第130話 怪盗と魔弾の正体
胸中の興奮冷めやらぬ人々が戻る前の下町にて、寂々たる無人の裏路地を歩く一つの影があった。
誰であろう、【
今まさに大仕事を終えたばかりであったが、彼女にはまだ行うべき役目が残されていた。本来の目的から考えれば、むしろこちらの方がよほど重要な使命だと考えられる。
彼女は頭の中の地図と照らし合わせ、住民を眠りから起こさないように足音を殺しながら、とある一つの家へと近寄った。
その中に住まう家族の事情を思い返し、アルセーナの瞳に涙が滲む。
「ごめんなさい、ベレットさん……」
ベレット一家は少し前に導入された帽子税によって破産した、元帽子屋であった。棚に陳列されていた商品にまで纏めてけちをつけられた挙句、税の導入によって需要が減少したために、彼らは廃業せざるを得なかった。だというのに、アヴァルの配下である役人は税の取り立てを止めようとはしない。
「ですが、これで彼らの要求分には応えられます。私が言えた義理ではありませんが、どうか息子さんをお大事になさってくださいな……」
大切な一人息子を育てるために夫婦揃って働く両親に無言で祈りを捧げて、彼女は軒先に結わえ付けられていた布をほどく。そこに鞄から取り出した宝石を二つ封じてから、そっと窓の奥に安置する。
この【
ヴェルジネア家の人間は彼らを忠実で真面目な犬だと称賛するが、万が一主の家が零落した場合もそれに従って運命を共にするのだろうか?
そう、アルセーナは疑問を抱かずにはいられない。
「下らない……それよりも、次にここから近いのはどなたの家だったでしょう?」
ヴェルジネアの暴政によって不利益を被った家は、両手の指で数えきれないほどに存在する。
その中から特に被害を受けた家を並べながら、その住所を思い出そうとして――彼女はぐらりと足をふらつかせる。
「くぅっ! ……ふーっ、はーっ、はーっ……。まだ、休むわけにはいかないのですっ……」
息を荒げた彼女の額には、大粒の汗がいくつも浮かんでいる。
今宵は熱帯夜ではなく、肌を撫でる風は涼しい。彼女が苦しんでいるのは外界の影響によるものでなく、重傷を負った肉体が内側から訴える激痛によってだ。
月明かりが照らしたアルセーナの身体は満身創痍と評して差し支えなく、いくつもの生々しい傷跡が浮かんでいる。その中でも特に目立つのは脚部を覆う大火傷だ。グレイセスの【
歩を進める度に、焼け爛れた皮膚と肉がじくじくと蠢き、衝撃を受けた骨がびきびきと鈍い痛みを神経を通して脳内に叫ぶ。
本来ならば治癒魔法【
今すぐにも帰宅して横になり、微睡みに身体を委ねたい――それでも、アルセーナが再び足を踏み出すのには五秒もかからなかった。
「確か次は、フルヘンドさんのお宅だったはず……先を曲がって、左に進んで大通りを渡って……巡回の騎士に見つからないよう、気をつけませんと……」
鼻高税という、一定の水準より鼻頭がうず高ければ税を収めなければならないという馬鹿馬鹿しい能書きによって、家族三代分を支払うよう要求された家族がいる。
ちなみにその既定の高さと言うのが領主アヴァルのものであり、かつて自身の鼻の低さを恨んだ彼の私怨によるものであるというのは市民の中での暗黙の定説である。
既に数多くの税金で雁字搦めにされていた家族は支払いを行えず、その延滞税の代わりとして娘をセルウスの下に連れ去られてしまった。
だが、それも彼女がもたらす【
欠けた家族を元に戻すために、痛みに耐えながら、彼女はかつて地面に身体を投げうって嘆き悲しんでいた親たちの枕元へ向かおうとする。
