第156話 境夜の密会


 百戦錬磨の商人らと主不明の女従者プリミス、それらと立て続けに会談したオーレリーは肉体面からも精神面からも大いに疲弊していた。


 日頃から細々とした心的重圧を自身にかけ続けていたことも大いに影響したのだろう。


 溜め込んだ体表上の汚れを落とした彼女は、そのまま昼間からぐったりと泥のようにベッドへ身体を横たえたかと思えば、夢よりも深い睡魔の住処へと意識を引きずり込まれていった。


 そして、次の日の朝になってようやく目を覚ました彼女は、ふと朝食の折にこの一週間近く孤児院へと赴いていなかったことを思い出したのだった。


「――こんにちは、皆さま。怪我無く元気に過ごしていましたか?」


 彼女が孤児院の敷地の入り口にあたる巨大な鉄門を潜ると、前庭で雑草をむしっていた子供たちが声を上げて出迎えた。


「あ、お姉さんだー! もー、久しぶりで寂しかったんだよーっ!」


「ええ、申し訳ありません。少々忙しかったものですから。そのお詫びになるかは分かりませんが、お菓子を持って参りました。お仕事お疲れさまです。そろそろお茶と一緒に甘いものでも食べて、休憩のお時間にいたしませんか?」


 近寄ってきた男の子の一人に、彼女が抱えていた手土産の籠を預ける。

 隙間から漏れる良い香りに我慢が出来なかったのか、彼が上の覆いをちらりと捲った。

 そこから覗いたのは、オーレリーが実家の厨房から拝借した蜂蜜と卵をたっぷりと使った焼き菓子だ。

 手を近づけるとまだほんのりと暖かく、香ばしい匂いが風に乗って周囲に漂う。


「美味そうだなっ、いただきまー……」


 なおさら他の子供を待てなくなった子が伸ばそうとした手を、オーレリーがそっと押し留めた。


「こら、いけませんよ。まずは手を洗って、その土を落としてからですわ。早く食べたいのなら、その分早く準備を済ませてくださいな」


「げっ、はーい……おーいお前ら、姉ちゃんが美味そうな食い物持ってきたぜー!」


 ばつの悪そうな顔を浮かべた少年は、伝令役も兼ねて一足先に教会の中に戻っていった。


 その微笑ましい様子を他の子たちと見送りながら、オーレリーは肌を撫でたそよ風に、日光を防ぐための白くつばの大きな帽子を上から押さえた。

 今日も、彼女の愛するヴェルジネアには素晴らしい風が吹いている。


「まったく、はしゃいじゃって……これだから男の子は」


「それじゃあ僕は草を纏めてくるよ。お姉さんは皆と先に行ってて、後で追いつくから」


「ふふっ、良いではありませんか。あのように喜びを表に出して伝えてくれると、私も嬉しくなりますから。――それに、雑草なら後で私が片付けましょうか?」


「ううん。そんなことしたらその綺麗な服が汚れちゃうじゃない。代わりにお茶を淹れててよ、お姉さんの淹れるお茶が一番おいしいんだもん!」


「そうですか? ありがとうございます。分かりました、それではお茶の方は任されました。楽しみにしていてくださいね」


 子供の親切心を無理に押し切ろうとはせず、オーレリーは残りの子らと一緒に孤児院へ向かう。


 彼のためにいっそう腕によりをかけて最高の一杯を淹れようと思うと、自然と彼女の足が弾んだ。


「ええ、せっかくですから今日はお外で食べましょうか。日なたは暑いかもしれませんけど、影の多い中庭の辺りなら涼しいと思いますから」


「さんせー! でも、ってことは敷く物がいるよね。物置だったっけ?」


「去年から動かしていないのなら、そこで間違いなかったと思いますわ。棚の上の方に丸めて片付けた記憶がありますもの。私が……いえ、貴女に確認をお願いしてもいいでしょうか?」


