第119話 逆転に響く風の賛歌
ヴェルジネア邸の三階の大廊下にて前後を六名の騎士に挟まれたアルセーナは、きゅっと顔を引き締めていた。
玄関先では騎士たちとの大立ち回りを演じたとはいえ、それは観客を愉しませるために過ぎない。
あくまでも怪盗の本分は戦闘ではなく、いかに観客にとって快く盗みを働くかなのだ。
故に本来ならば会敵行為は忌避すべきなのだが――どうしても回避が不可能な場面も往々にして訪れる。
「たった一人の私を多人数で囲うとは、騎士の名が廃れるとは思いませんか? こんなにも多くのお誘いを受けても、舞踏会の主役は男女が一人ずつと決まっていますのに」
「あの女の言葉を真に受けるなよお前ら! そうして自分に都合の良い場面に誘導するんだからな、そうだろ【
「あら、よくご存じですわね。もしや以前お会いしたことがありましたかしら?」
「ああそうさ! これを見れば思い出すか、ええ!?」
騎士が、ぐいと前髪を上げて額に走った裂傷の跡を見せつける。
彼にとっては思い入れの深い不名誉のようだが――、
「……いえ、あいにくと。どちらさまでしょう?」
「ぐっ……俺のことを覚えていないってのか!? あれから俺はお前のことを想わなかった夜は一度としてねえってのによ!」
「申し訳ありませんが、さっぱりと記憶にございませんわ」
「ちぃっ、そうかよ。――だったら今晩はそのいけすかねえ面にたっぷりと俺たちの積もり積もった想いを刻み付けて、こいつらの顔と一緒に二度と忘れられない夜にしてやらあ!」
頬を痙攣させるほどに興奮した騎士が、がちゃりと剣を鎌首のようにもたげた。
残りの騎士も気味の悪い笑い声を上げながら、ぐにゃりとそれぞれの欲に歪んだ目をアルセーナへと向ける。
そんな彼らを、彼女は無表情に近い能面のような顔で見つめ返していた。
「……そうですね。貴方たちにも忘れられないような夜にしてさしあげましょうか」
彼女は一瞬、醜悪な顔立ちの騎士たちに向けて魔力を逆立たせる。
形容しがたい澱んだ感情を隠そうともしない騎士たちに対して、心に苦痛を与えて二度と下半身で物を考えられないようにしてしまえばどれほど気分が清々しくなることか。
――しかし、それでは彼女の嫌悪する
アルセーナはふと、傍にある大窓から外を見た。
その向こう側からは多くの観客が、騎士に囲まれた彼女を見て不安と期待の入り混じった眼を向けている。
【
そんな彼らに期待と希望を与えて魅せるのが、今の自分のあるべき姿だ――。
「そう、誰にも忘れられない、輝く夜に」
脳裏に想い起こしかけていた【
人々が夢見ているであろう、鮮やかな逆転劇を見せるべくアルセーナの脳細胞が喚起される。
「おうともよ! 今からあそこを濡らして楽しみにしてなっ――行くぜお前ら、捕まえた奴が一発目の先鋒役だ!」
――おおおおっ!
欲望にかまけた騎士たちが咆哮し、白刃を煌かせてアルセーナへと迫る。
何の躊躇いもなく、なんなら手足の一つ二つは切り落としても構わないだろうとの勢いで剣が振るわれる。四肢が損なわれたところで、彼らの期待を損なうような事態には及ばないのだから。
周囲を絢爛豪華な内装に囲われた廊下は一人で歩けば十分に広いように感じられても、複数人は入り混じった戦場と化せば狭い箱庭のように感じられる。
相手の戦い方を誘導するといったチャルヴァートン邸でのような余裕は心情的にも状況的にもなく、彼女は彼らに対してひたすら回避に徹することを選んだ。
まずは前方から切りかかる、先ほどから口上を述べていた筆頭格らしき騎士の一撃を後ろに跳んで避ける。
「けっ、俺たちもいるんだぜ、お喋りしてくれよおっ!」
「お話したいのなら、お仲間となされてはいかがです? 私のことなど放っておいて」
続いて後部から迫る騎士の切っ先を闘牛士のように回転して躱す。
深い緑葉色のドレスが、ふわりと花が咲くように広がった。
「んな野郎の声なんて趣味じゃねえ! どうせ聞くならあんたみたいな美人の嬌声に限らあな!」
壁を蹴って勢いをつけた、騎士の刺突を兼ねた突進。
それを見たアルセーナは軽く床を踏んで上に跳んだ。
強化魔法【
その滞空時間が終わらぬ内に猛牛のように突進していた騎士は彼女の足元を通り過ぎてしまい、勢い余って壁に根深く剣を突き刺してしまった。
だがどうやら抜けなそうだと悟ると、騎士は剣を諦めて今度は素手で彼女へと襲い掛かろうとする。
三人をあしらって自分を覆う囲いが薄くなったと見ていた彼女は、しぶとく追いすがろうとしてきた騎士に咄嗟に足を止めて、その回避に意識を振らざるを得なかった。
「へへっ、お前はここから絶対に逃がさねえぜ! ちょっとでも捕まえりゃ他の奴らがすぐにお前の手足を縛り付けちまうからよ!」
そう言って避けられた騎士は彼女に振り返り、手をわきわきとさせる。
「……面倒ですわね」
「嫌ならさっさと捕まっても良いんだぜ? 最初は痛いだろうが、すぐに気持ちよくなるからよ!」
「個人の実力を妄信せず、あくまで集団でかかることに注力する。手柄を一人占めしようとする普段の単純な貴方がたとは一味違うのですね、さてどういたしましょうか……」
