第144話 謎の女従者と雪銀の魔剣
ヴェルジネア家当主アヴァル・ヴェルジネアは、大変に気が立っていた。
せっかく揃えた貴重な蒐集品で飾りあげたお気に入りの執務室が【
それに加えて今まさに彼の目前で黙したまま伏している、執務室修理代の概算という金銭的な問題が頭を苦しませているからだ。
ただでさえ怪盗による純粋な盗難による損失があるというのに、破壊された屋敷の修復にまで気を回さなければならない。それらに必要な金をどのようにして補填するか、その案を考えるのに彼は最近薄くなりつつある頭を抱えて小さく唸る。
「……むぅぅぅ、どうしたものか」
請求書の隣に並べられているのは、ヴェルジネア家の収支報告だ。その中身は開くまでもなく分かり切っている――純粋な赤字だ。
女怪盗は常に、小さく、かつ高価な物ばかりを選んで効率的に財宝を盗んでいく。そのため、一度宝物庫を荒らされたら、それだけで大きな赤字に転じることが確定している。
報告書の表紙を忌々しそうに見つめながら、アヴァルはぎしりと歯を食いしばった。
「まったく、忌々しい限りだ。屑共め、騎士の資格をくれてやったというのに何の役にも立たん。あの呼び戻した騎士どもも、【
苛立たし気に机に拳を叩きつけるも、何一つ解決策は見えてこない。
それどころか普段使用している机と比べて質が落ちる机は叩き心地が悪いことこの上ない。更には嵌めていた指輪にすら負ける始末で、僅かな凹みすら出来てしまう。
そんな情けない低級家具に囲まれて政務を行わなければならない事実が、アヴァルの心を尚のこと逆撫でする。
「なにか、何かないのか……? 新たな収入源を開拓しなければ。税の新規導入……そうだ、それしかあるまい。しかし、これ以上民を搾り取る名目として何が残っていた?」
オリーブと民は絞れば絞るほど出るもの――東の国から伝わった格言を、アヴァルはこれほどにないまでに妄信していた。
いかに文句を垂らそうが、民衆はしょせん力なき従僕に過ぎない。貴族の身体に流れる高貴な血に逆らうことなど、出来やしないのだ。
――文句を言う暇があれば汗水たらして働き、我らに積極的に貢ぐべきなのだ。
アルセーナのせいで調子に乗っていることが目立つ最近の市民の醜いありさまに舌打ちしながら、同じ国の安物買いの銭失いという諺を知らないアヴァルは焦燥を誤魔化すように頬をぽりぽりと掻いた。
荒れていた肌に爪が引っ掛かり、不意に痛みが走る。
「ぐっ!?」
思わず抑えた手のひらを目の前に持ってくれば、そこには薄く血が滲んだ跡が残っていた。
「――ちぃっ!」
先日のアルセーナの使用した催涙玉は、アヴァルたちの体内のみならず外皮さえも傷つけていた。
ぴりぴりとした痛みが延々と続き、つい何かの拍子で引っ掻いてしまう。
専属の医師からは触ることなく軟膏を塗るようにと言われていたが、これまた匂いがひどく劣悪なもので、このようなものを四六時中つけてもいられない。結局掻いてしまう肌は更に荒れて鋭敏になり、痒みを訴える。その度にまた触っては悪化させてしまうという悪循環に彼は陥っていた。
「ううぬ……肌……そうか、肌か。美しい肌をしている者に対して税をかければ良いのだ。第一仕事をしているのであれば少なからず肌が荒れているはずだ。平民どもが美容に気を使うなどおこがましい、そのような金があれば我らに捧げるべきなのだ……!」
良いものを思いついたと、彼は早速起案して取り立ての役人たちに周知すべく机の引き出しに手をかけた。
そして、そこに収まっている上質紙を取り出そうとしたところで――ふわり、爽やかな香りが彼の鼻をくすぐった。
「――ご機嫌のよろしいところ、大変申し訳ございません、アヴァル・ヴェルジネア卿」
「なっ、誰だ!?」
鼻歌でも歌いたくなるような気分のところに、突如としてアヴァルの聞き慣れない声が響く。
彼は慌てて顔を上げた――この仮初の執務室には現在、彼を除いて誰もいないはずだ。
もし来客があったとしても、部屋の前に立たせている護衛から何かしらの確認の声があるに違いない。屋敷の外に出している脳味噌まで筋肉な兵士と違い、中に配備している者たちは多少なりとも頭の回る連中を厳選している。間違っても主の許しもなく客を通したりなどはしない――と思われる。
すなわち、声の主は完全なる侵入者だと彼は確信していた。
いったいどのような者か、その正体を見極めようとして彼は部屋の中にくまなく目を凝らそうとした。
――しかし、相手は隠れることもなく、アヴァルの執務机の前に立っていた。
――声の正体は、従者然とした装いに身を包んだ一人の少女だった。
「突然の来訪になったこと、どうかご容赦願います。私の名はプリミス・ロワイアルスと申します」
「プリミス・ロワイアルス……?」
厳かな佇まいを見せる謎の少女の名を確認も含めて呟きながら、アヴァルは彼女の全身を軽く睥睨した。
汚れの目立たないように黒く染められた丈の長い布地のドレスに、僅かにフリルの施された、清純さを示す白い前掛け。装飾を控えめに抑えつつも、みすぼしらしさは感じられない。また、身に纏う服のどれひとつとっても、文句のつけようがない上質な素材から出来ていることが伺えた。
