第129話 夜は更けゆきて


 人々の目を一心に集めた夜の華が姿を消し、ヴェルジネア邸の周囲には静寂が戻る。

 彼らは口々に怪盗の見せた激闘について語り合いながら、次の活躍へと心を躍らせて帰宅の途に就き始める。

 ましてや、今宵の怪盗は単に宝を盗むだけでなく、狂乱した貴族のグレイセスから彼らを守ったのだ。その口から血を吐こうとも立ち上がった果敢な女傑の姿に、彼らの心さえも盗まれてしまうのも無理はなかった。

 そして、それは眼下の人々だけでなく、子供たちも同様であった。


「さあ、夜のお出かけもこれで終わりだよ。怪盗も帰っちゃったし、他の人たちも帰り始めてる。僕たちも自分の場所に戻ろうか」


 そうラストが呼び掛けるも、子供たちはうわの空でアルセーナが姿を消した満月を見つめていた。


「……すっげー格好良かったあ……炎がどんどんって飛んできて、それをアルセーナの魔法が守るの。あれが魔法使いの戦いなんだ……」

「魔法って、あんなに凄いものだったんだね……。それに、アルセーナも。あんなに傷だらけになっても立ち上がるって、信じられない……」


 彼らの瞳からは、いまだ最後の決闘の光景が離れてはいないようだった――それも無理はない。

 いくらラストから彼女の活躍を間接的に知らされていたとはいえ、直接見ることの出来ないもどかしさは埋められない。むしろ、中途半端に教えられるだけ、なおさら二人の心には悶々とした思いが募るばかりだった。

 そこへ、先の炎と風の魔法が乱れ舞う鮮やかな戦闘を見せつけられたのだ。

 見るからに悪役の令嬢であるグレイセスと、それに毅然として立ち向かう正義の怪盗アルセーナという至極単純明快な配役。

 加えて、敗色が濃厚な場面から見事逃亡しきってみせた話の流れといい、今夜の活劇は幼い子供たちの心を刺激するには有り余るものだった。


「……まあ、気持ちは分かるけどね」


 互いにアルセーナの素晴らしさを呟き合う子供たちを見ながら、ラストはかつての自分にも似たようなことがあったことを思い出して苦笑する。

 かつてエスの屋敷を訪れて間もない頃、彼女の魔法と剣術を合一させた魔剣術と言うべき代物――【紫棘降雷シキョクコウライ】を始めて見た時に、ラストは今の子供たちと同じようにただ目の前の光景に意識を支配されるばかりだった。

 かの魔王が見せたものを突き詰めた術理の極致と称するならば、今夜の女怪盗が見せたものは決して折れることの無い大樹のように聳え立つ精神力だ。

 あらゆる逆風に耐え抜き、自らの風を自在に吹かせてみせる彼女の姿は、今まさに天高く微笑む月の輝きに並び立つほど美しかった。


「でも、いつまでもこうして放っておくわけにもいかないからね。朝日が昇れば誰かに気づかれちゃうし、ひとまず孤児院に帰らないと。ね、アズロ君、ローザちゃん?」

「……すっげーかったなあ……」

「……私も、あんな風になれたら……」

「聞こえてないか。仕方ない、ちょっと乱暴になるけど許しておくれよ」


 ラストは彼らの世話をしているオーレリーに対し、責任を持つと宣言した。

 単に怪盗の活躍を見せるだけでなく、孤児院に連れて帰るまでが彼の負うべき責務だ。

 ぼんやりと記憶に強く刻まれたアルセーナの残滓をいつまでも見つめ続ける二人の身体を、ラストは来た時と同じように前と後ろに負ってしっかりと魔力で編んだ紐で結びつける。


「……あれ、兄ちゃん?」

「いつの間に……っていうか、これって……」


 その格好に、二人は少し前に味わうことになった奇妙な感覚を思い出して、気を取り直す。

 恐る恐るといった体で真ん中に挟んだラストに焦点を合わせた子供たちに、ラストはふっと笑いかけた。


「あ、気が付いたかな? でも良いか、こっちの方が早く着くからね。君たちも今夜は驚きの連続で疲れただろうし、さっさとベッドに戻りたいよね。任せておいて、すぐに送り届けてあげるから」

「ちょっ、ちょっと待ってくれよ!?」

「私達、自分で歩けるからっ! 」

「あははっ、遠慮しなくていいよ、なーに、これくらいアルセーナの活躍に比べたら大したことはないからさ――行くよ、せっかくの思い出を舌の痛みで終わらせたくないなら気を付けてね!」


