第126話 長女が嗤う、悪魔の如く


 はち切れんばかりに宝を詰め込んだ肩掛け鞄を揺らしながら、アルセーナは急ぎ屋敷の屋上へと向かっていた。

 なるべく多くの目が集まる中から鮮やかに姿を消してみせる。それが、彼女の作り上げた【怪盗淑女ファントレス】の退場における定番なのだから。

 常に人の目に見つからないように徹して盗みを働くのであれば、そこらの泥棒と同じで華が無い。

 怪盗は人の目を欺いた上で、彼らを愉しませなければならない――しかし、その為に必要な魔力タネもそろそろ残量が芳しくなくなってきていた。

 だからこそ彼女は、これ以上不測の事態に遭遇せず、笑顔の仮面を被り続けられるうちに今夜の劇に幕を下ろそうと足を速める。


「――観客の皆様、長らくお待たせいたしました!」


 四階の窓から跳躍し、屋根を伝って最も高い位置である煙突の上に立つ。

 そうしてくるりと屋敷の周囲に姿を披露すれば、彼女の登場を待ちわびていた観客たちがたちまち歓声を爆発させた。


「うおおっ! 見ろ、出てきたぞ! 屋根の上だ!」

「きゃーっ、アルセーナ様ぁ! 今日もお宝いっぱいなのー!?」

「貴族を出し抜くなんてやっぱり最っ高だぜー! 俺たち、一生あんたについてくからよー!」


 そう、日々溜め込んだ鬱憤を晴らすように思い思いに声を上げる彼らに向けてアルセーナはこれまでと何も変わらない、謎めいた微笑を送る。

 ――たとえその裏側で冷静な思考が魔力の限界を弾き出していても、彼女はその不安を表に出そうとは思わない。

 なぜなら、【怪盗淑女ファントレス】アルセーナはは今のヴェルジネアに吹く希望の風なのだから。

 そうあれかしと、魔法の仮面を被る彼女が編み上げた偶像なのだから。

 彼女は、自分自身の脆弱な姿を誰かに見せることを許容しない。


「ありがとうございますわ。ですが、愉しい夢はいつまでも見ていられないもの。残念なことに、この一夜劇も幕を下ろさねばなりません。名残惜しいですが、お別れの時間です」


 そうして、彼女は手に持っていた傘を真上に掲げて蝙蝠のように夜空に広げた。

 風を受けやすいように僅かに腰を下ろしながら、彼女は空を飛ぶための魔法を行使しようと詠唱を緩やかに開始する。


「風よ、我が身を無窮の宙へ誘え。其は悠久の旅人、七海渡る……」


 あとは中天まで昇ったところで、頃合いを見計らって姿を消せば完全に今夜の幕が下りる。

 手に入れたお宝をどの家へ配布すべきかと彼女がこの先のことを考えていると、突如、場を満たしていた終演の雰囲気を聞き覚えのある甲高い声が切り裂いた。


「――炎よ! 我らが尊き青き血に服従せよ!」

「なっ」

「我が意に反逆せし愚者を焼却し! 万人の、見せしめにするがいい! 【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】ァァァッ!」


 夜空に煌めく魔法陣から湧き上がった炎の大渦が、アルセーナの立っていた煙突の先端を殴り飛ばす。

 咄嗟に飛び降りたアルセーナに怪我はなかったものの、砕けた煉瓦がその足元を転がって中庭へと落下していった。

 それを見送る彼女に、魔法攻撃の主が脂肪にむくれた人差し指を宣戦布告がわりに突きつけた。


「おほほっ、おほほほほっ! ――逃げられるなんて、そんな、都合の良いことが許されると思っていましたか! 残念、お前にそのような許しなど与えません! 与える、ものですかぁっ!」

「……グレイセス・ヴェルジネア」

「その汚れた口であたくしの名前を呼ぶなっ――炎よ我らが尊き青き血に服従せよ、我が意に反逆せし愚者を焼却し万人の見せしめにするがいい【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】!」


 早口言葉のように口を動かしながら、続けて破壊力抜群の魔法を唱えるグレイセス。

 巻き添えで自らの家である屋敷の豪奢な屋根が崩れるのも分かりそうなものなのに、彼女は躊躇なく魔法を解き放つ。

 ――なぜなら、いくら壊れようと金を使えば簡単に直るのだから。

 壊れたなら新しいものを買えば良い、金づかいの荒いヴェルジネア家の血筋ならではの悪癖がこの場においては功を奏していた。

 なにせ、今のアルセーナは逃走用の魔力を除いて、あまり余力が残っていない。

 

「くっ――諦めの悪いお嬢様ですこと!」


 攻めてくる炎の爆撃を、彼女は残り少ない魔力を強化魔法につぎ込んで体術で回避する。

 間違っても宝物の入った鞄を落とさないように後生大事に抱えながら動き回るアルセーナに、魔法による防御魔法を張る余裕はなかった。

 詠唱を唱えるだけの余裕はあるが、ここで魔力を消費してしまえば怪盗としての体裁を保てなくなる。

 ただでさえとある一つの魔法に魔力をがりがりと削られているのに、強化に加えて更に三つ目の魔法で魔力の消費を加速させるわけには行かなかった。

 そんな彼女の裏事情も知らず、グレイセスはちょこまかと小動物のように逃げ回るアルセーナを見て高笑いする。


「おほほっ、それ見たことですか! 魔法をちょっとばかり扱えると言ってもしょせんはこそこそ這いまわる鼠風情、真の崇高なる力の支配者たるあたくしには叶わないのです!」


