第131話 次は太陽の下で
「……ドロップス、様でしたか?」
名前を呼ばれて怪訝そうな顔を浮かべたラストに、アルセーナは急ぎ氏を付けて言葉を修正した。
なにせ彼らはこの場が初対面で、それで呼び捨てにするのは不自然にもほどがあるからだ。
「そうだけど、まさか君みたいな有名人に覚えてもらえてたなんて光栄だよ」
「謙遜なさらなくともよろしいでしょうに。悪名高い騎士たちに沈黙をもたらしたヴェルジネアの恩人のことは、この街で過ごしていれば否が応でも風が耳に運んできますもの」
そこで一呼吸置いて、彼女は確かめるようにゆっくりと口を動かす。
「それに、お屋敷で助けてくださったのも貴方なのでしょう? セルウス・ヴェルジネアの接敵を忠告し、グレイセスの魔法を撃ち破った声は貴方のものに他なりませんでしたし」
彼女は記憶の中の声とたった今何も遮るものがないラストの声を聞いて、間違いないと頷く。
彼は特に誤魔化すこともなく、素直に頷いた。
「うん。もしかして余計なお世話だったかな?」
「いえ、助かりましたわ。お恥ずかしながら、魔力の残量が少々心もとなかったものですから」
そう、アルセーナはぺこりと頭を下げる。
「この場で騎士たちを追い払ってくださったことについても、改めて感謝いたします。っう……それで、お礼をさせていただきたいのは山々なのですが、大変申し訳ないことに今はまだ仕事を残しておりましてっ……今宵助けを求める人々はまだ数多く、彼らに【
身体を襲う痛みに耐えながら恐る恐る申し出た彼女に、ラストはもちろんとすぐに首を縦に振った。
「君が忙しいのは分かってるよ。それでも、少しばかり時間を取らせてもらえないかな。別に君を手間取らせるつもりはないからさ。……ただ、その痛ましい身体を治すくらいはした方が良いんじゃないかな」
ラストの赤い瞳が、アルセーナの全身をゆっくりと観察する。
その瞳の奥にうっすらと濃厚な魔力の輝きが宿るのを、彼女は見ていた。
「肋骨の内三本が骨折、二本に罅。右大腿骨と左の
「っ! ……よくお分かりになりますね」
「自分の身体で実験済みだからね、うん。本当に色々と……よく怪我したんだ。骨折なんてもう数えきれないくらいに」
一瞬遠い目を向けた彼の過去に、アルセーナは僅かばかり興味を抱いた。
しかしラストはすぐに気を取り直して彼女に視線を戻したため、残念ながらその先を窺うことは出来なかった。
「ともかく、今この場で魔法で治せるものは治させてもらいたいんだ。この後にまた騎士たちに遭遇した時の対処も考えなくちゃならないし、なによりそのまま放っておいたら、せっかくの美人が台無しになっちゃうと思うから」
その言い方に、アルセーナは少したじろいだ後、口元を抑えて微笑んだ。
「あら、このような場で口説かれるおつもりですか?」
「口説っ……違うよ。僕はただ、本当のことを言おうとしただけで……」
彼女の反応に、ラストは慌てて顔を赤らめた。
「冗談ですわ。紳士的な方なのでてっきり女性慣れしているかと思えば、案外うぶなお方だったのですね」
「まったく、揶揄わないでよ……。僕をまるで女の子を誑かすロクでなしみたいに言うなんて。ただ、綺麗なものを綺麗だって言っただけなのに」
「申し訳ありません、ですがそれは言い訳になっておりませんよ。――まあ、それはさておいて。それで、私にとっては願ってもない提案ですが、本当にこれらを治すことが可能なのですか? その、失礼ながら。こうして向かい合ってみても、ドロップス様は魔法使いには見えないものですので」
優れた魔力の持ち主であればあるほど、強い魔力を周囲に纏っているというのがアルセーナにとっての常識だ。
しかし、目の前のラストにはそのような強者のオーラらしきものが全く見えない。
「ラストで良いよ。で、君の懸念についてだけど、それは僕の魔力が普通の魔法使いと比べてもかなり少ないからじゃないかな。僕はあいにくとそこまで出来た魔法使いじゃなくてね、ちょっと初心者用の魔法を使えばそれだけでからっけつになっちゃうくらいなんだ。でも、君を治すくらいは問題なく出来るよ。任せてもらえないかな?」
とはいえ、彼にはグレイセスの魔法を撃ち破ったという実績がある。
微量の魔力で魔法陣を打ち消す技能の正体については未だ不明だが、彼の言葉に嘘偽りの気配は見られなかった。またアルセーナの見たラストの瞳には、彼女へ向けた純粋な憂いの感情が映っており、邪なものは何一つ見られなかった。
それらを踏まえて、彼女はラストに自身の治療を委ねてみることにした。
「……分かりました。それでは、どうぞよろしくお願いいたします」
