第136話 裂爪熊の赤葡萄酒煮込み


「……これは」


 オーレリーが第一に認めたのは、黒と見間違うほどに寸胴鍋の中で熟成された深紅の色だった。最上級の絹の如き輝きを放つ、濃縮された赤葡萄酒と各種香味野菜から煮出された旨味。

 その美しき衣を纏って皿の中央に悠然と聳えるのは、豊潤な香りの立つ獣肉の塊だ。空気に触れた表面が赤子の柔肌のように優しく震え、それを眺める者の脳髄に官能的な刺激がもたらされる。

 ふと、誰かが唾を飲んだ音が場に広がった。


「どうぞ、召し上がれ。これこそが僕とシュルマさんの用意した、本日の特別料理さ」

「……見た目が素晴らしいのは言うまでもありません。しかし、それで中はどのような……?」


 傍に並べられた銀のナイフとフォークを手に取って、畏れ多き王侯に拝謁するかのような手つきで彼女は肉に触れた。

 柔らかな肉の弾力が、切っ先からオーレリーのしなやかな指先を伝う。

 それをぐっとこらえて、彼女は一息に肉塊へ銀の刃を差し込んだ。


「なんと……素晴らしいのでしょう」


 断面から姿を現したのは幾重にも重なる肉の繊維の断層だ。

 その隙間から伝う脂がきらきらと輝いて、彼女の瞳を彩る。

 そこから漂う強くもまろやかな生命の香りに誘われながら、一口大に切り分ける――そして。


「――んんっ!?」


 口に運んだ肉を噛み締めた彼女の舌の上で、旨味の暴力が踊った。

 その衝撃に、オーレリーは思わず身を捩じらせた。


「これは、普通のお肉ではありませんわね……間違いなく、この間と同じ魔物のっ……ですが、なんと言うのが相応しいのか……格そのものが格段と異なる、とでも評すればよろしいのでしょうか」

「御明察。さすがはオーレリーさんだ。これは魔物は魔物でもただの魔物じゃない。アストレア山脈の麓に存在する森で暴れていた魔物、彼らの王と呼ぶべき存在のお肉だよ」

「魔物の、王……?」


 その正体は、【裂爪熊ラセルウルサ】だ。

 ラストがヴェルジネアの前に訪れたスピカ村で、村の狩人であるルークが死力を尽くして見事に仕留めた魔物だ。

 ほとんどが村の中で食材として、また素材として消費され尽くしたものの、彼は【裂爪熊ラセルウルサ】を打ち倒す破熊作戦の立案者として肉の一部を譲り受けていた。

 干し肉にして保管していたその肉が今、シュルマの手で新たな姿に生まれ変わった。

 それが、オーレリーに提供されたデーツィロス自慢の一品――裂爪熊の赤葡萄酒煮込みだ。


「なんと力強い……っ!」


 それだけ呟いて、彼女は余計な言葉を排して皿の中の主役に立ち向かう。

 余計な獣臭さを抜いて、野生の力強さをほとんどそのまま残した旨味の暴力がオーレリーの可憐な口の中で荒れ狂う。しかし、それは決して、彼女を傷つけるわけではない。

 魔熊の肉を彩る、渋い葡萄の酒精を筆頭とした複雑な配役。彼らが乱暴な主役の長所をそのまま活かし、短所を丁寧に拭い去っている。

 そして、その一皿の中で完結された美味の重奏を指揮するのはシュルマの顔を、彼女は幻視して――。


「――あむっ!」


 ――かつて屋敷で祖父と共に笑顔で食卓を囲んでいた時のことが、思い出される。

 オーレリーが今の屋敷で味わう、味のない料理とはまるで比べ物にならない。

 好々爺然としたシュルマが厨房で殺意すら伴うような顔で腕を振るった皿の数々を、妻であり女中たちの長でもあった老婆エルマが提供する。その心湧き立つ食事を祖父と言葉を交わし合いながら共にした時の記憶が、揺り動かされて。