「はーい、良いよ!」


「高い所ですから、十分に気を付けてくださいね」


「分かってまーす! 見っけたら男子と一緒に持ってくるねー!」


 そうしてまた一人、ぱたぱたと元気な様子で走っていった。


 辺りを見渡せば、所々にうず高く雑草の山が積まれているのが分かる。


 朝から三、四時間は続けて辛い作業をしているように思われるが、子供と言うのはその程度あなんてことはないほどの活力を秘めていて、オーレリーは羨ましく思えた。


「皆さま、元気なようでなによりですわ……ええ、本当に」


 睡眠では拭いきれなかった鬱屈とした感情が、彼らと言葉を交わすと少しずつ消えていくのが分かる。


 若々しく、ありのままの純朴さに触れ合っていると、それだけで彼女の心までもがぽかぽかと心地よいものに包まれたような気分になる。


 オーレリーは家族の集う場にいるといつも、孤立した閉塞感に襲われて息がつまりそうになる。


 だが、この場所はそう言ったものとは無縁の楽園だ。


 ――ここで一服して心を洗い、午後からはまた自分を律して普段通りの生活に戻るとしましょう。


「この生活が、いつまでも続くように……」


 絶対にこの聖域を家族に荒らされてなるものか、と彼女は子供たちと手を繋ぎながら心に誓う。


 だが、今はそのようなことよりも、目の前の子供たちのことを考えるべきだ。


 ――澱んだ思考で淹れた紅茶は、味もまたひどく濁ってしまうもの。


 祖父に教わった格言を信じるオーレリーは、子供たちに任されたという責任感を固く胸に抱いて教会内の調理場へと足を進めようとした。


「あ、お姉さーん! ちょっと待って、はぁ、はぁっ……」


「あら、なにかありましたかローザちゃん?」


 そこを、教会の中から飛び出してきた少女ローザが呼び止めた。


 彼女の来訪を知らされてよほど慌てて飛び出してきたのか、軽く息を荒げている。


「別に、大したことじゃないよ。でも、これを……忘れないうちに、渡しておきたくって」


 ローザがオーレリーに手渡したのは、茶色の封筒だった。


 表面には送り主を示すものはなにもなく、封をした蝋にもなにも押されていない。


「これはどなたからのものですか?」


「お兄さんから。絶対に、次来た時に渡しておいてほしいって……」


 それを聞いて、オーレリーは持っていた封筒の端にきゅっと一筋の皺を寄せてしまう。


 先日の騎士解任の一件以降、彼女はラストと顔を合わせることを暗黙の裡に避けていた。


 諦めていない様子から、いずれまた接触を試みてくるだろうと彼女は覚悟を決めていた。


 しかし、まさか手紙を使ってくるという手段は予測していなかった。


 小さく目を見張りながらも、彼との不仲を悟られて無駄な心配を抱かせないように、オーレリーは笑顔のままで手紙を開くことなく懐に仕舞おうとする。


「あっ、ごめんなさい。その、出来れば中身を読むところまで、確認しておいてほしいって……」


「……大した念の入れようですわね。いえ、それも当然ですか……」


 別に捨てるつもりはなく、後で読もうと思っていたのだが、一方的に信頼を断ち切った自分が信用されていないのも仕方がない。


 その引け目から、オーレリーはいつ読もうと変わるまいと中に入っていた便箋を取り出した。


 紙質自体はどこでも売っている質の低いもので、インクも大したものではないようだ。


 ついラストの思惑を深読みするように観察しながら、彼女は中身を開いてざっと目を通した。


「……これは」


「お姉さん?」


 内容はさほど長文と言うわけでもなく、すぐさま読み終えることが出来た。


 だが、その文量に反して込められていた言葉は重いもので、彼女はがつんと強く頭を殴りつけられたのような感触を覚えた。


 驚きのあまりに顔を一段と白くしたオーレリーを、ローザが気遣う。


「大丈夫なの? なにかお兄さん、変なことでも書いてたの?」


「ああ、いえ。大丈夫ですよローザちゃん。中身はそこまで重要なものではありませんでしたから、お気になさらず。ただの近況報告ですわ」


「ふーん……? 怪しいなー」


 疑いの目を向けるローザから逃げるように、オーレリーは話を終わらせようと手紙をポケットの中にねじ込んだ。