落ち着いた雰囲気の亜麻色の髪は後ろの方で結い上げており、深い緑のリボンを一つ通した静粛な白いカチューシャを被っている。
その姿を完全に認識した時、アヴァルは少女の纏う毅然とした空気に一瞬呑まれそうになった――しかし、相手はなんの断りもなく貴族の領域に立ち入った無礼者だと思い返す。
「――なにをしているか騎士ども! 侵入者だ、侵入者が部屋の中にいるのだぞ! 早くこの無礼者を手打ちに――否、捕縛せよ!」
部屋の入口の立つ、または廊下を巡回している騎士を呼び寄せようと彼は声を上げた。
――しかし、いくら待てども誰かが執務室を訪れようとする気配はない。
いったいどうしたことだと唇を引き締める彼に、プリミスと名乗った少女はすっと伸びた白魚のような首から放たれるたおやかな声で事情を説明した。
「失礼ながら、これからのお話をアヴァル様以外の方のお耳に入れることを我が主は好みませんので、あらかじめお休みになっていただきました。ご安心ください、十分もすれば彼らは何事もなかったかのように起き上がるでしょう」
「なんだと? この女中風情が――いや、貴様今、我が主と言ったか?」
たかが従者程度が自分の庭を引っ掻き回したことに、アヴァルは憤りのあまり椅子から立ち上がりかけた。
しかし、彼女の発した我が主と言う言葉に、思い直して深く背を預け直した。
最初にやらかしてくれたことは打ち首にして余りある所業だが、その後ろに彼女の主――女だてらに実力のある者を付き従わせるものの存在を認識して、彼は一度プリミスの言葉に耳を傾けることにした。
「はい。私はさる高貴なるお方の名代として参りました。かの、価値ある宝には相応の支払いを約束してくださるというヴェルジネア卿の恩情に与りたく……」
「……高貴なるお方、とな。いったいどのような方が主かは知らんが、随分と不躾な者を送りつけてきたものだ。それに、名代だと? 貴様のような一従者風情がか?」
貴族同士でやり取りをするというのならば、相応の順序だてが必要とされる。
なにかしらの交渉を行うにしても、まずは文通で了承を得るのが最低限の礼儀だ。
しかしアヴァルは最近目を通した手紙を振り返っても、そのような約束を取り付けた記憶はない。
加えて本人に都合がつかず代理の者を送るにしても、血族の誰かが使わされるのが通例だ。そこらの市民に送り付けるならともかく、貴族を相手にするとなれば従者では明らかに格が不足している。
アヴァルが馬鹿にされていると受け取ったとしても、なんらおかしなことではない。
「失礼は重々しております。しかしただいま我が主の一族は、とある問題によって名誉を著しく傷つけられるか否かの瀬戸際なのでございます。どこからか噂を聞きつけた者どもに見張られているために直接の血族を動かすこと能わず、苦肉の策として私を遣わしたのでございます。前約束もなしに訪れさせていただいたのも、万が一の漏洩を防ぐためなのです。卿に置かれましては、主の名を明かせぬ無礼も含め、どうか寛大なお心でお許しいただけないでしょうか」
だが、そう恭しく頭を下げられては、もはや安易に無礼打ちだとすることも出来ない。
「……ちっ、仕方あるまい。それで、どこぞの従者風情が何用だ。生憎と私は忙しい。下らない話であれば我が魔法の餌食にしてくれる」
内心の苛立ちを隠そうとしないながらも、アヴァルはひとまずプリミスの主とやらの用事を聞き入れることにした。
「アヴァル様の慈悲に最大限の感謝を。それでは、単刀直入に提案させていただきます。――アヴァル・ヴェルジネア様、此度は我が主家に代々伝わる秘宝の一つを、是非とも貴方様にお譲りさせていただきたいのです」
「……秘宝、とな?」
その小気味よい響きに興味をそそられたのか、彼は身を前に乗り出す。
先ほどまでの悩みの種だった書類を邪魔だと脇に避けたアヴァルは、プリミスの提示しようとしている案件に心が躍った。
ひたすら金策に頭を痛め続ける日々の中、新たな収集品のことを考えて気分を一新させるのも良いだろうと目を輝かせる。
「はい。実はこの度、主家を貶めようとせんとする何者かの策略により、とある一族の方の醜聞の証拠が漏洩してしまったのです。幸いにも犯人は金があれば事を穏便に済ませる用意があるとのことですので、我が主は至急、まとまった金額をご所望されておられるのです」
「なるほど。それで、その品……秘宝と言うのはどのような代物なのだ?」
「こちらにございます」
プリミスは背負っていた長い紫布の包みを、丁重にアヴァルの下へと差し出した。
彼はそれを机越しに受け取って、ゆっくりと解いていく。
やがて布の中から姿を現したのは、鞘に収まった一振りの長剣だった。
「……剣か。いや、この独特な妖しい気配は……まさか」
ただし、秘宝と呼ばれるだけのものが通常の名剣で済ませられるはずがない。
アヴァルが鞘から静かに刃を解き放つと、純白の刀身が光を受けて涼し気にきらめいた。
「――【
まるで霜の降りたような、汚れなき美の極致に位置する極白の魔剣。
鏡面の如く磨かれた刃に映る翡翠の瞳が、彼を見返す。
その輝きに、アヴァルの心は先ほどまでの憂慮を瞬く間に忘れてしまうのだった。
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