閑話 月の下で乙女は血を厭う


 ――青褪めた月が、欠けた顔で歪に笑う。

 時は夜。闇の帳が下りたヴェルジネアの中でもっとも明るい大広間にて、オーレリーは手にしていた銀のナイフとフォークをそっと手放した。

 周囲を見渡せば、壁面に隙間なく飾られた色彩溢れる絵画や煌びやかな彫刻の数々、そして天井から吊るされた百の蠟燭をたたえる金色のシャンデリアが目に入る。そこには統一感など欠片もなく、個々の主張が激しく衝突するだけの煩雑な空気に満たされた空間。

 このような場所で満足に晩餐を楽しめる者は、まともな精神をしていないに違いない――彼女は普段通りに心で呟きながら、目の前の光景から一刻も早く目を離したくて早々に口元を拭う。


「ごちそうさまでした」


 淡い朱色のついた布ナプキンを机に置き、この場の誰よりも早く料理を食べ終えたオーレリーは一人席を立った。

 床に引きずるほど丈の長いドレスの裾を嫌々持ち上げ、氷のような仏頂面で立ち去ろうとする。


「あら、もう行ってしまうの? お菓子はこれからなのに」


 その背中に、二つ隣の席で同じく夕食を取っていた女性が声をかける。

 オーレリーとは似ても似つかない。どちらかと言えば、その女性は彼女の隣で今も二倍増しの肉料理を頬張っている姉グレイセスにそっくりだ。

 彼女はとんとんと机を指で叩きながら、オーレリーに話しかける。その手には、それ一つで平民の年収を優に超える宝石がぴったり五つ輝いていた。


「お母さま。申し訳ありませんが、私のお腹はもう十分に満たされましたので」


 オーレリーが母であるパルマ・ヴェルジネアにそれだけを言って食堂を後にしようとすると、グレイセスが肉の脂たっぷりのギトギトとした声で口を挟む。


「ふん、放っておけばいいのよ。どうせあの平民の男のところにでも行くのでしょう? せっかく出来た大切な、平民・・の騎士ですもの。これからの二人の楽しい・・・時間を邪魔してはいけませんわ、パルマお母さま」


 姉の含みのある言い方に、オーレリーはぎゅっと口元を引き結んだ。

 そのような口調では、パルマは母親として逆に飛びついてくるに違いないのだから。

 どう考えても邪魔をするつもりしか感じられない、グレイセスの釣り糸。


「なんですって!?」


 ――ほら、やはりこうなるに決まっていますわ。

 姉の垂らした餌に飛びついた母親の顔が一気に険しくなる。

 脂肪で膨れた顔に深い皺が刻まれ、パルマはぐにゅりと潰れた豚のような顔に変貌した。


「――なりません! 何度お見合いをしても断って私たちに頭を下げさせた挙句、あの泥に汚れた豚どもに靡くだなんて! 私は許しませんよオーレリー!」


 呆れた顔で向き直るオーレリーは、視界の端で小汚く笑いながら肉の脂肪だけを切り分けて大切そうに口へ運ぶ姉を一瞥する。

 生意気に口答えした妹が怒られるのを見ながらする食事は、グレイセスにとってさぞ気持ちがいいのだろう。

 相も変わらぬ姉の低劣さに冷ややかな視線を向けながら、オーレリーは落ち着いた声で母の間違いを訂正する。


「彼は豚などではありません。それに、お母さまが選ばれたお見合いの相手よりはずっと良いですわ。誰もが最初から上から目線で、私を言いなりにしようと下賤な目を隠そうともしませんでした。あのような、外見が泥にまみれていなくとも内面が泥そのものの連中などとは比べ物にならないくらい、ラスト君は誠実な方です」


 抵抗する娘の姿に、パルマは憤る余り机に手をついて立ち上がった。

 じゃらん、と身につけたいくつもの宝石が贅肉のついでに揺れる。


「なんてことを言うの!? どなたも素晴らしい殿方ばかりだったというのに――」

「素晴らしいのはお見合いの話と一緒に贈られた宝石の方でしょう」

「っ、なにを!?」

「ぜひ未来の婚約者に、と渡されたはずの宝石が毎回お母さまの手の中で輝いているのはいったいどのような魔法なのでしょうか? 後学のためにもご教授願いたいですわ」


 オーレリーの冷静な指摘に、彼女はさっと顔を青くする――そしてすぐに真っ赤に染めた。

 そんな母親の顔芸を肩を竦めながら見据えていると、グレイセスの向かい側から笑い声が響く。


「ぶぁっはっはっはっ! こいつは一本取られたなお母さまよ! 良いじゃないか、珍しい妹の我儘なんだ。お兄ちゃんは応援するぜ。それくらい黙って見守ってやればどうだ?」


 その声の主を、パルマは歯ぎしりしながら叱責する。


「黙りなさいセルウス! 貴方も貴方よ、食事中くらいその下民を下げなさい!」

「いやなこった。ん、むぐむぐ。うまいぞキャトル。褒めてつかわす」

「……ありがたき幸せにございます、セルウス様」


 セルウス――オーレリーを妹と呼んだ彼は、現ヴェルジネア家の次男だ。

 彼は母親の怒りを受け流しながら、自身の口元にスプーンを差し出した侍女の顎をくすぐるように撫でさすった。

 キャトルと呼ばれた彼女と、背後に控える他二人の少女たちの首元には鉄製の首輪がついている。首輪は決して取れないように溶接してあり、ついでに細い鎖が手綱がわりに伸びて、セルウスの手に握られている。