そうして近くの木箱の上に腰を下ろして受け入れ態勢を整えた彼女に、ラストは歩み寄る。
「素直に受け入れてくれてありがとう。でも、自分で言うのもなんだけど、他人に身体を任せるのって怖くないかい? 僕はこれでも、この街に来てまだ一か月くらいしか経ってない他人だよ? 信頼に足るほどの情報が集まったとは思えないんだけど」
「いいえ、今ある噂と、その真っ直ぐな瞳だけで十分信頼に値すると判断させていただきましたわ。……それに、貴方の情報ならば既にたっぷりと知っておりますから」
「え?」
「なんでもありませんわ。では、お願いします」
ぼそりと呟いた一言を誤魔化して、彼女は帽子を脱いで傍に置いた。
「そうかい? じゃあ、失礼するね。まずはお手を拝借させてもらうよ。良いかな?」
「許可を出したのですから、一々確認していただかなくても問題ありませんわ。その時間も、今は惜しいのです」
「うん、それなら早速行くよ。ちょっと気持ち悪くて傷が痛むかもしれないけど、我慢してね」
そう言うや否や、ラストに握られた手の中からなにやら奇妙な感覚がアルセーナの体内に侵入してくる。
その初めての感触に、彼女は悶えながら説明を請うた。
「っ、あんっ……これは? くすぐったくて、暖かいような……」
「魔力の糸だよ。これで君の体内から、折れている骨を動かして元の位置に戻すんだ。そっちの方が少量の魔力で治せし、これをしないと曲がったまま治してしまうかもしれない。そうなったら、後遺症で身体が傾いて成長することもあるから気をつけないとね」
「うっ、くっ……そんな知識を、どこでっ……」
「とある多才な先生からだよ。自慢の師匠なんだ。……さ、骨を元の位置に戻すよ。一気にやるのと一つずつ、どちらが良い?」
「もちろん、早い方でお願いしますっ……ひゃっ!」
身体に走るのは気持ち悪いどころか、逆に不思議と心地よい熱を帯びた快感で、アルセーナはつい可愛らしい声を漏らしてしまう。
しかし、先ほどとは異なりラストはその声色について何一つ反応を返さない。
彼女の体内の状況に神経を集中しているため、余計な情報は今の彼の意識に届かない。
「分かった。それならお望み通り、全部纏めて戻すよ。辛いけど痛みは一瞬だから、これを噛んで堪えてて――」
彼は手早くハンカチを彼女の口元にねじ込んで、合図を出す。
「行くよ……三、二、一っ!」
瞬間――ぴきぃぃぃーっ! と、彼女の身体を雷が落ちたかのような錯覚が襲った。
「うくぅぅぅーっ! っ、くぅっ、ふーっ、ふーっ……」
一瞬のうちに全身を駆け巡った激痛に、思わず失神しかけた彼女の視界に星が舞う。
くらりと倒れかけた彼女の身体を支えながら、ラストは落ち着けさせるように頭を撫でさすりながら言い聞かせる。
「よく頑張ったね。後は魔法をかけて骨を繋げるだけだから、すぐに終わる――はい、終わったよ」
「――えっ?」
その一言に、彼女は意識を現実に引き戻される。
信じられないような治療の速さに愕然とするが、試しに腕や足を動かしてみても、まったく痛みが無い。正確には肌の火傷は引き攣るような痛みを訴え続けているが、確かに骨から伝わる鈍痛が嘘のように彼女の身体から消え去っていた。
「ですが詠唱もなにも……?」
「無詠唱魔法だよ。君だって逃げる時に光魔法とかを使ってたじゃないか」
ラストが首を傾げるが、それに対してアルセーナもまた首を傾げた。
「あれはその、詠唱を特定の言葉に置き換えているだけですわ。普通の話し言葉や指鳴らしの音で魔法が発動するようにも出来ると本に載っていたので、何度も繰り返して練習して……でも、しょせんは相手を騙すための見せかけのものですわ。完全な無詠唱だなんて、本当に可能なのですか?」
それを聞いて、彼は納得したように目を見開いた。
「君の場合はそうだったのか? あー、なるほどね……うん。無詠唱は君にも可能と言えば可能だけど」
その言葉にアルセーナは怪我が残っているのにも構わず、ぐいっとラストに顔を近づけて真剣に迫る。
「なら、ぜひ後学のため教えてくださいませんか? ――そう言えば、貴方に懲らしめられた騎士たちが謎の痛みを訴えていたのも、あの時は誤魔化されましたけど、もしかして何らかの無詠唱魔法を行使していたのではないですか?」
「ちょっと、近いよっ。……って、あの時?」
彼女は忘れているようだが、今のアルセーナの服装は至る所をセルウスの風の刃に切り裂かれ、もしくはグレイセスの炎によって焼かれており、傷だらけだ。
その隙間から覗く艶めかしい肌にラストが心臓をどきんとさせる中、咄嗟に漏れた彼女の発言の一部をその耳が鋭く聞き咎めた。