 胸の奥からまろびでた郷愁の風に、彼女の頬を熱を持った一筋のきらめきが伝った。

 だが、それに気づかないのか、オーレリーはそのまま無言で残る肉を口へ運んでいく。

 その傍らで、皿の端に添えられていた黄金色に輝く栗を一口。


「んっ……」


 どこか鬼気迫るような勢いだったオーレリーの頬が、栗を口にした瞬間に綻んだ。

 暴れ馬を乗りこなしたかのような魔熊の肉を頬張り続けて疲れが滲みかけていた彼女の舌を、甘くとろけるようなねっとりとした栗が包み込む。


「栗の蜂蜜漬けだよ。灰汁を取った栗を何回も蜂蜜につけ直して、芯まで浸透させたんだ。熊の好物と言えば栗に蜂蜜、よく合ってるよね」

「ええ、本当に……」


 そうして口を少し休ませたら、彼女は残る熊肉を溶かすように胃の中に収めていく。

 シュルマの火入れの技術は【裂爪熊ラセルウルサ】に対しても負けることなく、絶妙な肉の質感を保っている。柔らかすぎず、されど固すぎず。口に含めば一回二回噛んでしまうだけでつるりと飲み干せてしまうような触感に、オーレリーは数分とかからずに皿に乗っていた三人前はあろうかと言う大きさの熊肉を胃の中に収めてしまった。

 残ったのは肉を包んでいた衣だけだ――とはいえ、そこにもまた肉の旨味は十二分に溶け込んでいる。

 それらも全て味わいつくすべく、彼女は籠に盛られていたパンを手に取った。


「んっ、と……」


 深皿に張られていた艶やかな味覚の泉に、千切ったパンの一部を潜らせる。

 滴り落ちる旨味をうまく絡めとって、オーレリーはぱくりと口の中に放り込んだ。


「んんーっ!」


 彼女の満足そうな絶賛の響きが、デーツィロスにいた全ての人々の耳を打った。

 魔熊の出汁をたっぷりと吸ったパンに舌を打つオーレリーの姿は、ただでさえ良い匂いに鼻をひくひくとさせる彼らの感覚機能を更に刺激する。

 己が美味と感じたものについて、素直な反応を示す。

 至極単純な絵面だが、だからこそ、人々の心に魔熊肉の美味しさを強く訴えかけられる。


「……ごくり……なんだよあれ、凄い美味そうだぜ」

「貴族ってのは館でいっつもうまいもんばかり食べてるんだ。それがあんな風に悦んでるなんて、よっぽどに違いねえ……」

「やばっ、いっぱい食べたのに、またお腹が空いてきちゃうっ……」


 美味しそうに食事を続けるオーレリーの様子に、人々は三者三様に喉を鳴らす。

 ――そして、ちょうどラストが余分に見繕っていた、彼女の文句をつけた山ほどのパンの最後の一口が消える。

 その頃には皿の中にあった魔熊の肉の痕跡は一滴残らず消え去っていた。

 それらは全て、丁重に彼女の胃袋へと収められている。


「ふう、ご馳走様でした。確かに貴方の仰った通り、大変な美味でしたわ」

「見れば分かるよ。なにせあれだけあったパンが全部なくなっちゃったからね。ほら、やっぱり準備しておいた甲斐があっただろう?」

「……業腹ですが、認めざるを得ませんわね。大儀でしたわ、給仕のラスト君。そしてシュルマさんにも、最大限の賛辞を。これほどの料理を食す機会を与えられたことを、貴方がたに感謝いたします」


 口元を白いハンカチで拭き取りながら、オーレリーはこの場にいないシュルマにも向けて賛辞を贈る。

 ラストは店の雰囲気に合わせ、そっと胸に片手を添えながら軽くお辞儀をした。


「厨房の料理長に代わり、謹んで受け取らせていただきます。お粗末さまでした、オーレリーさん」

「ええ。……それにしても、魔物の王なるもののお肉なんて、いったいどこから仕入れてきたというのですか? そんなもの、街に入ってきたとしても恐らく最優先で家の方に回されるはずですのに……」

