第106話 休日の散策


 ラストがヴェルジネアを訪れてから、およそ一か月が経過した。

 珍しく遅めの朝食を老夫婦と共に取った今日の彼は、店員としての制服ではなくスピカ村で貰った平民然とした服を身に纏って街へとくり出していた。


「うん、いい天気だ。白い雲が四に青空が六、とっても過ごしやすい理想的な散歩日和……今日は良い一日になりそうだ。さて、どこへ行こう?」


 独り言を呟きながら歩くラストの腰では、重みのある茶色の小袋が揺れる。

 その中に入っているのは彼の一月分の給料だ。【デーツィロス】で働き始めてから一日の休みも挟まずに店の売り上げに貢献し続けたラスト。その頑張りに報いるように、シュルマとエルマは惜しみなく当初の予定にたっぷりと上積みした給金を渡していた。

 美味い食事を提供する店は、平日だろうと休日だろうと変わらず高い需要がある。

 なるべく多くの客に店の名前を覚えてもらおうと張り切った彼のおかげで、オーレリーに言ったように店の軌道も順調なものになりつつあった。

 だからこそ、彼らはラストがせっかくの給料を惜しみなく使える休業日を、給料日と一緒に設けたのだった。


「ひとまず、この街のことをもっと知らないと。店の周辺はある程度分かってきたけれど、それ以外のところはまだまだ知らないところがほとんどだからね。どうせ行くなら、なるべく離れたところが良いかな。そうなると――北側か」


 とうにラストは当初の滞在予定を超えてなおこの街に腰を下ろし続けることを決めていた。

 もちろん、彼の歩く道の遥か先に佇むエスを待たせ続けるつもりはない。

 それでもこの街の将来を憂うオーレリーの騎士になった以上、このまま現状を放って出ていくつもりはなかった。

 彼女の抱える想いをなんとか成就させたいと思うのはもちろんのこと――都市一つを変えられないのに、エスの隣に立とうと考えるなんてはなはだしい。

 かつて彼女へと誓った新たな【英雄】に近づくためには、他の誰かの笑顔をも取りこぼしてはならないのだから。

 ラストが胸に秘めた熱を再確認しながら歩いていると、見覚えのある顔が次々と彼に話しかけてくる。


「あら、ラスト君。こんにちは。お店じゃないところで見かけるなんて思わなかったわ」

「こんにちは、リーヴェさん。一昨日お伝えしたかとは思いますが、【デーツィロス】は今日は休みでして。せっかくなのでこの街についてよく知ろうと思って、散歩しているんです」

