第132話 あくる日のデーツィロスにて
神秘の月が降り、空高く昇る太陽が街の日常をあまねく照らし出す。
怪盗の時間が終わり、人々がお天道様の下でそれぞれの仕事に精を出す中、ラストもまた何食わぬ普段通りの顔でデーツィロスを訪れる客をもてなしていた。
すっかりこの区域の顔の一つとなった食堂には、今日も今日とて大勢のヴェルジネア人が訪れる。彼らは美味で腹を満たしては、一時の安らぎに心を委ねて午後へ向けた活力を充填する。
その一方、その有り余る活力を発揮すべきこの後の仕事が待ちきれず、美味しい食事を味わう勢いに任せて舌を大いに弾ませる者もいた。
「だからよ、俺はあの怪盗に救われたんだ! あの【
そう言った者たちが決まって口にするのはもちろん、アルセーナの話題だ。
今もまた、興奮の真っただ中にいるらしき一人の男性客が連れの二人を前にして弁舌を振るっている。
「くそったれの白豚が俺たちに炎を向けてきた時、俺は死んだと正直思ったね。だけど次の瞬間、ばーって回転する風が領主の娘の魔法を全部打ち消した! んで、そのときアルセーナと俺の目が合って……」
「はいはい、分かってるよ。というかその話何度目だよ、もう聞き飽きたぜ。親方だってうんざりしてたぞ。それにしたってちきしょう、羨ましいなあ。俺だって留守番の貧乏くじ引かなきゃ見に行ってたのによ」
「ははっ、うちも似たようなもんだ。おかげで嫁は朝っぱらから文句たらたらだったぜ、あたしより若い娘が良いのかいってな」
彼の友人たちはどうやら朝の仕事の最中に聞き飽きてしまっていたようで、胸に手を当てながらべらべらと語る同僚の話を適当に聞き流しながら適度に話を弾ませていた。
アルセーナと妻のどちらを取るべきか、男性にとっては悩むべき難題をぶつけられた正面の仲間に、聞き手役が面白そうに笑いながら続きを促す。
「へぇ、それでお前はどう言って許してもらったんだ?」
「はんっ、なにも言うことはないさ。その場で口づけして、俺にとって誰が一番なのかを教えてやったら年甲斐もねえ赤い顔で許してくれたよ」
「けっ、下らねえオチだな。まったく、どいつもこいつも人生楽しんでて羨ましい限りだぜ……ラスト、もう一杯酒をくれ!」
「構いませんが、皆さん午後も仕事があるんでしょう? ほどほどにしておかないと、パリス親方に怒られますよ。あの方の弓の練習台になりたくないのなら、なにか別のものにしませんか?」
彼らの親方、武器職人であるパリスもまたデーツィロスの常連である。
特に弓を作ることにかけては天才的な腕前であるらしく、かつて先代のヴェルジネア卿に献上したこともあるのだと自慢げに話していたことをラストは覚えていた。
なお、オーレリーによればその弓は、現在の領主であるアヴァルによって数年前に二束三文で売り払われ、どこかの村の狩人が買い取って行ったらしい。
「おっと、そういやそうだった。悪い、それじゃ代わりに婆さんのコーヒーを三つ……砂糖はいらねえ、そこの愛妻家のせいでな。だが、そこのやかましい寝不足野郎にはとびっきりきついのを頼む」
「はい、承りました。そのように伝えてまいります」
今度は一番最初に相対した門番【
ラストからしてみればこのような客は朝から何人も見てきたために、特に反応を示すことなく素直に奥の老婆の下へ言われた通りの注文を伝えに行く。
彼のように、昨夜の怪盗の活躍がまだ尾を引いている人間は多数見受けられる。
彼らはここへ来て気を緩ませては、思い出したかのように自らの味わった興奮についてをたっぷりと声の続く限り饒舌に語り出すのだ。
「とはいっても、無理もないかな」
と、ラストはあえて多少の大声程度ならば止めなかった。
そこらにありふれた粗製騎士たちの振るう暴力とは異なり、自分たちの
加えて、グレイセスの魔法による炎で命の恐怖に震えかけていた中での、燃え盛る炎の中でなおも立ち上がる一人の淑女の姿。観客である彼らが恐れおののいた埒外の暴威を前にしても立ち向かってみせたアルセーナの姿は、月よりも眩しく輝いていた。
その残光が未だ瞼に残っているのも仕方のないことだ。
そう、彼は甘い目で見逃しながら注文通りのコーヒーを運ぶ。
――しかし、それでも踏み越えてはならない限度というものはある。
「あの綺麗な、熟成した特上の
がたりと椅子の上へ昇った男性が、そのまま勢いに任せて机の上によじ登ろうとする。
