第124話 吐き気を催す思考を目にして


 セルウスらの襲撃から逃れたアルセーナが適当な部屋から再突入する姿を見送って、ラストはいつの間にか渇きを訴えていた瞳を一度休ませるべく何度かまばたきをした。

 彼女は今度こそ地下の宝物庫らしき場所を目指すようで、時折視線をそちらの方に向けながら注意深く屋敷の中を進んでいる。セルウスの方も彼女を追う様子はなく、ひとまず難を逃れたようだ。

 その様子に深く息を吐きながら、彼は先の女中たちのことを考える。

 魂魄の遠視と読唇術の掛け合わせにより、ラストはセルウスとアルセーナのやり取りを一言一句逃さず理解していた。

 それだけではない。

 セルウスの従えていた三人の女性の魂は、氷のように凍てついていた。

 人間であれば誰しもが有するはずの、感情の発露による魂の揺らぎが何一つ存在しない。


「――ちゃん!」


 虐げられることへの絶望も悲嘆もなく、ただただ無に等しい彼女らの心。

 どのような人生を過ごせばあれほどに己を殺すことが出来るのか、彼には分からない。

 ――ただ、そのあり方が間違っているという思いはラストもアルセーナと同様だった。

 例え人形であれと望まれて生まれたとしても、幸せを掴む権利は誰にも等しく存在する。その生きざまを強い続けるセルウスへの怒りを内心で燃やしていると、


「――兄ちゃん、兄ちゃん! 今アルセーナはどうなってるんだよ!?」

「凄い音が聞こえたけど、無事なの?」


 ラストは彼の手を引いている二人の声に、意識を今いる場所へと引き戻した。

 見れば、アズロとローザは先の【枯風乱嵐ヴェン・テンペスタース】の衝突音を聞いて、アルセーナのことが心配になって仕方がないようだ。

 ついセルウスの暴言に気を取られてしまい、ラストは完全に実況の約束を忘れていた。

 そう言えば彼らは屋敷内部の様子が見えないのだったと、今はそのことに安堵しながら、ラストは彼らへ謝罪した。

 ――あのおぞましい光景は、幼い彼らには到底見せられたものではないから。


「ああ、ごめんね。彼女なら無事だよ。今は一階から地下に向かってる。たぶん、僕の予測だとあの先に宝物があるんじゃないかな?」


 ラストの言葉を受けて、二人はほっとしたように顔を綻ばせた。


「そっかー、怪我してないなら良かったぜ。でも、それならここから先が本番ってことか?」

「そうだね。どうやら二人の魔法使いが待ち構えているようだし、今よりも大変なことになるかもしれないね」

「本当かよ!? だったらなおさら気になるぜ……こっからはちゃんと教えてくれよな」

「はいはい。実況を忘れてて本当に悪かったね」


 アズロはラストの謝罪を聞き入れて、すぐに屋敷の方へ目を戻した。どうやら自身には見えないと言えど、自然とアルセーナのことを慮るあまり、目を向けずにはいられないようだ。

 一方、ローザは相方の少年に聞かれないようにしながらラストの手をもう一度引いた。


「ん、なにかな?」

「しっ。アズロ君に聞かれちゃう。……ちょっとあっちに来て、ね?」


 彼女に手を引かれるがままに、ラストは自分たちが腰を下ろしている屋敷の屋上の端へと移動した。

 アズロが屋敷に夢中なのを確認してから、ローザは彼に身を屈めるよう無言で促す。

 不思議に思いながらもしゃがんで耳を近づけると、彼女に問われる。


「ねえ、お兄さん。さっきの爆発の時、本当はなにがあったの?」

「え、なにもなかったけれど……」

「嘘だよね。だって、ほら。こんなに怒ってるもん」


 ローザは先ほどから握っていたラストの右手を持ち上げて、顔の前に持ってくる。

 ――その拳は、固く血管が浮かぶほどに握りしめられていた。

 彼女がその強張った指を一つ一つ解きほぐすと、浅く爪の食い込んだ跡が露わになる。爪は皮膚どころか肉を貫いており、僅かに血が滲んでいた。


「やっぱり。ちょっと待っててね」


 ローザは鞄の中に入れていた薄橙色のハンカチを取り出し、縦に細く割いて傷跡の上から優しく巻きつけた。

 ほのかな梅の香りが、夜風に誘われてラストの鼻をくすぐる。

 その優しい匂いに、彼は強張っていた心が少し和らいだような気がした。


「こんなになるなんて、きっと、さっき黙ってた時になにかあったと思うの。……ねえ、なにがあったの?」

「ありがとう。君は本当に優しいね、でも、言えない。きっと、君たちは知らない方が良いことだから」


 ラストはそっと彼女の両肩を掴んで屋敷の方を向かせ、忘れるように暗黙の裡に促す。


「……でも、お兄さん辛そうだから。辛いことは誰かに話せば楽になるって、お姉さんが言ってたの」

「そうだね。でも、これはどうしても話せないんだ。君みたいな良い子には刺激が強すぎると思うのと、もう一つ。僕は今見て聞いたことを、改めて自分の口にしたくないんだ。こんなこと、考えるだけでも吐き気がする」


 人を人として扱わず、都合の良い道具として使い潰す。

 その生々しい光景は、たとえぼかして伝えようとしてもきっと言葉に感情が乗ってしまう。

 それを受け取った彼女は詳細を聞かずとも、事実に限りなく近い想像をしてしまうに違いない。

 それに、セルウスの泥よりも濁り澱んだ思考を説明するとなると、それだけでラストは自分の口の中がいがらっぽくなってしまいそうだった。

 どれほど暖かい心を持とうと、その潤いを全て奪い尽くしてしまいそうなほどに、彼の見たセルウスの魂は深い闇の色を映し出していた。


「それほど酷くて、許せないことがあった……今言えるのは、それだけなんだ。ごめんね、説明するって約束を破っちゃって」


 ラストの浮かべた苦悶の表情を見て、彼女もそれ以上無理に聞き出そうとはしなかった。


「……そっか。それじゃあ聞かない。でも、それ以外のことはちゃんと教えてよね」

「もちろん。ここからはちゃんと説明するよ、だから戻ろうか。アズロ君にもちゃんと聞かせてあげないといけないしね」

「うん。お願いね、お兄さん」


 ローザはアズロの隣に戻っていき、眼鏡をかけ直しながら屋敷の方を見る。

 彼らの近くに寄って、ラストは実況を再開した。


「ふむふむ……アルセーナはまだ階段を降りてるみたいだ。っと、途中で止まったね……それで、なにか帽子から取り出してるみたいだ」


 彼の話に聞き入る子供たちを静かに眺めながら、ラストは包帯の巻かれた右手を一瞬見やる。

 自分の身体のことについては常に意識を張り巡らせているつもりだったが、こうしてローザに言われるまで気づかなかったあたり、一度怒りの感情に呑まれかければ簡単に自分のことすら見えにくくなる。

 あまり感情の荒ぶることの無かった【深淵樹海アビッサル】の屋敷での生活での穏やかさに慣れていた自らの未熟さを恥じつつ、ラストは再び先のセルウスとアルセーナのやり取りを思い出す。

 ――彼女らは、【月の憂雫ルナ・テイア】では救えない。

 だがオーレリーならば、そのような人々も助けなければと奮闘するのだろう。

 その友人として、なにが為せるのか――思考を巡らせながら、ラストは続く怪盗の活躍に目を寄せる。

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