第120話 四階の錠扉の向こうに
それは血肉を喰らう狼の遠吠えのようであり、腐敗した死体に集る蠅の羽音のようであり、恋人を失った悲しみに喉を嗄らす処女の嘆きのようでもあった。
――ィィぃ……グゥゥおオォオォぉ――……。
……ヴェぉンッッ゛ッオオ゛オッ、ゥ゛うァイゥ゛ゥエ――……。
――ヴゥ゛ゥ゛ェ゛エえ゛エェア゛ぁァ゛あ゛ぅ゛イ゛ィィヤァァ゛ァ――ッ……!
聞く者の鼓膜と理性を搔き毟り、心の内側から漠然とした恐怖を抉り出す、人知を超えた深淵から響く渾沌の魔笛。
しかし、その音色は不快な不協和音のようでありながら、なぜか底知れぬ統一感をも兼ね揃えていた。
騎士一人一人の耳に囁く深き声々は、顔のしれない異貌を共通して崇め渇望しているかのように、不思議な一体感を以て鳴り響く。
その謎多き賛歌を聴いてしまった騎士たちは皆、唐突になにかに怯えるかのように身体を地に投げ出して思い思いに悲鳴を上げ始めた。
「――うわあああああっ!?」
「ぐぅおっ、おおおおおおーっ!?」
「あがっががが、ががーがががあああっ……」
音、という攻撃は耳を塞いだ程度で防げるほど容易いものではない。
僅かに開いた指の隙間をすり抜けて、それどころか直接皮膚から骨に浸透して、様々な方向から脳髄を侵蝕する。
逃れ得ない未知の晩鐘が頭蓋骨に反響し、騎士たちは見えかけていた勝利への有頂天から一瞬の内に恐怖のどん底へと叩き落とされていた。
目は見えず、聴覚は潰され。呼吸しようとすれば撒き散らされた微粒子が粘膜に張り付き、逃げようとすれば周囲の仲間たちにぶつかってしまう。
たった二つの手で八方ふさがりに追い込まれてしまった彼らには、苦しみの声を上げながらも時間が場を落ち着かせるのを待つほかないのだった。
そうして、やがて障害だった白煙と奇音の残響が晴れ行く。
幸いにも軽症で済んだ者や、彼女への執念が人一倍強かった者たちはなんとか気を持ち直し、この怨みを一刻も早く晴らすべくアルセーナを探す。
「――ぐぅっ、くそぉっ! どこだ、奴はどこへ行った!?」
「駄目だ、見つからねぇ! っ、あったま痛えぜ畜生がっ……くそ、天井とかに隠れてるわけでもねえ!? いったいどこに消えたんだ!?」
しかし、何処にも深緑を纏った女怪盗の姿はない。
いつの間にか、誰にも気配を悟らせないままに、アルセーナはその場から忽然と姿を消していた。
「……あ゛あ゛あ゛っ……これも魔法だってのか!? 好き勝手やりやがって――」
彼女が彼らの前で最後に見せた、余裕の微笑み。
騎士たちがこの場に集まったのは、彼女の策略によるものだと言われて。
全てが自分の手のひらの上なのだと言外にも伝えているような笑みがとことん腹立たしくて、今すぐに鎧を脱ぎ捨てて肌を掻き毟りたくなるほど、たまらなくて。
悔しさを吐き出すように、彼女の顔を脳裏に強く思い描いた一人の騎士が絶叫する。
「アルセーナあああっ! ……あ、あがぐぅううううううっ!?」
それと同時に先ほどまで耳元を這いずり回っていた不快音までもが同時に蘇ってきて、騎士は頭の奥深くをかき回されるような鈍い痛みに頭を抱えて蹲ってしまった。
彼女のことを深く意識していた瞬間に魔法の音色が強く叩きつけられたせいか、その残響が彼らの記憶に今もなお強く焼き付いてしまっている。
アルセーナを思い出そうとすれば、同時にその音も思い起こしてしまう。
「くそっ、くそっ、くそがぁぁぁーっ! づっ、ぐぐぅぅっ……止めろっ、俺を誘うなあああーっ!」
どうやら、この夜が忘れられない記憶となったのは彼らだったようだ。
そして、そんな悔し気な絶叫が響くのを、とうの本人は一つ上の階で特に気に留める様子もなく呑気に聞き流していた。
「――さて、ここをこうしまして……最後にえいっ、と」
彼女は傘を側に立てかけて、両手の中で頑丈な鉄製の錠前を弄っていた。
針金を二つ生やした肉厚の封印が、彼女が軽く気合を入れて一ひねりすると同時に、かちゃりと音を立てて外れた。
「ふふっ、開きましたわ――さて、お目当てのものが見つかればいいのですけれど」
完全に無意味と化した鉄錠を開いた掛け金に引っ掛けて、彼女は厳重に閉め切られていた扉の中にするりと侵入するのだった。
その姿を見て声を上げる者は誰もいない。
本来この階層を巡回していたはずの警備の騎士たちは、欲望と仲間の呼び声に吊られたあげく怪盗に良いようにあしらわれたことに腹を立てるばかりで、一つ下の廊下で悔しそうに地団太を踏み続けているのだから。
■■■
一方、少し時は巻き戻って。
ヴェルジネア邸の外では、ラストの連れてきた二人の子供たちが一緒になって顔に皺を作っていた。
爆発した白煙がもうもうと屋敷の三階を埋め尽くしたせいで、中の様子は窺えない。
それどころか突然聞こえ始めた耳に障る幽かな音に、彼らは居心地悪そうに身体をむずむずさせる。
「っ、なんだよこれ……?」
「嫌な感じ……なんか、気持ち悪い音が聞こえるの……」
夜の空気を伝わって僅かに聞こえる狂音に、アズロとローザははっきりと不快感を露わにする。
普段の生活の中ではあまり聞き慣れないようで、それでいて身体が反射的に苦痛を訴える音。