 ばかすかと撃ち放たれる炎の魔法により気温が上昇し、二人の肌にじんわりと汗がにじむ。

 グレイセスの厚化粧がどろりと崩れ、溶けたおしろいと口紅とが交わり合う。

 やがて口が裂けたおぞましい悪魔のような顔に変貌を遂げた彼女は、狂笑を浮かべながら次から次へと【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】で怪盗をつけ狙う。


「――【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】! ――尊き青き血に……見せしめにするがいい【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】! ――するがいい【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】、――【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】ァッ!」


 しかし、当たらない。

 徐々に削られ、失われていく足場を巧みに切り換えながら、アルセーナは大胆な動きでグレイセスの魔法を避けてみせる。

 その額に浮かんだ焦りと頬を伝う汗をいくら月に照らし出そうと、彼女は諦める素振りを一切見せようとはしない。


「このっ、このっ、このぉっ! 当たれ、当たりなさい! ――【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】ァ!」


 明らかに追い詰められているのは怪盗の方だというのに、状況はなにも変わっていないように感じられる。

 そのことに焦るグレイセスが憤激と共に炎を放つも、またもやアルセーナはひょいと軽やかに近くの無事な足場へと跳んで避けた。


「そのような甘い狙いでは亀さえも欠伸をしてしまいますわ。ふふっ、当てられるものならば当ててごらんなさいな」


 内心の不安を押し殺しつつ、遠くではらはらと様子を見守る民衆を安心させるように、彼女はグレイセスへ軽口を叩いてみせる。

 それが存外気に障って――それが怪盗の言葉を暗に自分が認めてしまっているのだと気づいて、グレイセスは更に苛立ちを加速させる。燃えるように熱を持った魂から氾濫した魔力が、彼女の周囲に蒸気のようにたなびく。


「――いいぞ、そんな豚女なんて【怪盗淑女ファントレス】の相手じゃあねえ!」

「遊んでないでさっさととどめを刺しちゃえよ、豚には丸焼きがお似合いだぜ!」

「頑張ってアルセーナっ! お姉さまなら勝てますわよーっ!」


 思い通りにならないもどかしさにビキビキと血管が張り裂けそうになる彼女の耳元に、更にそのような観衆の声援が響く。

 ――アルセーナ、アルセーナ、アルセーナ。

 本来ならばヴェルジネアの名を仰いで称えるべき誰もが、目前の痴れ者を善と言う。

 そしてグレイセスのことを豚だと、醜い下等生物だと――悪だと言う。

 ――許してなるものか。

 そんな心の囁きが、彼女が腕を伸ばす先を眼下へと大きく捻じ曲げた。


「このっ、愚民どもめ――あたくしを誰だと心得ているのっ……あたくしはっ、グレイセス・ヴェルジネアなのよぉっ! ――見せしめにするがいい、【火炎瀑滝フラマ・カタラクタ】ァッ!」


 ――不遜な輩を罰しなければならない、真実を思い知らせなければならない。

 その荒れ狂う怒りの感情がそのまま注ぎ込まれた、煮え滾る魔力の砲台が下方へと向けられる。

 そこに存在するのはアルセーナではなく、無防備な観衆に他ならず、


「――風よここに慈母の抱擁を! 其は愛謳う護りっ、厄災祓う白梅の花楯! 【風花聖楯ヴェン・マリアイギス】ッ!」


 グレイセスの狙いを知るや否やすぐさま万全に整えた詠唱を高速で詠い上げ、アルセーナは精度を高めた魔法の風楯を炎の前に打ち立てた。

 生まれた渦巻く風の楯が炎を削ぎ、嵐の威力を少しずつ散らしていく。

 やがて全ての炎が目標に届くことなく中空で消えたのを見計らって、彼女はグレイセスを強く睨みつけた。


「なにをしているのですかっ! 守るべき民を危険に晒すどころか、自ら滅ぼそうとするなどいったいどのような了見で――」


 糾弾の声を上げるアルセーナが、その途中でがくりと膝をつく。

 魔力の大幅な消費による魂の疲労感が、肉体にも反映され始めているのだ。

 一方、その怪盗が息を切らす姿を見たグレイセスは反省の色を一つも見せず、あろうことか大きく嗤ってみせた。


「あらあら、もしかして魔力が欠乏しているのかしら? ――おほほっ、まさか自分以外の猿どもを助けた挙句追い詰められるなんて、なんと滑稽な!」

「……私は、誤った選択を選んだつもりは、ありませんわ。ふぅっ、ふぅぅー……それよりも、民を攻撃するなんて、貴女は本当に貴族であるという自覚を持っているのですかっ」

「ふんっ、下らないことね。あたくしにとって、あのような忠義の欠片もない者どもの命なんてどうなろうと構いやしませんわ。でも、お前は別のようね――」

「なにをっ……?」


 震える手を握りしめながら立ち上がるアルセーナに、彼女はたった今思いついた悪魔の如き所業を口にする。

 それが、いけすかない怪盗を甚振る、己にとって最高の劇になるであろう予感を胸に抱きながら。


「ちょうど良いわ。この際、あたくしたちに逆らう愚民もある程度間引くことにしましょう。そうすれば奴らも、誰を崇めるべきか思い出すでしょう。――それが嫌なら、精々守ってみなさいな。ねえ、【怪盗淑女ファントレス】とやら?」


 そう告げて、彼女は意気揚々と詠い始めた――事態を見守る、無力な観客を歪んだ翡翠の眼で見下ろしながら。

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