「これは僕が個人で持ってきてたものなんだ。だから、僕が食べてもらいたいと思った人にだけしか提供されることはないんだよ」

「……本当によろしかったのですか? 私にその肉に比類するほどの価値があるとは、思えないのですが……」


 目を伏せるオーレリーに、ラストが呆れたように首を振った。


「どうして君はそう、自分を病的なまでに低く見積もるのかな。僕からしてみれば、君にこれを振る舞うことにはなにも躊躇うことはないんだけどね」

「ふふふっ、貴方から見ればそうなのでしょうね。ですが、やはり私はそのような立派な人間ではありませんわ」

「君がいくらそう言おうと、周囲にはそうは映らないんだけどね……まあ、その辺りのことも追々教えてくれると信じてるよ」


 言葉では自らを卑下しつつも、その顔にはそこまで深い嘆きの色は見えない。

 シュルマの編み上げた美食の余韻が彼女の自虐的な負の思考回路を打ち消しているからだろうか。

 内容とは真逆に和やかな雰囲気で二人が食後の空気を楽しんでいると、とうとう我慢できなくなった客の一人が声を上げた。


「おいラスト、もう待ちきれねえ! そいつはいったいどれを注文すれば食べられるんだ!?」


 オーレリーの前の空っぽになった皿を凝視しながら、注文表を振りかざして一人の男性が問う。

 そちらに振り返り、ラストは恭しく頭を下げて回答する。


「申し訳ありませんが、今の料理はあくまでも試供品でして。現在の注文表には載せていないのです」

「だったらいつから食べられるの!? まさかその子だけに食べさせておいて、私たちにはくれないなんて殺生なことは言わないでよ!」

「もちろんです。恐縮ですが、こちらを皆様に提供させていただくのは今夜の営業からとなります。……ただし、提供できる魔物の肉の量が著しく限られておりますので、誠に勝手ながら、こちらは期間限定の一皿とさせていただきます。どうかお許しくださいませ」


 彼がその事実を告げるや否や、興奮していた客たちは互いに顔を見合わせる。

 ぎらついた獣のような目を見せて、今夜のための算段をつけた人々は慌てて残りの注文を破棄して外へと駆け出していくのだった。


「――悪い、後の注文はなしにしてくれ! そんなの聞かされたら、今腹いっぱいにするわけにはいかねえじゃねえかっ!」

「そうねっ、私たちもごめん! 夜のためにいっぱい働いて、今からお腹空かせておかないと!」

「待っててねラスト君! いっぱい友達呼んでくるから、私の分、取っておいてねー!」


 一連の食事風景を見守っていた彼らは色めき立って、夕食のお楽しみを見据えて足早に店を後にしていった。

 それを見送ったラストは、予想外と言ったように目をぱちくりとさせる。


「あはは、思ったより劇薬になってしまったかな? でも、これならきっと多くのお客さんが来てくれるだろうね」

「……その、私が気にしたところでどうなるものでもないと思うのですが、大丈夫ですか? 噂が広がってお客が集まったとしても、間に合わなくてこの味を食べられない人からしてみれば失望してしまうのでは?」

「大丈夫だよ。実際にはお値段も下げることも含めて小さめの器で数を揃えるつもりだし。なによりお爺さんの料理がおいしいのは周知の事実だからね。たとえ食べられなくても、店に来てくれれば自然と他の料理を食べてくれるさ」


 顔を突き合わせた二人が話していると、傍らで静かに様子を見ていたエルマが磨いていたグラスを置いた。


「――お二人とも、よろしいでしょうか?」

「あっ、エルマ。ごめんなさい、ついラスト君との話に夢中になってしまっていて……」

「構いませんよ。しかし、こうなってしまってはもはや早めのお昼休みにしても良いでしょうね。仕方ありません、ラスト君。そのままオーレリー様とお昼を一緒になされてはいかがですか? 二人っきりで大事なお話があるのでしょう、先ほども魔法でなにやら音を遮断していたようですから。後程軽食を持ってきます。――ただし、変なことは考えないように。良いですね?」

「分かってます、はい。エルマさんのお手を煩わせるようなことは、決して」

「本当に分かっているのでしょうね? あやしいものです」


 最後にじろりとラストを一睨みして、彼女は店の奥へと引っ込んでいった。

 剣呑な眼で見つめられていたことにふと興味を持ったようで、オーレリーがなんとなしに彼に尋ねる。


「変なこととは、いったいなんのことでしょう?」

「なんでもないよ、ははっ……。そういうことになるなんて絶対にありえないし、君は気にしなくてもいいんじゃないかな。それよりも、早くさっきの話の続きを始めようよ」

「何故貴方はそんなにも慌てているのですか? いえ、私はそれで構いませんけれど……そうですね。では、どこから話し始めればよろしいでしょうか……」

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