その、天にも昇らんほどのアルセーナへの想いを今高らかに、店中の人間に宣言しようとしたところで。
「お客様、お戯れもどうかほどほどに」
ラストがかたりと音を立てて、受け皿に乗せられたカップをテーブルの上に置いた。
その一見聞き過ごしてしまいそうな小さな音に、男は何故かぴたりと前衛的な彫像のように動きを止めた――止めざるを得なかった。
柔らかな接客用の笑みの裏に控える、赤い瞳が彼を射抜く。
「ここは皆様が心を安らげる場所なので、どうぞ貴方様も腰を落ち着けて……」
このデーツィロスを街の名店に引き上げた、
それをもたらしたラストが腕を振るう相手は、なにも騎士だけではない。
男性はゆっくりと、錆びついた時計のような動きで身体を戻し、元居た席に腰を下ろした。
その目前に、ラストが黒い悪魔の如く輝く液体の注がれた小さな陶磁器を差し出す。
そこから立ち昇る気高くもどこか酸味の効いた香りに、彼は店員の視線に促されるがままに手を伸ばし、ちびりと少しだけ口に含んだ。
「んぶぐっ!?」
口の中を火傷してしまいそうな熱と、それによって麻痺しかけた舌が一周回って甘味さえ感じるほどの濃厚な苦みが、彼の意識を瞬く間に現世へと覚醒させた。
「ん、んぅーっ……んぐっ! ……ごほっ、ごほごほっ、げほっ!」
もちろんラストの見ている手前吐き出すことも出来ず、そのままごくりと飲み干した後、彼は胃の奥から込み上げてきそうな心臓の爆発に何度もせき込んだ。
「お目覚めになられましたか?」
「あ、ああっ……悪かった、騒ぎ過ぎた。もうすっきり目が醒めたよ、こいつのおかげでな」
「それならば良かった。それでは、残りはこちらをたっぷりと入れてお飲みください。本来はそういうものですから」
そうしてラストが差し出した牛乳と蜂蜜をたっぷりと注ぎ入れたものを飲み込めば、打って変わってげっそりとしていた男性の顔に正気が戻っていく。
やがて頭も冷えたようで、彼は周囲の客に頭を下げた後、二人の友に揶揄われながら早々に店を後にするのだった。
「またのご来店を、心よりお待ちしております」
彼らを見送った後、ラストは慣れた手つきで残された皿を片付けて新たな椅子を店の奥から運んでくる。元々店を開いた最初期から念のためにと用意されていて埃を被っていたものを、今日の店を包むであろう雰囲気を予想していた彼によって丹念に磨き直されたものだ。
速やかに次の客を迎え入れる準備を終えたラストが、店の扉を開く。
「……あっ、あの。こんにちは、ラスト君……。今、よろしいでしょうか?」
その向こうに並んでいたはずの長蛇の列が、いつの間にか姿を消していた。
代わりに次なる客として彼の前に姿を現したのは、オーレリーだった。
もじもじと身体を震わせながら、恥ずかしそうに視線を僅かに背けて確認を取る彼女の様子は普段の凛然とした雰囲気とはまるで異なる。
今のオーレリーは月下に佇む麗人というよりも、月に跳ねるという子ウサギのように愛らしい。
どこか遠慮がちな、その珍しい様子にラストは一瞬だけきょとんとしてから笑いを漏らした。年頃の乙女のような恥じらいをみせる彼女がなんだか面白く見えてしまって、ふっと店員としての仮面の隙間から覗いた彼本来の微笑みでもって彼女を迎え入れた。
「なっ、なにかおかしかったのでしょうか?」
「いや、なにも変な所はないよ。それどころか、今日の服もすごく似合ってる。こんにちはオーレリーさん、来てくれたんだね。待ってたよ。それに約束も守ってくれたみたいで、嬉しいな」
「約束、ですか?」
その言葉に、今度は彼女が「んうっ?」と目を丸くする番だった。
なんのことだか心当たりがないと言った様子のオーレリーに、ラストは不思議そうに首を傾げた。
「――あれ、もう忘れちゃったのかな? ほら、言ったよね。君のような綺麗な人が来てくれたら、お客さんも喜んで来てくれるってさ」
「……っ!? そ、それはっ……」
「いつもみたいに休憩時間じゃなくて良かった。
彼の呟きを聞いて、オーレリーの頬が褒められたことにきゅーっと赤くなりかける。
しかし、すぐさまそこから血の気が引いていくのを彼女は悟った。
ラストの語った約束、その意味を理解して表情を固く引き締める彼女を、彼は変わらない笑顔でデーツィロスの中へと引き入れた。
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