その耳が、不穏な足音を捉えた。
「――どうだ? 見つかったか?」
「……いや、分からん。だが確かに、さっきこの辺りに誰かいたぞ――」
彼女は咄嗟に辺りを見回し、近くにあった蓋つきの苔むした防火水槽の中に飛び込んだ。
蒸れた、嫌な匂いが鼻をついて、彼女は思わず顔を顰めた。どうやら長い間使われていないようだ。
その中で息を殺していると、どたどたと騒がしい足音が声の聞こえた方向からやってくる。
こすれ合う金属の音が響く――鎧を着込んだ騎士たちだ。
ラストの手によって以前のような暴力を振るうことは出来なくなったと言えど、今のアルセーナを捉えるにはさほどの力は必要ない。
決して見つかるわけには行かないと、彼女は文句ひとつ言わずにじっと息を潜める。
ぬるりとした水槽の中は年頃の娘には実に嫌な感触だ。世にはばかる大怪盗がそこに身を屈めていなければならないなど、普通であれば惨めになって耐えられないに違いない。
しかし、それでもアルセーナはかび臭い空気を吸いながら耐え忍ぶ。
――彼女に期待を寄せる、この街の人々のために。
「おい、こことか入れそうじゃないか? 大きさ的にはたぶん、ぎりぎり行けそうだぜ」
「冗談だろ? 誰が入るかよそんなところ。なんだか臭ぇし、触りたくもないな。ま、でも一応見ておくか。どれ、そこらに棒とかないかね……お、あったあった」
運の悪いことに彼らは彼女の隠れる水槽に目をつけてしまったようで、ごそごそと音が聞こえる。
そうして笑い合いながら近づく男たちの気配に、アルセーナはいっそこちらから出て行こうかと考えた。
突然姿を現した相手が気を取り直すまでの間に、身体に鞭を打って逃げ出そうかと覚悟を決めて身構える。
その時、この場にいた誰のものでもない新たな声が聞こえた。
「――やあ、良い月夜だね」
アルセーナは、それがヴェルジネア邸で影から自分を助けた誰かの声と同じものであることに気がついた。
あの時は詳しく考察することも出来なかったが、彼女の耳が確かならば男性の声に聞こえる。しかし、それにしては妙に澄んでいて、柔らかに耳朶に響く。どうやら声変わりを迎えていないようだ。
――それほど幼い相手が、謎の魔法を駆使してグレイセスの魔法を破ったのか。
自身の窮地をよそに、彼女はその妙に聞き覚えのあるような救いの主の声に耳を澄ませた。
「げぇっ、お前は……」
アルセーナと違って騎士たちは相手のことを知っていたようで、途端に先ほどまでの余裕を引っ込めて怯えたような声を上げる。
「おい、なんでお前がここにいるんだよっ! 俺たちは今日はなにもしてねえぞ!?」
「知ってるよ。ただ、偶然見かけたから声をかけただけなんだ。何もしてないのなら、僕だって何かをするつもりはないよ。だからそこまで大げさに驚かなくたって良いじゃないか……まあ、それで君たちが暴力を振るわないのなら甘んじて受け入れるけども」
「うるせえっ、お前のせいで身体が痛くて仕方がないんだぞ! どうせお前が何かしたんだろ、さっさと解除しろ!」
「嫌だよ。だってそうしたらまたこれまでの生活に戻るんだろ。……それよりも、怪盗を探してるんじゃないのかい? だったら耳寄りな情報があるんだけど」
彼の言葉に、アルセーナはびくんと身体を震わせる。
その衝撃で傷みが再発してしまい、彼女は呻きそうになるのを必死になって押し殺すことを余儀なくされた。
――まさか、ここまで来て自分を売ったりするのだろうか?
