第128話 幕は下りて


「――おっほほほほっ、おーっほほほっ! そうよ、あたくしたちに逆らおうとする能無しなんて! 皆々焼け死んでしまえば良いのよ!」


 ヴェルジネア邸の屋上に立つグレイセスの、傲慢さと脂肪をこれほどかと言うほどに詰め込んだ腕がなんの迷いもなく振り下ろされる。

 自身の魔力をたっぷりと孕んだ極大の火球、それこそが己の身体に流れる支配者の証であると蒙昧な民衆に示すべく、彼女は魔法の名を高らかに詠った。

 ――しかし、炎渦巻く星の輝きはいつまで経っても、主の思うように眼下を焼き払おうとはしなかった。

 それどころか、【太陽烙印プロメテオラ】は端からほどけるようにして、その威容を縮小させていくではないか。


「なっ……なんでなのよ!? あたくしの魔法がっ、消えていくなんて……! ふざけないで、あれだけ魔力を食べておいてただ消えるだなんてあたくしは許しませんよ!」


 その自慢の魔法が自壊していくさまを見つめるグレイセスがどうにかしようと喚いても、魔法の崩壊は止まらない。

 やがては蝋燭の火ほどにまで縮んでしまい、最後には一瞬吹いた夜風によって残り火も完全に断たれてしまった。

 あまりにあっけない終わり方に愕然とする彼女をよそに、アルセーナはたった今眼前で起きた現象を振り返る。

 どこからか飛来した一迅の光がグレイセスの魔法陣の一部を貫いたかと思えば、そこから途端に魔法の崩壊が始まった。


「今のは……魔法なのでしょうか? それにしても、いったいどなたが……?」


 彼女の知識では、魔法陣の自壊とは通常の場合において術者の魔力もしくは技量の不足によって発生するものだった。

 その際には始めに陣の全体がぼんやりと崩れ、やがて霞のように薄くなり、空気に溶けるように消え去っていく。

 しかし、彼女が今回確認したものはそれとはまったく異なるものだった。

 グレイセスの魔法陣は夜空に奔った光が貫いた一点から、ガラスが割れる時のように全体に罅が入って砕けていった。

 その直前に聞こえた声といい、通常の魔法の失敗とは異なる光景といい、明らかに第三者が干渉した結果だと彼女は悟った。

 しかし、その正体を探るよりも先にやるべきことを終わらせるべく、彼女は口から漏れそうになる血液交じりの唾液を飲み干して、姿勢を凛と正した。

 焼けた脚がじくじくと痛みが訴えるのを懸命にこらえながら、アルセーナはその顔に余裕の微笑を再び浮かべる。


「さて、なにが起きたのでしょうね。ですがどうやら、天の月は私にこそ微笑んだようですね」

「このっ、今のはそう、偶然よ! あたくしの気まぐれに助けられたからって、そう何度もうまく行くなんて思わないで! 炎よ、我らが尊き青き血に服従せよ――」


 そうして、今度こそとグレイセスが新たな魔法を詠唱し始める。

 しかし、それもまたどこからか襲来した小さな一閃によって破却されてしまう。

 落としたビスケットのようにばらばらに砕ける魔法陣に、彼女が一つ舌打ちする。


「ちぃっ、またなの!? ええい――炎よ!」


 もう一度、彼女の身体から流れ出した魔力が意味のある文字列の円環を生み出そうとする――だが、再びその一角に罅が入ったかと思うと割れてしまう。

 簡単に散っていく魔法陣の残骸を眺めながら、使い手であるグレイセスはままならない苛立ちと共に腕をぶんぶんと振るう。勢いに負けて、指輪の一つから宝石が外れて宙を舞った。


「このぉっ! なんだというの!? まさか崇高なあたくしの魔法が失敗するだなんて、そんなわけないはずなのに!? さてはお前がなにかしたのでしょう! 今すぐにそのいんちきを止めなさい!」

「……さて、どうでしょうか。どのようなことであろうと、失敗は付き物ですわ。世の中に絶対はないのですから」


 全てが自分の思い通りに進んで当然だと、子供のように癇癪を起こすグレイセス。

 とはいえ彼女には本当に心当たりがないのだから、いんちきだと言われようと本当にアルセーナにはどうしようもない。

 とはいえこの想定外の風の流れは、どうやら彼女に味方してくれているようだ。

 ――理由は不明ですが、どうせならばこのまま勢いに乗らせてもらうといたしましょう。

 アルセーナは心の中で顔も知らぬ相手に感謝を捧げながら、炎の中にいるというのに元気に騒ぐグレイセスに向けて冷笑を作る。


「ですが、それがこうも積み重ねればうまく行かないのが当然とも考えられましょう。そうですわね、すなわち貴女には魔法を扱う、選ばれし貴族としての資格がない――というのは?」

