第152話 ただいまと、少年少女の反応
――と、オーレリーが不思議な女従者の影を屋敷の窓から見つめていた頃。
当の本人であるプリミス・ロワイアルスと名乗った少女は、ヴェルジネアの街を駆ける風となっていた。
屋根から屋根へ、幾つもの路地を飛び越えて疾走するメイド。はためくスカートの下からは時折魅力的な領域が姿を覗かせかけるが、誰も彼女の速度を目で捉えられない以上、その心配は無意味なものだった。
十秒と経たぬうちに高級区域を抜け出したプリミスは、そのまま平民街を北上する。
すぐさま彼女の視界の先には、着弾地点の目印となる建物が見えた。
「ふっ――」
その七軒先の屋根から、少女は猫のような軽やかさで身体を跳ねさせた。
眼下で普段通りに仕事や歓談を行ってる人々は、天を舞うプリミスの姿には一切気が付かない。
彼らの直上を弧を描くように飛び越えて、彼女の身体は飛翔したその高さとは裏腹に音一つ立てることなく地面へと着地した。
衝撃を複数の関節を経由させて完璧に吸収することで、一歩たりともよろめくことなく降り立ったプリミス。
「ただいま帰りましたよ、皆さん」
彼女が目標としていた、下町には珍しい高層建築――廃された教会に向かって中庭を歩き出すと、その向こう側から複数の影が飛び出してきた。
その中から頭一つ抜けて加速した人影が、勢いを緩めることなくプリミスの腰へと思いっきり抱きつく。
青い髪をした少年が、期待に顔を輝かせながら彼女を見上げた。
「お帰り、
「こら、誰がお兄ちゃんですか」
「痛っ!?」
その丸見えなおでこを、びしりと彼女の人差し指が弾く。
「この姿の私は、どこからどう見てもお姉さんです。違いますか、アズロ君?」
「うっ、違わないけどよ……わ、分かった! 俺が悪かったってば姉ちゃん、だからその指を下ろしてくれって!」
「言い間違いは止めてください。ここではまだ、誰が見ているか分からないのですからね」
「お、おう……」
再度装填された指にたじたじとなりながら、少年アズロは赤みを帯びた額を抑えながら身を引くのだった。
彼の素直な反応からは、プリミスが彼とそこそこの信頼関係を築いていることが伺える。
「ふふっ、分かればよろしいのです。他の皆さんも、色々と聞きたいことはあるかとは思いますが、今はまだお静かに。――これから落ちてくるものについても、決して叫んだりしないように」
周囲に集っていた他の子供たちへ向けて、プリミスは微笑みながら、そっと自身の唇に人差し指を寄せる。
なんということのない自然な素振りによるお願いだが、そわそわとしていた子供たちは誰もが一瞬にして沈黙してしまった。
幾人かの子供たち……特に男子は、示し合わせたかのように僅かに顔を赤く染めていた。
そのことに首を傾げながら、彼女は空高くに伸ばしていた魔力の糸を手繰り寄せる。
「念を押しておきますが、本当に驚かないでくださいね?」
先ほどまで疾走していた彼女に引っ張られることで揚力を得ていた、空の彼方を飛ぶ存在。
プリミスが立ち止まると同時に失速を開始していた怪物が、中庭の一角に大きな影を作る。
影は段々と大きく、濃さを増してゆく。
少しずつ聞こえてくる風を切る音に、子供たちの誰もが音の鳴る方へ目を寄せ――眩しく輝くその全貌に、目をきゅっと細めた。
「あれって――もしかしてっ……」
ほとんど墜落するかのように落下してきた巨体が、接地する寸前で大きくひと羽ばたき。
生まれた風圧に子供たちが咄嗟に身を屈める中、黄金の魔獣は主と同じく無音で孤児院に降り立った。
「……凄え、
予め言われていたとはいえ、その姿を見ては心をくすぐられないわけにはいかなかったようだ。
自分たちの目前に雄々しく立つ金貨の大竜に、茶色の髪をした男の子が思わず叫び出そうとしてしまった。
だが、彼の口はそれ以上の言葉を紡ぐことは出来なかった。
「――っ……むーっ、むむう、むーっ!」
目にも止まらぬ早業でプリミスが伸ばした魔力の糸が彼の顎に巻き付いて、その動きを封じてしまっていたからだ。
ヴェルジネア邸では仰々しく【
「落ち着きなさいませ、マローネ君。呼吸ならば鼻から出来ますから。ほら、一、二。一、二……」
「むーっ、むーっ……ふーっ、ふーっ……」
少年の目が静かになったのを見て、プリミスはゆっくりと糸を引っ込めた。
「近隣の皆様にご迷惑をかけるわけにはいきませんからね。見たいのなら後で幾らでも見せてさし上げますので、今は中の方へ移動しましょうか。皆さんとのお話も、それからに」
「あ、うん……けほっ。悪かったよ
「おや、危ないところでしたね。見逃すべきか、そうしないべきでしょうか?」
くすりと顔を近づけて笑った彼女に、マローネは慌ててそっぽを向きながら嫌々と首を振った。
「勘弁してよ、もう十分分かったからっ」
「ありがとうございます。素直な弟を持って、お姉さんは嬉しいです。よしよし」
「撫でるなぁっ……あ、いや撫でないでくれ……」
その愛らしい頭を撫でようとしたプリミスの腕を強がるように払って、彼は一足先に教会の中へと走って行ってしまった。
「……そんなに嫌だったのでしょうか?」
「違う、と思う。ただ単純に、恥ずかしかっただけなんじゃないかな?」
とてとてと近づいてきた赤毛の少女ローザが説明するが、プリミスはどうも腑に落ちない気分だった。
「恥ずかしい?」
「うん。だって、今の
「うーん、どういうことです? 撫でられたら嬉しくなるのが普通ではないですか?」
「とにかく、そういうものなの。その姿でやるのは、止めといた方が良いと思う。特に男子には」
「……よく分かりませんが、ローザちゃんがそう言うのならそうしましょうか」
そう言いながら、彼女は少しばかり振り払われた手を名残惜しそうに見つめる。
確かに今の姿は特別に仕立てたものだとは言え、その
しかし残念なことに、彼女は顔見知りの相手でも思わず驚かせてしまうほどの技術もさることながら、素体からして美少女に転じるだけの才能を持ち合わせていた。
それらが組み合わさることで発揮される青少年への悪影響を、この姿をただ一人を除いて他人に見せたことの無い彼女は、今ひとつ自覚することが出来ないでいたのだった。
「とりあえず、皆も一緒に教会に入りましょうか。出来ればそちらの竜も入れるよう、しばらくの間入り口を抑えていてくれると嬉しいのですけど。お願いしてもいいでしょうか?」
「はーい、分かったよ」
「中にいる皆にも手伝ってもらわきゃ……」
先回りする子供たちに続いて、プリミスは竜と共に歩き出した。
彼女のの足取りは迷いなく、日頃から孤児院に慣れ親しんでいるもののように見える。
その袖を、ローザがぎゅっと握りしめた。
「どうかしましたか?」
「なんでもないよ。でも、ちょっとだけ、今のお姉さんを一人占めしたくなっちゃって。後少しでいなくなっちゃうんだし、良いよね?」
「別に構いませんが……」
彼女の見せたちょっとしたいつもとは違う振る舞いを特に突き放す理由もなく、プリミスは素直に受け入れた。
ついでにその頭を優しく撫でてあげると、今度は避けられることはなく、暖かい感触が柔らかく彼女の手をくすぐった。
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