そんな疑念が彼女の脳裏を過ぎる。
だが、ここまで彼は怪盗の逃走を二度も手助けしてくれた。今回もそうしてくれるかもしれないという思いから、アルセーナは迷いながらもこのまま隠れ続けることを選んだ。
「なんだよ、まさか怪盗の場所を教えてくれるってんじゃないだろうな?」
「その通りさ」
「おいおい、本当かよ」
「本当さ。いくら義賊と言えど、この街を騒がせる怪盗をそのまま放置しておくのは忍びないと思ったんだ」
アルセーナの胸の動悸が激しくなる。
その言葉を嘘だと信じながらも、どうしても表面上の言葉が頭に残ってしまう。
「……」
「まあ、君たちが信じようと信じまいとどちらでも良いけれど、聞くだけなら無料だけどね。怪盗ならついさっき――」
ばくん、ばくんとドレスの内側に秘められた心臓が嫌な音を立てて鳴り響く。
「――この道の先を進んで右の方へ逃げていったよ。早くしないとせっかくの手柄が逃げちゃうと思うけど……この情報を無駄にするもしないも、君たち次第だね」
彼が語ったのは、偽の情報だった。
賭けに勝利したことにアルセーナは安堵しようとして、慌てて気を引き締め直す。
ここで油断して物音を立てれば、騎士たちは不審に思ってもう一度彼女の姿を隠す水槽の蓋を開けようとするだろう。
「……信じられないな。お前みたいなのが怪盗の居場所を言うなんて、嘘じゃないのかよ」
「言ったろ、信じるも信じないも君たちの勝手だって。僕はただ良心に従って通報しただけなんだけどね。それに、かなりの大火傷を負ってるみたいだし、早く保護してあげないと死んじゃうかもしれないから」
少しばかり逡巡した後、騎士の一人が提案する。
「……よし分かった。二手に分かれるぞ。俺はあいつの言わなかったほうに行く、お前は逆の方に行け」
「は? 信じるのかよ、あんな気に食わない奴のことをよ?」
「だからだ。両方行けば嘘だろうと真実だろうと捕まえられる。グレイセス様の魔法で火傷してるんだ、今なら一人ずつでも捕まえられるぜ。こんな機会を逃すつもりか?」
「……それもそうか。よし、んじゃそうしようぜ。どっちが捕まえても怨みっこなしだからな」
「分かってるさ。でも、領主の所に連れていく前に少しくらいはお楽しみを分けてくれよ」
くひひっ、と下卑た笑い声を響かせながら、騎士たちは二手に分かれて立ち去っていく。
そうして鉄靴の音がまったく聞こえなくなった頃、残っていた一人の気配が静かに動き出す。
「――さて、もういいかな。まったく、おかしいとは思わなかったのかな。通報するくらいなら、怪盗を見つけた時にどうして放置してここへ来たんだとか、少しは疑ってくれてもいいのにね。せっかく模範解答を用意してたのに無駄になっちゃったよ。そこの所、君はどう思う?」
どうやら相手は最初から、完全にアルセーナの隠れていた場所を見抜いていたようだ。
いるかどうかも分からない相手に適当にかまをかけたにしては、彼の声はやけにアルセーナの潜む防火水槽に向けられているように聞こえた。
確信のこもったその呟きに、彼女は観念することに決めた。
どうせグレイセスの魔法を壊して見せるような謎の技量を持つ相手から、今の状態で逃げきることなど出来やしないのだから。
「さて。私としてはそちらの方がありがたいのですけれど」
捕まるにしても、最後くらいは怪盗らしく毅然としてありたい――その思いと共に、彼女はゆっくりとぬめりのある防火水槽の天井を開けて、外に姿を現した。
「確かにね。……こんばんは、【
彼女を出迎えるように優しく声をかけたのは、純粋な白色をたたえた青年だった。色素の無い無機質な髪が、さらりと暗闇の中に浮かび上がる。
そして、その瞳に覗く赤色はグレイセスの放つ炎の暴力的な色彩とは違い、落ち着いた輝きを放っていた。
「……貴方は、ラストっ……」
アルセーナの口から、露わになった魔弾の正体がぼそりとこぼれた。
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