第125話 ヴェルジネアの総血晶
ヴェルジネア邸の窓は単純な掛け金式だ。窓の隙間から細い針金を使い、閂を上に押し上げるだけで簡単に開けられる。
そうして易々と再侵入を果たしたアルセーナは、これ以上の会敵を厳に避けるべく、最大限の警戒を払いながら屋敷の一階に存在するとある一室に忍び込んでいた。
その部屋には窓がなく、また一般市民の平均的な家屋に相当する他の部屋よりもずっと狭い。
加えて部屋の入り口は単なる壁のように偽装されている。
「……やはりここですわね。新たな隠し場所を設けるにはお金がかかりますもの。金を得たければ税を追加すればいい、そんな考え方しか出来ないあの方らしい手抜きですわ」
部屋の燭台の内の一つを触ってみれば、新たなひっかき傷がついている。
指輪をはめた手で触った時に出来た傷に違いない。加えて絨毯に出来た足跡は二つ、中から外へ出た痕跡はない。
恐らく中で待ち構えている敵の存在を確信しながら、それでも迷ってはいられないと、彼女はその燭台をゆっくりと上下逆に回転させた。
間違って蝋の垂れることの無いよう、一回も使われた痕跡の無い蝋燭の差し込まれた燭台。
それが逆向くと同時に、真横の壁ががこんと前へせり出た。
その擬態された扉を開ければ、中には石造りの狭い秘密の廊下が出現した。
「こほっ……相変わらず、掃除の一つもしていませんわね。使用人を入れていないから仕方のないこととはいえど、自分たちが出入りするのですから、ある程度はお手入れすればよろしいのに」
湿っぽい、じめじめとした雰囲気の漂う石廊は、ラストが街へ入った時に囚われていた同じく石造りの牢屋よりも空気が悪い。
たとえ風通しが悪くとも、風の魔法で週に一度か二度空気を入れ替えるだけで快適さが大きく変わるのだが、
「魔法は高貴なる貴族の象徴だ……などと仰るんですもの。そんな掃除のために使ったりは思いつきもしないのでしょうね」
そして高貴さの証と言い張りながらもロクでもないことばかりに使用するのだから、付き従わされる民にとってはたまったものではない。
大きく嘆息しながら、彼女は足早にその中へ足を踏み入れた。
「酷い臭い。まったく、待ち構えるのなら今日くらい控えればよろしいのに……」
ただでさえかび臭い中に妙に甘ったるい匂いが交じっていて、胸焼けしそうになる。
えづきそうになるのを我慢して、口元にハンカチを当てながらアルセーナは下へと続く細い一本道の階段を進んでいく。
かつん、かつんと靴の踵が擦れる音が幽かに響く。
明かりなどない階段を、壁を頼りに手探りで一段ずつ降りていきながら、彼女は今後の行動指針を組み立てる。
屋敷への進入時からずっと強化魔法【
ここから先は更なる不測の事態に備えて、出来る限り魔力を節約すべきだ。
この先に潜む輩に対しても、なるべく魔法ではなく別の手段を用いて沈黙させたい。
「……まあ、良いでしょう。あまり勧められたものではありませんが、今日くらいならば」
そう呟きつつ、彼女は先を急ぐ。
体感にしておおよそ二階分ほど下って行ったところで、少し先の折れ曲がった出口から明かりが漏れているのが見える。
「――いい加減にしろ。この期に及んで……」
「――なあに、僕はまだまだ平気、元気、やる気いっぱいだよ……」
聞こえる二人分の声にアルセーナは足を止めた。
もはや待ち伏せとも言えない、気配が駄々洩れとなっている様子には呆れるほかなかった。
外にいるグレイセスのように、自分たちの魔法であれば怪盗など恐れるに足らずとでも考えているのがありありと目に浮かぶようだ。
――これまでに何度も侵入を繰り返されておきながら、まだそれでも油断できるというのなら、少々キツめの手段を行使しても構うまい。
そう決断したアルセーナは、帽子の内側に格納していた朱色の玉を取り出した。騎士たちを相手に解き放った通常の煙玉とは文字通り毛色の異なる
それに魔力を込めて、地下の明かりの見える場所へと放り込む。
――ばほんっ!