「お前、【デーツィロス】のだろ? なんだ今日は休みなのかよ?」

「申し訳ありません。明日からはまた営業を再開しますので、食堂にはその時にお越しください。お待ちしておりますね」


 街中を散策するラストの下には、そこそこ多くの人々が集ってくる。

 挨拶に加えて一言二言適当に言葉を交わして去っていく彼らは、誰もが【デーツィロス】の虜になった客たちだ。

 老爺シュルマの料理の味はもちろんのこと、ラストが街を騒がせる騎士たちを叩きのめしていく様もまた彼らの記憶に残っている。

 このヴェルジネアで、他では【怪盗淑女ファントムレス】くらいしかいなかった領主に抵抗することの出来る少年のことを、人々が忘れられるはずもなかった。

 店の宣伝を入れつつ彼らとお話しして、ラストは少しずつ街を北上していく。


「……そろそろ、かな」


 彼が街の北側へ近づくにつれて、段々と話しかけてくる人間も減っていく。

 【デーツィロス】を訪れる客層が少ない地域に足を踏み入れたからだ。

 残念なことに、ラストたちの噂は未だ街の反対側の客を引き付けるほどには至っていないようだった。

 だいぶ落ち着いてきた空気の中で、ラストは観光気分も交えつつヴェルジネアの北方を窺う。

 一見変わらない大通りには、多くの人々が行き交っている。誰もが厳しい目をしているが、この光景はラストのいた南方とさほど変わりない。


「悪くはない、んだけれど。やっぱりよろしくないところもあるよね……」


 一方、建物の密集した裏通りの雰囲気は南側よりも危険そうな雰囲気を放っている。

 建物の隅から大通りを覗いていた煙草を咥えた男性たちが、ラストと目が合ったとたんに顔を背けて日陰の中に消えていく。

 その奥に垣間見えるのは、土埃に塗れた貧民たちの生活風景だ。


「……」


 あれらは、ラストの近辺でも見られていた光景だ。

 彼が店を繁盛させて以降は人の往来も増えて小奇麗になりつつはあるが、そのような変化のない地域は以前と変わらず領主の圧政に耐え忍ぶばかりの生活が続いている。

 衣食住が満たされなければ、周囲に気を配る余裕は生まれない。

 その余裕が心の中に少しずつ取り戻されつつある南側とは違って、北側は未だ日々の暮らしに切羽詰まっている人がほとんどの状況だった。

 だからか、彼らのラストへと向ける視線は歓迎よりも無関心が多く、そして時折向けられる強いものは拒絶が込められていた。

 彼らにとっては顔を始めて見るよそ者の上に、彼の少々特殊な見た目が拍車をかけていた。

 服装は田舎の村の人間らしく野暮ったいだけで特筆するところはない。

 だが、ラストの色素の抜けた白い髪と血のように真っ赤な瞳は、この街に住まう心を張り詰めた人々の警戒心を刺激するのに十分だった。


「……でも、オーレリーも初めはこの視線に耐えてきたんだ」


 むしろ、一目見て領主の血筋だと分かる彼女にはより冷たい視線が四方八方から突き刺さっていたに違いない。

 それを受けてなお、彼女は街の中を歩いて人々に尽くそうとしている。

 その心を守ると決めた以上、ラストもまた躊躇しているわけには行かなかった。

 彼はまず自分が彼らと同じ存在であると知ってもらうべく、郷に入っては郷に従えと、普通の住民と同じものを食べようと近くにあった露店に寄った。


「失礼、そこの串焼きはいくらですか?」

「……銅貨三枚だ。あんたの口に合うかは知らんがね」

「さて、食べなきゃ分からないですよ。それで、三本もらえますか」

「物好きだな。分かったよ、好きなのを選んで持っていきな」


 ラストの差し出した貨幣をきちんと舐めるように確認して受け取った店主は、適当に品物を取っていくように促す。

 焦げが浮かぶほどにしっかりと焼かれた、なんの肉かも分からない串焼きだ。

 それらをラストは迷うことなく口へと運び、歯で肉を挟んで串を引き抜いた。

 そのまま何度か咀嚼して、吐き出すことなくごくんと飲み込む。


「ごちそうさま。美味しかったですよ」

「……そうかい」


 心無しか、店主の言葉は買い物前と比べて少しだけ和らいでいるように聞こえた。

 ラストの舌には馴染みのない味で、シュルマの料理とは比べ物にもならない。肉が脂が抜けきって固く、その周囲につけられた濃厚な甘辛いたれの味が全てを塗り潰している。

 それでも、彼にとっては悪くはないものだった。


「串はどこへ捨てれば?」

「どこにでも。適当に捨てれば良い。ほら、足元を見ろ」


 店主の指さした先、屋台の周囲の地面には確かに使い終わった串が散乱している。

 だが、さすがにその習慣までは真似するつもりになれなくて、彼はその串を【デーツィロス】まで持ち返ることにするのだった。

 間違っても通り過ぎる人々に刺さらないよう注意を払いながら、ラストは次の食事を買い付ける。


「すみません、水割りを一杯」

「おう、銅貨二枚だ」


 たっぷりの水で割った安物の酒を飲んで喉を潤せば、にっかりと笑った店主にさらにもう一杯勧められる。


「今日は暑いぜ、ほれ。まだまだ遠慮せず、ぐいっと飲んでいけ」

「はい、それではお言葉に甘えて」


 なみなみと注がれた水割りを更に三杯飲み干して、ラストはけぷっと空気を吐き出した。

 きつい洗礼だが、吐き出すわけにはいかない。彼はお腹の水を揺らしながら、慣れない街の中に溶け込もうと吐き気を抑えつつ歩いていく。


「――さっさと話せクソガキども! この辺りに例の女がいるんだろ!」

「痛っ、苦しっ……は、放してっ!」

「俺たちは全部お見通しなんだよ! 早く話せばこれ以上痛い思いをしなくて済むぜ?」

「だから知らないってば! 俺たちなんかが知ってるわけないだろ!? だから放してくれよ!」


 そうしていると、ラストの耳に数日ぶりの暴力的な男たちの声が聞こえてくる。

 ――そう、彼がこの辺りに足を踏み入れるのが始めてなのなら、ここに彼が相手をしたことの無い騎士たちが縄張りを築いているのもなんら不思議なことではない。

 もちろん休日だからと放っておけるはずもなく、ラストは助けを求める声の下へ駆けだした。

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