「そんなわけがないでしょうこの下僕風情が! 良い気になったものね、見てなさい、今にその口を焼き尽くしてあげる!」

「出来るものならやってごらんなさい。もっとも、私がそれを待つ道理がどこにありまして? こちらの用事は既に済んだのですから。ほら、この通り」


 がーっ、と獣のように憤るグレイセスへと見せつけるように、アルセーナは鞄の中から取り出した一つの宝石を掲げる。

 月の光を受けて血の涙のように赤い輝きをこぼすのは、日緋色金ヒヒイロカネと呼ばれる希少な金属だ。

 一級品の魔道具や伝説に謳われる武具の素材として知られ、永遠に錆びないその輝きが宝石として加工されたものが、彼女の手の中で鮮血の如くぬらりと光る。


「――それは、あたくしの! お父様に頼んで遠路はるばる手を尽くして手に入れたものを、よくもその汚らわしい手でっ……!」


 魔法が使えないならば今度はその身で直接奪い取ろうと、グレイセスが足を踏み出そうとする。

 しかしその足場は他ならぬ彼女自身の魔法によって荒らし尽くされており、残っている数少ない無事な場所には未だ炎が燻ぶっている。

 今立っている場所から少しでも前に出ようものなら、間違いなく自分の身体のどこかに醜い傷がつく。

 そこまでして取り返そうとする気はなかったようで、彼女はぎしりと歯を食いしばってから、未練を断ち切るようにぷいっと頬を背けた。


「……いえ、その程度の石ころなんて惜しくもなんともないわ! 持っていきたければ勝手に持っていけばいくがいいわ! お父様にお願いすれば、また好きなものを買ってもらえる! 民に配って正義の味方なんて気取っているようだけど、そこからまた回収すればいいだけのことだもの!」

「そうですか」

「ええ、そうよ! お前のやってることなんて、全て無駄なのよ!」


 そう抑えきれない感情を適当に叩きつける彼女の姿からして、その言葉は単なる負け惜しみ以上の何物でもないようにしか聞こえなかった。

 それに今更負けるアルセーナではなく、彼女は怯むどころか逆にグレイセスを鋭い名剣のような瞳で見返した。


「では、私はそうして貴女がたが奪ったものを、何度でも取り返してみせましょう」


 グレイセスが何と言おうと、彼女の信念は折れる気配を見せない。

 むしろ、どれだけ叩いても一向に曲がろうとしない彼女の在り方に、グレイセスが逆にぴくりと頬を歪ませる。


「貴方がたが主張する高貴さのやらのどれだけ低俗なことか。単に生まれ持っただけのものを好き勝手に振りかざそうと、他人になにかを与えないものに、なにかが与えられることはありえませんわ。汝、己の欲するところを他人に与えよ。さすれば己の欲する以上の奇跡がお前の下に訪れるであろう――こんなこと、そこらの子供でさえ知っていましてよ」


 それっきり、彼女はこれ以上話すことはないといったん閉じていた傘を広げ直した。

 足元の熱の気流を受けて、骨組みに張られた布がふわりとはためく。

 逃げる素振りを見せたグレイセスが再び打ち落とそうとするも、


「待て、待ちなさいこの泥棒が――! 炎よ、我らが……」


 またもや魔法陣は、その真価を発揮することなく散り去っていく。

 性懲りもなく魔法を発動させようとしては片っ端から割れていく光景を目にしながら、アルセーナは最後に一言手向けを送った。


「今はこの手に持てるだけしか取り返せませんが。いずれ、ヴェルジネアは知ることになるでしょう。その身を塗り固めてきた罪の数々を、自分自身で贖う時が訪れるのだと。――風よ」


 アルセーナは落ち着いてきた喉で呼吸を整えながら、夜空へと静かに舞い上がろうとする。

 その手から解き放たれた春風の魔力が、ゆっくりと魔法陣を宙に刻みだす。

 美しい翡翠の魔法が、今度こそ夜空に奇跡を描く。


「我が身を無窮の宙へ誘え。其は悠久の旅人、七海渡る自由のともがら。――【風鳳遊覧ヴェン・ターラリア】」


 ふわりと巻き起こる風に乗って、彼女は屋敷から飛び立った。

 空高く、月の正面にまで飛翔した彼女の姿に、結局逃げることなくその場に留まってしまっていた民衆たちの目が釘付けとなる。


「――それでは、今宵はこの辺りでお開きといたしましょう! 皆様の声援、しかとこの胸に刻まさせていただきましたわ! この場に居合わせてくださった貴方がたへ感謝を捧げて、幕引きとさせていただきます」


 逆境に陥っていた彼女の背中を何度も押してくれた、謎めいた風の主にも向けて、彼女は脱いだ帽子を胸にあてて頭を下げる。


「再び月が輝く時まで……ごきげんよう!」


 一瞬だけ強くなった月の輝きが、アルセーナの身体を覆い尽くす。

 そうしてこれまでと同じように、彼女の姿は完全に人々の視界から消え失せるのだった。

 人々が興奮に騒めく中、ぎりぎりと音を立てて歯を食いしばったグレイセスが眼下の騎士たちに檄を飛ばした。


「――ええい、なにをしていますの!? そうしてぼうっと突っ立っていないで、さっさとあれを探しに行くのです! そこな愚図どもなど放っておいて、早くあの女をあたくしの前に連れて来なさい!」


 人々の流れを抑圧していた騎士たちは、その指示を受けて少しの間互いに顔を見合わせた後、民衆の波を掻き分けて下街へと向かい出す。

 それを見送って、グレイセスは悔し紛れに足元を強く踏んづけた。

 ――同時に、ここまでなんとか崩落から耐えていた屋根が、一際大きくぎしりと震える。


「なっ――」


 重量のある彼女のその一撃がとどめとなって、屋上の床が一挙に崩れ落ち始める。

 彼女は助けを求めることも出来ずに、そのまま階下へと落下してしまうのだった。

 最後に僅かに聞こえたグレイセスの情けない悲鳴によって、今夜の怪盗の活躍は完全に幕を下ろすのだった。

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