少しして、濃い桃色の煙が目的の石室の中から飛び出てきた。
「――ごほっ、がほっ、うぐっ!? なんだこれは!? 目が、口がっ、痺れてっ……!」
「――うううんっ、なんだ? ……目がっ、喉がっ、鼻ごあっ!? ……駄目だ、我慢できんっ……うおろろろろろっ」
「ぬおっ!? リクオラ、貴様なにをしている――ここで吐くなこの愚か者っ! 匂いが残るではないか――ごほっ、そんなことより、げほほっ、このわけの分からんものをどうにか――」
悲鳴を上げながら騒ぐアヴァルとリクオラの声を聞きながら、アルセーナは口元を折り畳んだハンカチでしっかりと押さえて降りていく。
煙の正体はただの粉ではなく、唐辛子から抽出した催涙薬だ。ほんの少しでも吸ってしまえば、彼らと同じように悲惨な姿になってしまう。
加えてぴっちりと眼窩を覆う
「いましたわね。あれと、あれですか」
部屋の前に立てば、ぼんやりと煙の中に映る二人の人影が見える。
どうやら突然の爆発に慌ててたっぷりと煙を吸い込んでしまったらしい。
片や床に転がってのたうち回っており、もう片方はなんとか壁に手を当てて立っているものの、よろけている。
その二人に狙いを定めて、彼女はここが残り少ない魔力の使い時だと呪文を唱える。
「風よ、気まぐれに摂理の天秤を傾けよ。妖しき魔精がさかしまに嗤う。――【
「ぐっ……卑劣な怪盗めっ、来るか――うぐぅっ!?」
「げぽぽっ……んあ? どうした親父――」
「【
想起したばかりの魔法陣は詠唱を経ずとも記憶領域の表層に残留しているため、さほど時間を置かないのであれば再行使することが出来る。
それを用いて彼ら二人を呼吸困難に陥らせて気絶させた後、アルセーナは静かに部屋の中へと踏み入れた。
中に居た二人は顔を青褪めさせて地面に倒れている。
「うっ……」
ハンカチの守りをすり抜けて漂う酸っぱい匂いに顔を顰め、彼女は床に撒き散らされた吐しゃ物をアヴァルの身につけていたご大層なマントで覆う。
それから彼女は、部屋の奥に存在する厳重な鉄扉の前に立った。
以前見た時と何ら変わらない、それそのものが巨大な魔道具である鉄金庫だ。
鍵となるのは本来はアヴァルが常に肌身離さず持ち歩いている宝石付きの四つの指輪なのだが、それが無くとも開けられることを彼女は知っていた。
彼女は未だ煙が充満する中、見えぬ金庫の
「風よ、渦を巻きて敵を穿て。【
このように人が入ることの出来るほどの大きさの金庫であれば、万が一内部に閉じ込められた時に備えて、そちらから開けられる仕組みが存在している。それはあくまでも使用者の安全を期するための機構であり、本来ならば弱点たり得ない。
しかし、魔法の使える怪盗アルセーナにとっては、破りやすいことこの上ない欠点だった。
彼女は金庫の内側に展開した二つの魔法で、緊急事態用の突起を押し込んだ。
がちゃこんと鍵が開き、僅かに残った微風が内側から金庫の扉を開く。
――その中から彼女を出迎えたのは、見渡す限りの金銀財宝だった。
ヴェルジネア家が人々から余すことなく搾り上げた、血税の総結晶。
街へ還元されることなく、ただ一家族の欲望を満たすためだけに消費されるそれらの輝きが、アルセーナの瞳にはなぜか空虚なものに見えてならなかった。
「これだけの重みを積み上げるのに、どれだけの血と汗と涙が必要なのか。そして、その努力の上澄みを奪い取られる悔しさを、あの方々はなに一つ知らないのでしょうね……知ろうともしない」
後ろに転がっている二人が味わった苦痛など、それらに比べればなんと甘ったるいことか。
細波立つ心の衝動を抑えながら、彼女は肩にかけていた鞄を開いて財宝の山に目を凝らす。
これ以上浪費できる余裕は、時間的にも魔力的にも残されていない。
「なによりも、彼らを罰すべき資格など……私にはないのですからね」
そう呟いて、彼女はなるべくヴェルジネア家にとって被害総額が大きくなるように、小さくて高価な宝石類や装飾品類を中心に金庫の中身を片っ端から手元に詰め込んでいくのだった。
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