「もしかして君、僕とオーレリーさんの会話内容まで知ってるのかい?」
「あっ……え、ええ。偶然貴方の姿を見に件のお店を訪れた際に、耳に挟んでしまいまして。盗み聞きするつもりではなかったのですが、つい……」
「いや、隠してはいなかったから、気にしなくても別に良いけれど。……さて、名残惜しいけれど最低限の治療は終わったし、そろそろ君を送り出さないとね」
ラストはもう良いだろうと、抱き支えていた彼女の身体をそっと放して遠ざかる。
「あっ……」
それに対してアルセーナは、僅かに手を伸ばしかけたがすぐに引っ込めた。
傍に寄り添っていたラストの力強い感触は頼りになるようで、まるで大樹の幹に背を預けているような感触だった。もう少しだけ味わっていたかったのだが、彼女にはまだ大事な仕事が残っている。心を落ち着けることが許されるのはその後なのだと、彼女はぎゅっと帽子を被り直して己を戒めた。
「あと、一応こっちも渡しておくよ。使ってくれ」
離れたラストが投げ渡したものを、彼女は危なげなく受け止める。
アルセーナの手に渡ったのは小さな茶色のガラス瓶だった。その蓋を開けてみれば、中にはどろりとした甘い香りを持つ緑色の粘液が収められていた。
「魔法の軟膏だよ。僕の魔力じゃ全体を治すには足りなかったからね、表面の火傷がまだ残ってる。でも今夜のうちにこれを塗っておけば、明日の朝には跡形もなく綺麗さっぱりと消えてるから」
「ええっ、そのような魔法薬なんて聞いたことがありませんわよ……?」
しかしここまでくれば一概に嘘だとは思えなくて、物は試しとアルセーナは指先でひとすくいした分を上腕部に塗ってみた。すると、火傷のじゅくじゅくとした跡がみるみるうちに引いていく。
そうして綺麗になった肌は、元のものと比べてなんら遜色がないほどの乳白色を宿していた。
「嘘でしょう!? このような貴重なものまで……あの、本当になんとお礼を申し上げればよいか分からなくなってきたのですけれど。というか、私の差し出せるものの中にこれに匹敵するような類のものはなくて……これ、ちょっと使ってしまいましたけれど、お返しさせていだたいても? 即効性もあってなおかつ跡も分からないほどに消してしまうことの出来るお薬なんて、この身にはあまるものですわっ」
いくら魔法でも、完璧に傷を治すということは難しい。
術者の技量によって周囲の肌との差が目立ったり、傷跡が不自然に盛り上がったりすることがある。
しかしラストの手渡したものは、高位の治療魔法の使い手と同等の効用を持つ薬だ。もし魔法の使い手の方を選ぶとしたら、それだけで容易に今日彼女が盗んだ鞄の中身がまるっと消し飛んでしまうほどだ。
それを惜しげもなく渡されたことに慌てて返品しようとするが、ラストはそれを受け付けないといった風に手を後ろの方に隠してしまった。
「いいよ、気にしなくても。君に見返りがなくとも街の人々に手を差し伸べる理由があるように、僕にも君を幇助する理由があるんだから。ラスト・ドロップスのことをよく知っている君なら、それについても分かっていると思うけれど――今はいいか。君の言う通り、時間がないからね」
そのまま、彼は近くの屋根の上に跳んで別れの挨拶を告げる。
「さ、僕はもう戻るよ。もう少ししたら朝の仕込みが始まるしね。もし、どうしても返したいというのなら、また今度デーツィロスに来てお食事をしてくれた時にでも。君みたいな心の持ち主は、きっとその魔法の仮面が外れた素の顔も綺麗なんだろう。そんな人が来てくれるとなれば集客に大いに助かるからね、大歓迎だよ。無詠唱についても、時間があればその時にお話ししよう。じゃあ、今度は太陽の下で会おう。さようなら、アルセーナさん」
身を翻したラストは、潔く夜闇の向こうへと姿を消していった。
「あ、待って……ラストっ、
それを反射的に追いかけようとする彼女だったが、
「――おい、こっちから女の声が聞こえたぞ! 怪盗かもしれん!」
「……くっ、またですか。邪魔を……いえ、そうでした。まずはこちらを配ってしまわなければ……」
自分を追いかける騎士の新たな声が近づいてきて、彼女はまだまだ中身の詰まっている自らの鞄に目を落とす。
今はとにかく、この満月の落とし物を問題を抱えた全ての家庭に配ってしまうことが怪盗アルセーナにとって最重要事項なのは変わっていない。
すっかり元気になった身体で、彼女は再び夜の街に駆けだすのだった。
――どうやって昼間のラストに会いに行くべきかと、ほんのりと熱を持った脳細胞を悩ませながら。
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