第135話 約束の食事
迷いの吹っ切れた顔で、オーレリーがラストを見つめる。
その透き通った翡翠のような穏やかな笑顔に、彼は小さく首を横に振った。
「……別に、そこまで覚悟を決めてもらうような要求をするつもりはないよ。僕は知りたいだけなんだ、どうして君がわざわざ怪盗と言う仮面を被ってヴェルジネアの夜空に舞うのかをね」
「あら、なにかと思えばそこからですか。てっきり貴方のことだから、既にそこまで分かっているかと思っていたのですが……心を映し出す魂が見えると言っても、私の真意までは測り知ることは出来ないのですね」
「そこまで万能じゃないよ、僕の眼は。――きっと、君が【
オーレリーがアルセーナと言う、人々の視線の先に輝く星の如き偶像を作り出した理由。
そこに込められた意味を通して、彼女の見ているであろうなにかに近づきたい――そんな想いと共に、ラストはオーレリーに問うた。
「……良いでしょう。怪盗の正体を暴かれた時点で、隠すことはなくなってしまいましたから」
「ありがとう。――でも、その前に一つ、やっておかなきゃならないことがあるんだよね」
「なんですの? 今この場で、これほどに重要なことなど他にありましたか?」
「まあまあ、落ち着いて。言った傍から忘れないでよ、ほら。一月前と昨晩、二回も結んだ大切な約束がまだ残ってるじゃないか」
ちっちっと目の前で指を振ったラストに、彼女はすぐさまこの会話の冒頭を思い出す。
「……確かに、そちらも大事と言えば大事ですけれど。せっかく私が抱えていた秘密に連なるお話をしようというのに、一刻も早く知りたいなどとは思いませんの?」
「もちろんオーレリーさんの言う通りだよ、僕は君のことをもっと詳しく知りたくてたまらない。でも、この場には少々人目が多いからね」
ラストが不意に後ろへと振り返ると、彼ら二人の様子をなんとかして窺おうと目をぎらつかせていた人々が一気に顔を背けた。
魔法のよく分からないデーツィロスの客たちにとっては、突然現れた悪名高い領主家の異物と顔馴染みの食堂の名物店員との内緒話はさぞ気になって仕方がないものだったようだ。
いくら風で音が仕切られているとはいえ、十を超える瞳にじろじろと観察されながらでは緊張で話もうまく進まないだろう。
「君の無音結界は素晴らしいものだけれど、どうせなら何の憂いもなく話せる時にしたいんだ。魔法の維持に集中力を取られるよりは、そっちの方が君も気楽に話せるよね。まずは今出来る目的から果たそうよ。さ、魔法を切ってくれないかな。こっちの話はむしろ、聞かれてる方が重要なんだからさ」
ラストの頼みに、どこか不満そうな顔をしながらオーレリーが頷いた。
彼女からしてみれば大衆の注目を一身に引き受けることなど、どうということはなかった。
アルセーナとして活動する際には、生贄として選ばれた舞台の周囲に何千という観客が集まる。それらに華麗な夜の脱出劇を見せる時に比べれば、デーツィロスに今いる客の数なんてはしたものだ。
とはいえ、あくまでもオーレリーの意志を尊重するような態度を取っているが、この場の実質的な支配者はラストだ。
「いっそこの流れで何もかも洗いざらい吐き出してしまう方が楽なのですけれど……分かりましたわ」
彼女は消化不良のような顔を浮かべながら、ぱちんと指を鳴らす。
丁寧に磨かれた床の上に浮かび上がっていた風操作の魔法陣が、ふわりと宙に散っていった。
途端に風の壁の向こう側から響いてきた細かなざわめきが、魔法のもたらす静寂に慣れていた二人の耳に騒々しく響いた。
「――なあ、いったい何を話してるんだと思う?」
「さあ。でも、ただならない様子だぜ?」
「馬鹿だなお前ら、男と女が二人っきりでこしょこしょと話してるんだ――後は分かるだろ?」
鋭敏になっていた聴覚に届く声には少々おかしなものも混じっている。
二人はそれらに対して息を揃えるように触れず、もう一つの約束に話を進めた。
藪をつつけば蛇が出る、何故か今の二人の頭にはまったく同じ古き教訓が過ぎっていた。