「ほら、早く行きましょう? 皆さまをお待たせするわけには参りませんからね。それに、長い間日なたにいると日焼けしてしまいますよ?」


「……ま、いっか。読んではくれたみたいだし、これで約束は守ったもんね。でも、お姉さん――本当に、いいんだよね?」


「はい、安心してくださいな」


 なおもじろりと半眼で見つめてくる彼女の肩を掴んで教会の方へ向けさせて、オーレリーは止めていた足をもう一度動かし始めた。


 その頭の中で、ラストの声が先ほどの文面を復唱する。


 ――アヴァル・ヴェルジネアの抱える秘密の在り処を入手した。


 ――知りたくば、来たる半月の夜、かの僭主の舘の屋上へと来られたし。


 自身が長らく探して手がかりの一つすら見つけられなかったものを、こうも容易く見つけ出せるものなのだろうか。


 疑いながらも、オーレリーの心はどうしても彼の掲げた甘い約束に引きつけられる。


 一方的に関係を絶ったのは彼女の側で、こうしてラストに甘えようとすることは拒んでしかるべきなのだとは分かっている。


 それでも、彼の見せた餌はあまりに魅力的で、オーレリーは釣られざるを得なかった。


 それがラストを自分に都合良く使おうとしているように思えて、彼女は罪悪感に顔を顰める。


 その辛そうな表情を、実際にはオーレリーの裏事情をある程度知らされているローザが不安そうな目で見上げていた。



 ■■■



 さらに二日が経過した半月の夜、オーレリーは言われた通りにヴェルジネア邸の屋上へと赴いていた。


 屋敷の者であれば、内側から屋根裏部屋の窓を通して簡単に屋根に上がることが出来る。


 ラストにそのような許可が与えられた記憶はなく、警護の騎士から不審者が侵入したとの知らせもない。


 それでもオーレリーは彼が待っていることに疑いを持つことなく、夜風の肌寒さに肩掛けをぎゅっと掴みながら屋根を昇っていく。


「……歩きづらいですわね。もう少しこちらのことを考えてくださってもよかったでしょうに」


 アルセーナとして活動する際の衣装は、見た目こそ華麗なドレスだが動きやすいように各所に工夫を凝らしているために屋上に立とうと問題はない。


 しかし、普段の靴ではつるりとした屋根を歩くと時折滑りそうになってしまう。


「ごめんね、てっきり君なら問題ないかと思ってたんだけど。それなら次からは気を付けるよ」


 ついつい文句を垂れてしまったオーレリーの頭の上から、ラストの声が響く。


 彼女がそちらを見上げると、煙突の上に一つの影が腰掛けていた。


「やあ、しばらくぶりだねオーレリーさん。今夜は半月、こうして話すには良い夜じゃないかな? ちょうど怪盗アルセーナ日常オーレリーの境目の夜。二つの顔を持つ君と密会するのに相応しい日だと思って選んだんだけど」


「どうでしょうか。貴方と会う時の月の様子なんて、私はさほど気になりませんわね。……それに、もったいぶった前置きは結構ですわラスト君。それで、わざわざこのような物を渡した目的を教えていただけますか? まさか、私を呼び出すためのまったくの嘘偽りの口実と言うわけではないのでしょう?」


 オーレリーはローザから預かっていた手紙をぴらぴらと振りながら尋ねる。


「そうだよ。確かに僕は、君の御父上の不正の隠された場所を掴んだ」


「では、それを親切に渡してくださるおつもりなのですか?」


 露ほどもそうは思っていない顔のオーレリーに、ラストは彼女と目線を揃えられる場所へすとんと降り立った。


「君の信念には僕は大方賛成だし、構わないよ。ただし、その代わりに君にはこっちの要求も呑んでもらうことになる」


「でしょうね。それで、なにをお求めになるのですか? 金、女、……そんなものが欲しいわけではないのですよね?」


「そうさ。僕が欲しいのは先も今もたった一つ。それを約束してくれるというのなら、君の望みへ繋がる手がかりを教えるよ。――さあ、オーレリーさん。この街の未来をかけた取引を、始めよう」


 夜闇の上空で、ぴんと空気を張り詰めさせながらラストとオーレリーは相対する。


 美しく弦を張った弓月が、対照的な表情の二人を静かに見下ろしている。

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