 わたわたと手足を動かそうとした彼らに構わず、ラストは魔力を浸透させた足で駆けだした。

 一瞬のうちに風を切る速度まで加速した彼は、二人の子供を抱えているにも関わらず、躊躇なしに建物の縁へと足をかけて――跳躍した。


「あばばばっ――!?」

「むむむーっ!」


 閉じきれなかったアズロの頬が、風を受けて歪む。

 一方のローザは咄嗟にきゅっと口どころか目までかっちりと結んでいた。

 二人がそれぞれに身を襲った浮遊感に耐える中、ラストは危なげなく隣の家に音もなく降り立った。

 そうして彼は屋根の上を渡ったかと思うと、次の家へと向けて再び宙を駆ける。

 それが幾度となく繰り返されて、やがて子供たちが何度心臓を飛び跳ねさせたか数えるのを止めた頃になって、ようやくラストの足が止まった。


「着いたよ。ほら、降りて。ゆっくりでいいからね」


 二人がそっと目を開けると、そこにはいつの間にか見慣れた孤児院の門が立っていた。

 ぼんやりと薄暗い月光の中に浮かぶ教会の影が、静謐の中に三人を見下ろしている。


「あ、ああ……ありがとうっ、ととっ……」


 あまりに強い浮遊感に包まれた挙句、幾度となく上下に揺らされたせいか、平衡感覚があやふやになってしまっていたようだ。

 アズロとローザはラストの身体にぎゅっとしがみつきながら、少しずつ地面に足をつけた。

 それでもふとした折に倒れてしまいそうになって、彼はそんな二人の身体をそっと傍で支える。

 彼らの顔は月明かりでも分かるほどに青白くなっていた。

 怪盗によって熱に浮かされたのも、たっぷりと顔面に浴びせられた夜の冷風によって引いてしまったようだ。


「大丈夫かい? しばらくこうしているといい、その内に頭が慣れて落ち着くから」

「うん……ありがとう、兄ちゃん」


 そうしてぎゅっとラストのお腹の辺りを握りしめるアズロ。

 それに対し、ローザは同じように彼の服を掴みながら、責めるような目でラストを見た。


「……お兄さん、私、止めてって言ったよね?」

「ごめん。でも、怪我はしなかっただろ?」

「そうなんだけど、すっごい死にそうに思ったんだからね! あのお屋敷から炎が飛んできた時よりも、ずっとずーっとびっくりしたんだから! でも、運んでくれたのはありがとうね」

「うん……そこまで怖かったかな?」


 その問いかけに、二人は揃って大きく頷いた。


「それは悪かったね。次からは気を付けて、もうちょっと乗り心地が良くなるように頑張るよ」

「嫌だよ、もう二度と乗りたくない……」

「私も。思い出しただけで吐きそうになっちゃう」

「そ、そうかな……?」


 特訓を重ねたラストからしてみればだいぶ落ち着いた移動だったが、通常は慣れない三次元的な軌道を通れば三半規管が追い付かない。二人からしてみれば、いわば突然無重力空間に放り出されたようなものなのだ。

 実際に夕食を吐き出したり、失禁しなかっただけでも十分素晴らしいことだった。


「なんか急に眠たくなってきたな。うーん……俺、もう寝るよ。んじゃお休み、兄ちゃん。今日はすっごい楽しかったぜ。怪盗がさっと騎士を倒して、あの炎の化け物から俺たちを守ってくれたの、本っ当にすごかった!」

「それなら良かったよ。おやすみアズロ君、良い夢を」


 気分が落ち着いたら急に眠気が襲ってきたらしく、アズロは目元を擦りながら門の向こうへ戻っていった。


「……ほら、ローザちゃん。君も彼と一緒に行ったらどうかな。もう治っただろう? 早く寝ないと、明日起きれなくなっちゃうよ」

「そうだけど……ねえ、お兄さん。アルセーナ、大丈夫かな?」

「大丈夫って?」


 彼女はその場に残って、不安を目に浮かべる。


「ほら、色んなところ怪我してたでしょ? 血もお口から出てたし、私、心配なの。私たちを守ったから、あんなに傷ついちゃったのかな……?」


 悲しそうに胸の上で手を重ねたローザの憂いを断ちきるように、ラストは彼女の頭を撫でた。


「そのことなら問題ないよ、きっと。アルセーナは癒しの魔法も使えるみたいだから、落ち着いたら自分で傷を治すさ」

「本当?」

「本当だよ。だから安心して眠ろう。そうして君が悲しんでると、彼女も君のことを心配して、自分の傷を治している時間がなくなっちゃうかもしれないよ?」

「それは駄目! ……分かったわ、私もお休みする。そうした方が怪盗さんも安心するんだものね。おやすみなさい、お兄さん」

「おやすみ。次も怪盗の活躍を見られるように、頑張ってね」


 そうして胸を撫でおろした彼女もまた、孤児院の中へと戻っていく。

 それを見送ったラストの耳には、騒がしい子供たちの声が聞こえてくる。

 教会の扉の隙間から僅かに漏れ出るその声の中身は、一様に【怪盗淑女ファントレス】についてのことだ。

 静かに二人の帰りを待っていた子供たちは、今から根掘り葉掘り怪盗の活躍を聞こうとしているようだ。

 これではせっかく睡魔に身を委ねかけた二人もまた目を覚ましてしまうかもしれない。


「……だけど、今日くらいは夜更かしを許してもいいんじゃないかな。ね、オーレリーさん」


 アズロとローザの努力が特別に認められただけで、他の子供たちもまた彼らの思うように頑張っていたに違いない。

 その報酬として、たまの悪い行いくらいは見逃しても、怪盗だって怒らないだろう。

 誰かに助けを分け与えた彼らに怪盗の素晴らしい活躍がおすそ分けされることは、なんらおかしいことではない――違うだろうか?

 夜空を見上げ、そこに映る月に沈黙の内に問いかけながら、彼は子供たちを叱ることなく孤児院に背を向ける。

 ――そして、彼自身にとっての今夜の本題を果たすべく、デーツィロスとは異なる方向へラストは静かに姿を眩ませるのだった。

 更けゆく満月の夜は、明け方まではまだ少しばかり遠い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る