聞き捨てなりませんね、アヴァル様。御身が私にいくら斬りかかられようと大したことではないのですが、周りの皆様を巻き込むとなれば見過ごすわけには参りませんでした」


 下手に動こうとすれば自ら刃に顔を当ててしまいそうな距離。

 それを恐れたアヴァルが、瞳だけをそろりそろりと声の放たれた上方向に向ける。

 そこでは柄尻に手を重ねて直立不動の姿勢を取ったラストが、いっそう冷え込んだ地獄の最下層を思わせる瞳で彼を見下ろしていた。


「なっ……なっ……?」


 実際の身分的地位から逆転してしまった上下関係を思わせる立ち位置だが、アヴァルはすぐに生意気だと身体を起こしてラストに張り合うことが出来なかった。

 いくら平民が貴族である自分に従順な犬だと考える彼であっても、この状況で同じ態度を取ることが出来るほどの楽天家ではなかった。散々剣で斬りつけた相手が、たとえ未遂に終わったとはいえ、優勢となったこの場面でアヴァルに一切の報復を行わないとは考えられなかった。

 また、アヴァルはラストの瞳に底知れぬ意志の強さが揺蕩うことに気づく。

 自らの尊大な態度の根拠となる身分という社会の絶対的な区分を、ものともしない信念の強さ。

 自分の正しさと言うものがラストにはまったく通用しないのだと、アヴァルは今更ながらに理解した。

 ――となれば、今やアヴァルの安否は全てラストの手に握られているのではないか?

 そのような妄想が頭を過ぎり、アヴァルは未だかつてない恐怖に肝を大きく冷やした。


「おっ、お前……にゃにを……なにを、しゅるつもりだ……?」


 彼が予見したのは、アヴァル本人が振るったのと同じ数だけの斬撃が降り注ぐ光景だった。

 顔を青く染めながら、もつれかける舌をなんとか動かすアヴァル。


「なにを、と仰せられても。私は特になにかを為すつもりはございませんが」


 ラストは彼の想像とは真逆に、一度魔剣をアヴァルから離れた別の場所に移動させた。

 更にはアヴァルの肩をそっと自らの腕で支えて、立ち上がらせてみせた。


「な……なんの、つもりだ……?」

「いつまでも領主様が地べたに這い蹲る状況は好ましくないかと思いまして。お借りしていたこちらの剣もお返しいたします」


 そのまま片膝をつくという最初の姿勢に戻ったラストが、先ほど見せた冷徹さが嘘のように、恭しく【雪銀剣アル・グレイシア】をアヴァルへと差し出した。

 それを彼が罠かと思いながらも恐る恐る掴むと、ラストはなにをすることもなく手を引っ込めた。

 これで状況は完全に元に戻ったことになる。

 魔剣は今、アヴァルの手の中に握られている。このまま魔力を流して氷の槍を落下させることも出来るように思えた。

 だが、彼は再び魔剣の効果を実験しようと目論むことは思わなかった。

 力を振るうより早くラストにまた恥をかかされるのかと思うと、アヴァルの身体が反射的に竦んでしまい、頭の言うことを聞こうとしないのだった。


「――頭はお冷えになられましたか?」

「う、うむ……」


 ラストの言葉に小さく呟くことだけが、今のアヴァルに出来る精一杯の反応だった。

 当初の肥大に肥大を重ねた自尊心は、すっかりなりを潜めている。

 萎縮するアヴァルと確固たる態度を露わにしたラストは、頭の位置こそ後者が下であるとはいえ、実際の力関係は真逆のように周囲からは見えていた。

 話の主導権を握るラストは、頭を垂れたまま自分から話を纏めにかかった。


「先ほどもお答え申し上げたように、貴方様の騎士となることは出来ません。私の騎士道はオーレリー様に捧げましたので。また、彼女と結ばれることについても同様です。……しかし、【怪盗淑女ファントレス】を捕まえるという一点については、微力ながら協力させていただく所存にございます」