相手の言葉を無視しながら、アルセーナは困ったように小さく首を傾げた。
普段の騎士たちは己の力だけで領主に成り上がりを認められたということから個人技に終始することが多いのだが、今日は一味違うようだ。たとえ複数人で分かち合うことになって一人一人のお愉しみの時間は減ることになろうとも構わないとの意気込みが強く感じられる。
良くも悪くも共通の欲望を抱いているからこその一体感が、今日の騎士たちには見える。
「よし、これなら行けるぞ! ついでに上と下の階の奴らも呼んで来い、ここでなんとしてでもあの女を捕まえろっ!」
「おーい、アルセーナはこっちだ! お愉しみを喰いっぱぐれたくない奴は三階の廊下に来い!」
彼女の表情に気を良くした騎士たちは、このまま決着をつけてしまおうと応援を呼び始めた。
濁った大声が屋敷中に広まり、すぐさまどたどたと鉄靴が絨毯の敷かれた床を無造作に踏み躙る音が聞こえてくる。
「怪盗はどっちだ――こっちか!」
「こっちだこっち、俺たち全員が集まれば絶対に捕まえられる絶好の好機は今しかねえ!」
騎士、騎士、騎士――鋼色と暗い欲望の熱が一つの廊下に渦を巻く。
アルセーナと言う蜜より甘い砂糖に、領主によって量産された鎧付きの兵隊蟻たちの集団が押し寄せる。
瞬く間に廊下の奥から奥までを騎士たちの姿が埋め尽くしていく。
そこにぽつんと紅一点の状況に置かれてしまったアルセーナは、まさに絶体絶命の状況へと押し込まれてしまったように見える。
「ははっ、どうだ!? このクソ窮屈な所からなら、いくらお前でも逃げられないだろ!」
「お得意の飛んで逃げるのもここは室内だから出来ないぜ?」
「なにか魔法で切り抜けようったって、まの字を言うより先にとっ捕まえてやらあ。こんだけの人数で攻めりゃ、逃げながらぶつぶつ呟くことだって出来るはずもねえんだからな!」
「……」
答えのない沈黙を騎士たちへの肯定と受け取ったのか、機嫌を良くした彼らの中には早くも今後のことを考え始める者も現れる。
「うへへ、ここいらはこいつが来るってんで娼館にも行かずに楽しみにしてたんだぜ……?」
「こんな気の強い女を組み伏せるのはやりがいがあるってもんだ。最近はあいつらもすっかり大人しくなっちまってよ、なーにが身体が痛くて無理だ、だ。ちょっとガキに負けたからって怖気つきやがって。溜まってたぶん、今夜はあいつらの分までたっぷり遊んで自慢してやる」
「待てお前ら! まだ捕まえたわけじゃねえんだ、最後まで気を抜くなっ!」
そうして気を緩ませかけた者たちに、アルセーナを相対したことのある騎士が苛立たし気に注意を呼び掛けようとする――しかし。
他の者が見せた油断に気を取られたその一瞬でも、彼女にとっては十分な隙だった。
「あら、私のことを見ていなくてよろしいのですか?」
「っ、行くぞお前らぁ! 絶対に奴になにもさせるんじゃねえっ!」
慌てて飛び掛かろうとする騎士たち――その足元で、アルセーナが帽子の隙間から落としていた白い玉が爆ぜる。
――ぼふんっ!
「なあっ!?」
指と指の間に挟めそうな大きさの玉が、三つ。
衝撃が加わると同時に破裂したそれらの中からは信じられない量の白煙が一気に噴出し、一秒と掛からずに狭い廊下の中を満たしていった。
「ごほっ、げほっ、がほっ……なんだこれは!?」
「さて、なんでしょう?」
先ほどまでの固く引き結ばれた口はどこへ消えたのか、アルセーナが開幕の挨拶と変わらぬ優雅な声で囁いた。
しかし、騎士たちにはその声の主がどこにいるか分からない。
視界を覆い隠す真っ白な霧に惑わされて、女怪盗をその眼に捉えることが叶わない。
彼らには、先ほどまで目と鼻の先にいたはずの彼女の、どこからともかく聞こえる声に混乱と共に耳を傾けることしか出来ない。
「もはや袋の鼠だとでも思われましたか? いいえ。追い込まれたのは私ではありません。他ならぬ貴方たちこそ、この廊下に誘われたのですよ」
「――なんだとおっ!?」
窮地に見える状況を実は逆手に取られていたのだと知って、彼女に額の傷をつけられたと騒いでいた騎士が吠える。
だが、その小犬の遠吠えは煙を晴らすにはまるで足りない。
「くそっ、絶対どこかにいるはずなんだ! これに乗じて逃げようとしていれば気づける、怪しい動きをしている奴が近くにいないか探し出せ!」
「無駄ですわ、そのようなことをさせる余裕は与えません。――風よ。猛り咽びて狂い啼け」
「っ、魔法だ! 全員備えろ――!」
独特な言い回しに、魔法の気配を悟った騎士が警戒を呼び掛ける。
それを受け取った仲間たちはすぐさま身構えるが、此度のアルセーナの魔法は生半可な防御では耐えられない。
彼らが思い思いに気を引き締める姿を予想しながら、彼女は騎士たちの整えた優位性を完膚なきまでに打ち砕く詠唱を、口元にあてたハンカチの下で謳い上げた。
「嵐の魔牛が警笛を奏す。きけ、星檻の彼方に響く禍つ風を。――【
刹那、鳴り響いたおどろおどろしくも高貴な不協和音が、その場にいる騎士たちの心胆を北風のように凍り裂かせた。
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