「それでは、注文表を持ってきてくださいますか? ……いえ、そうですね。あちらの方々が食べておられるお肉とお野菜の煮込み、あれをいただけますか」
「あー、ちょっと待っててね。早速決めてもらったところで悪いんだけど、今日君に食べてもらう料理はもう決まってるんだ。そのために昨日からシュルマさんにも頑張ってもらってたし――選ぶ楽しみを奪ってしまって申し訳ないけれど、是非ともこっちを食べてもらいたいんだ」
適当に料理を選ぼうとしたオーレリーが、怪訝な顔を浮かべながら厨房に消えていったラストの背中を見送る。
その向こうからシュルマと彼の言葉が交わされるのが僅かに聞こえて、少ししてからラストが腕にいっぱいに料理を抱えて戻ってきた。
これ見よがしに銀の蓋の被せられた皿と、たっぷりとパンの盛られた藁籠。
蓋の中身にも興味が湧くが、それよりも気がかりなのは隣に添えられた山のような小麦色の方だ。
「……あの、こちらも気になるのですけれど。こちらのパンは?」
「普通のパンだよ。期待していたのなら謝るけど、何の変哲もないパンさ」
「そうではなくて。見るからに三人分はあるのですが……」
「え、食べるよね? この間だって二人分のお肉を戸惑いもせずに食べきっちゃったじゃないか。今日のはあの時のよりもずっと美味しいから、たぶんこれくらいは食べちゃうかなって思ったんだけど」
「そうではなくてっ……ああ、もう! 貴方という人はどうしてここで先ほどの気遣いを発揮してくれないのですか!?」
不思議そうにするラストの胸を、彼女は腹いせにぽかりと叩いた。
彼は失念しているようだが、一般的に女性とは小食なものだ――それは物理的にも、彼女らに求められる理想像としても。
特に貴族の女性にとって大食いとはあまり褒められたことではなく、実態がそうであったとしても普通は隠し通す。特に異性の前では。
だというのに、ここには彼女に注目する大勢の人がいるではないか。
そんな中でこうも平然と山盛りの皿を給仕されるのが、ラストに大食い属性のついた女として理解されているのが。
オーレリーは無性に恥ずかしく思えて、つい八つ当たりしてしまった。
「確かに、食べられますけれどっ! 私は別に普段から大食漢というわけではなくて、それはシュルマさんの腕がいいからであって、普段はそこまで過食気味なわけでは――」
「なにを遠慮する必要があるのさ。君ならこれだけ食べても別に太ったりとかはしないだろ? 君と同年代の女性の平均と比べても、お腹も二の腕もきっちり引き締まってるし。君のためを思って持ってきたんだけど」
そう言えばラストは、彼女の身体情報をきっちりと理解しているのだったとオーレリーは会話を振り返る――しかし、彼は肝心なところを理解していない。
見た目の数値には決して現れない、年頃の少女にとって乙女心というものを。
「……そう言えば、貴方はそう言う人でしたわね。何の躊躇いもなしに女性を褒めて口説こうとする、悪いお人」
「え? どうしてまた急にそんなことをっ……?」
「さて、どうしてでしょうねっ。こればかりは教えられませんわ。恨みますわよラスト君、もしこれで私が余してしまうようだったら、後に魔法の実験台にしてさし上げますから」
「なんでさ。
「これは必要な天誅ですもの、ええ。乙女を辱めるような殿方には必須の罰ですわ」
ふふふ、と暗い笑顔で笑うオーレリーに何故か気後れさせられながら、ラストは彼女の前に置かれた本日の主役の覆いに手をかけた。
鏡のように磨かれた銀製の丸蓋からは、じわじわと中に閉じ込められた熱気が顔を覗かせている。
「まあ、別に良いけど。この料理は必ず君を満足させてみせるからね――さあ、どうぞ」
――かぱり、と封印が開かれる。
ヴェルジネアでも五指に入るであろう料理人のシュルマが、魂を込めて作り上げた渾身の一皿。
間違いなくオーレリーの頬を緩めさせしめ、様子を見守る人々になんとしてでも自分も口にしたいと涎を呑ませるであろう料理が今、厳かに姿を現す。
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