 その提案に、周囲の人々が騒めく。

 それを無視して、彼らと同じく驚きを顔に張りつけたアヴァルが確認する。


「……それは真か?」

「はい。この街を騒がせる怪盗は、人々に利をもたらしているように見えて、その実彼らを苦しめる敵にございます。それすなわち、我が敬愛するオーレリー様の宿敵でもあるということになるのです。もとより、アヴァル様の本来の目的は怪盗の排除なのでしょう? 私を騎士とすることは二の次のはず。ならば、此度はこちらでご満足いただけないでしょうか?」


 相手に了承の判断を委ねる形の提案とはいえ、実質的にアヴァルは自分が頷くことしか認められていないように思えてならなかった。

 とはいえ、ラストの分析もあながち間違ってはいなかった。

 【怪盗淑女ファントレス】という目下最大の悩みさえ排除してしまえば、ラストを騎士として抱える必要はなくなる。その他の問題はこれまで通りの戦力で十分に対処出来るものであり、余計な食客を抱えずに済むのであればそれでも良い――と、彼は自身の苛立ちに波打つ心を納得させた。


「……良かろう。ただし貴様が怪盗の排除に失敗した暁には、今度こそこの魔剣の餌食にしてくれる! そのことを努々忘れるな!」


 貴族らしい優雅さなど欠片もない負け惜しみを吐き捨てて、アヴァルは鞘に納めた魔剣を持って遠くに待機していた馬車の方へと早々に立ち去って行った。

 乗り込んだアヴァルに小窓からがなりたてられた御者が、慌てて馬の尻に鞭打って車を急がせる。

 がたんごとんと父娘揃って同じような逃げ足で退散していく光景に、立ち上がったラストは苦笑を溢す。


「……ああ、忘れはしないよアヴァル・ヴェルジネア」


 ――もっとも、覚えていた所で意味のない約束になると思うけど。

 そう、ラストは心の中で締めくくった。

 ラストが怪盗の捕縛に失敗したところで、その時アヴァルが彼を罰することが出来る立ち位置にいるかどうかは別の話だ。

 彼は、オーレリーは恐らく次の満月で全てに決着をつけるのだろうと予測している。

 アヴァルの秘密についての手掛かりを与えてから間もなく送り付けられた予告状の存在から、オーレリーの気合の入れようが伺える。

 全てを彼女が手にした暁には、アヴァルは牢屋の中で鎖に繋がれることになる。悠長にラストへ魔剣を振るうなどといったことは叶わないに違いない。


「ねえ、ラスト君。あれ・・が怪盗を捕まえるのに手を貸すって本気なの?」


 意味のない約束をラストが頭の隅に追いやっていると、先ほど案内しようとした女性客の一人が彼に話しかけた。

 彼女たちからしてみれば、【怪盗淑女ファントレス】はこの街に光をもたらす存在だ。

 ラストは普段からそこらの雑魚――普通の人間にとっては十分な脅威に値する騎士たちを薙ぎ倒し、たった今、巨戦斧を振るう二人の名高い騎士をもあっけなく倒してみせた。

 そのような彼に怪盗の活躍を阻害されることに危機感を覚えたのか、彼女は不審げな眼をラストに向ける。

 また彼女だけではなく、街行く他の人々もラストのことを疑っているようで、じろじろと見つめながら彼の答えを待っている。

 ――怪盗としてのオーレリーが心底愛されていることを嬉しく思いながら、ラストは彼女の杞憂に対して首を横に振った。


「いえ。別に、僕は手を貸したりはしませんよ。アヴァル様が約束をしたのは僕ことラスト・ドロップスではなくて、ラスナニガシさんとか言うどこかの誰かのようですから。先ほどの怪盗についての考え方も適当にその場の思いつきを並べ立てただけですし、僕が彼女の邪魔をするつもりはありません」

「本当? なら良かったわ……」


 その言葉に安堵する彼女らを前に、ラストは本当に今度こそデーツィロスの扉を開いた――。


「さて、そのようなつまらないことよりも、今はこのひと時をどうぞお楽しみくださいませ。本日の料理も、お客様の舌を喜びで満たすものが揃っておりますから」

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