そのわけの分からない摩訶不思議な響きの正体を和らげるように、ラストが静かな声で解説を始めた。
「安心して、大丈夫だから。ゆっくりと息を吸って、吐いて……心を落ち着かせて。これは君たちに危害を加えるものじゃない、アルセーナの魔法なんだ」
「ええっ、これが魔法なの? でも爆発とかなにも怒ってないよ?」
魔法と言えばとにかく目立って派手なものを想像していたらしいアズロが問う。
「うん。これだって立派な魔法さ。原理は単純、風が強い夜には窓の隙間から音が鳴るよね。ぴゅーぴゅー、とかごぅごぅ、とか。それと同じで魔法で特別な風を出して音を鳴らしてるんだ、人が無意識の内に嫌がるような音をね。これだけ遠くなら大したことないけど、近くでこれを大音量で聞かされたら?」
ちょっと聞こえるだけでも腹の奥からなにかがせり上がってくるような感覚に襲われる音を、間近で聞いたら。
それを想像して、二人はびくりと身体を震わせた。
「うわっ……そんなの絶対嫌だっ!」
「私じゃ絶対耐えられないよ……」
「だろう? 見た目は凄くないかもしれないけれど、これだって恐るべき魔法の一つさ。誰だって耳元で延々とガラスを引っ掻かれ続けたら、戦いどころじゃなくなっちゃうからね」
「げっ、言わないでくれよ! 思い出しちゃうじゃないか!」
「あはは、ごめんね。たとえ話は要らなかったかな。それにしても、彼らはこれからしばらく、あの音が頭から離れないだろう。まあ、良からぬ想いをすぐ行動に移すような連中には良い薬だったかもね」
あれでは夜も元気ではいられないに違いない、とラストはからからと笑う。
その顔には、子供たち二人とは違って気分を損ねられたような様子は見られない。
「というか、なんで兄ちゃんは平気でいられるんだよ……?」
「これくらいならまだ、何回も聞いたことがあるから。僕を怖がらせたかったら、この五倍くらいはキツい音を耳のすぐ隣で聴かせてくれないと」
なお、彼の比較対象は変わらず、魔獣ひしめく【
超常の獣たちが跋扈するかの森の一角では、鳴き声で縄張りを主張しあう魔物も存在する。
その中を不快感に耐えながら気配を殺して練り歩く精神修行に比べれば、アルセーナの使用していた音は子守歌にも等しいように思えた。
そして修行中の彼を見守っていたはずのエスは、彼が待ち合わせ場所に戻ってみれば昼寝休憩とばかりに平然と木の葉のベッドで熟睡していた。
「お兄ちゃんはやっぱり変。なにか、私たちの無事な頭のどこかが壊れてる? ……違う?」
師匠に比べればまだまだだと内心で実力不足を確認するラストに、ローザがぽつりと呟いた。
「違うよ。というか君の方こそ、段々と遠慮とか尊敬が壊れてきたね」
「だって、凄いんだもん。信じられないくらい。人間じゃないって言われても信じちゃうかも」
「いや、僕は人間だよ? ……さ、こっちよりも屋敷の方に目を戻そう。アルセーナが動くみたいだよ?」
煙によって何かがあったことまでは分かっても、具体的な戦況はなにも見えないことにじれったくなっていた観客の視線の先で、小さく窓が開いた。
そこから僅かな煙と共に姿を現したのは、彼らが待ち焦がれていた怪盗アルセーナだった。
彼女は観客へと向けて小さく手を振った後、傘を広げてばっと空を舞う。
「――風よ」
月を背に屋敷へ参上した時と同じように魔法の風に乗って、彼女はひとっとびに外から上の階へと飛び移った。
そうして彼女は四階の窓を手際よく開け、隙間風のように中へと再侵入してみせる。
本来その姿を見咎めるべき騎士は、未だ三階で仲間と共に悲鳴を上げている。
それを良いことに、彼女は悠々と一つの鍵のかかった部屋の前でしばし立ち止まった後、その扉の向こうへ姿を消してしまった。
「なー、もしかしてあそこの部屋にお宝が隠されてるのか?」
「そうなんじゃないかな? だって宝石とかお金がアルセーナの盗むものなんだもん」
子供たちはそう自分たちなりの予測を並べた後、ほとんど同時にラストに顔を向ける。
「ねえ、兄ちゃんもやっぱりあそこが宝部屋だと思うよな?」
しかし、彼の見せた反応は二人とは少々異なっていた。
「え、うーん……どうだろうね」
彼は目を細めて、アルセーナの消えていった扉の向こう側を凝視する。
その先ほどまでとは異なる真剣な表情に、アズロが思わず尋ねた。
「どうって、お宝以外になにがあるって言うんだよ?」
「一瞬だけど、あの部屋の中に見えたのは本棚と机だったんだ。お金とか宝石を大事にしまっておく場所に本とか机とかがあるとは思えなくてね。君たちも財布の中にお勉強の道具とかを入れたりはしないだろ?」
彼が魔力で強化していた瞳で捉えた部屋の内部には、お宝らしきものは一つも見えなかった。
「そりゃそうだけど……よく見てるなー。俺にはそんなの一つも見えなかったぜ?」
「私も……やっぱり、お兄さんは変に凄い」
子どもたちの感想を聞きながら、ラストは壁の向こうで動くアルセーナの魂に目を凝らし続ける。
彼女は部屋の中の至る所を手当たり次第に漁り、なにかを探しているようだった。
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