 その残酷な支配の姿さえなければ、オーレリーは少しだけ兄の応援を喜んでいたかもしれない。

 もっとも、そのような例え話が現実にあるはずもないのだが。


「俺たちは貴族なんだ、平民出身の愛人の一人や二人くらいおかしくともなんともないだろ? 俺はむしろ、これまで生真面目だったこいつが少しはまとも・・・になったことを祝福すべきだと思うぜ」

「男子ならともかく、嫁入り前の女子にそんな汚らわしい噂が纏わりついていれば、誰が欲しいと思いますか! 少しは考えてからものを話しなさい!」

「へーへー、そうですかっと。……おら、もたついてないで早く次を運べよ。手を止めろなんて命令は出しちゃいないぞ」


 セルウスは合図がわりに、キャトルと呼ばれた少女に繋がる鎖を引っ張る。

 彼女は苦しそうにしながらも「ばい」とただ一言口にして、丁寧に肉を切り分けて主の口元へ運んだ。

 なんとも恐ろしい光景だが、オーレリーの家族の誰一人として、そのふるまいを咎めようとはしない。


「……セルウスお兄様。もう少し丁重に扱ってあげてください」

「これでも優しくなった方だぜ? ったく、これくらい大目に見ろよ妹よ。お前だって男を囲ったんだろう? だったらつい苛めたくなる俺の気持ちも分かってくれると思うけどな」

「勘違いされているようですが、私と彼の関係はそのようなものではありませんわ。主と騎士、ただの主従関係ですわ。そこに色欲の絡む要素なんて一つもないのです」


 そんな妹の抗議に、セルウスは薄ら笑いを浮かべるだけだった。


「おいおい、冗談を言うなよ。男と女が近づいて色が絡んでこないなんて、十中八九有り得ないね。男と女がただの親友だとかただの仕事上の付き合いなんて、淡泊な関係で終われるわけないだろ。下らないこと言ってないで、さっさと欲望に素直になるのが一番だぜ?」


 それがさも当然であるかのように、彼は妹を諭そうとする。

 あるはずもない本心を見透かすような目を向けられて、オーレリーは咄嗟に目を背けた。

 ありえないと確信していても、本当にそうなってしまいそうで怖くなったのだ――同じ血を引く兄に言われてしまっては。


「……ああ、頭が痛い。さっきからうるさいな。せっかくのいい気分が台無しだよ」


 続いて、彼女が目を向けた先に座っていた男のどんよりとした声が響く。

 セルウスよりも一つ上の席につく彼の名は、リクオラ・ヴェルジネア。

 この家の長男であり、次期領主の第一候補である男だ。

 もっとも、そんな彼は今まさに顔を真っ赤にしてでろんでろんに酔っぱらっていた。


「お前たちにはこの蠱惑的な輝きの秘めた価値が分からないのか? 僕のこの時間を邪魔しようというのなら、家族だろうと容赦はしない」

「まあまあ兄貴、落ち着けって。今オーレリーの奴に男が出来たって話で盛り上がってたんだ」

「盛り上がってなどいないでしょう! セルウス、いい加減な嘘をつくんじゃありません! 私の話はまだ終わっていませんよ――」


 ガミガミと言葉を飛ばす母とは対照的に、とろんと酒に酔った目でリクオラが話し出す。


「なんだ、オーレリー。男が出来たのか?」

「違います。ただ、新たな騎士を任命したというだけですわ」

「そうか。いずれにせよ、めでたいことだ。おめでう」

「めでたくなど――」

「僕の倉庫から好きな酒を持っていくと良い。せっかくの妹の門出だ、酒を贈らなきゃ始まらない。あははっ、酒は良いぞ。酒には人生の幸福という幸福全てが詰まっている……」


 そう言いながら再びグラスの中の液体に陶酔するリクオラ。

 どうやら彼は好きなだけ言って、母親の怒鳴り声にも構わず、再び酔いの導く夢の中へ戻ってしまったようだ。

 そのあまりの傍若無人っぷりにパルマも毒気を抜かれてしまったようで、彼女はようやく腰を再び席に落ち着けた。


「あなた、あなたからもなにか言ってくださいまし。今度の競りのことは一度置いておいて、ほら!」


 こうなればもはや自分ではどうしようもないと、彼女はこの場において最高決定権を持つ夫を頼る。

 食事を取りながら手元に置いた書類を覗き込んでいた彼から、その束を取り上げる。

 勢いのあまり机の上に散らばった紙面には、大量の美術品の名前が踊っていた。


「なにをするのだパルマ。ここにどれだけ魅力的な品々が並んでいると思っている。これらを落とすために増やす税を考えねばならんのに」

「それよりも、娘の話を聞いてくださいな。オーレリーが新たに平民の男を騎士として傍に置くと言い出したのですよ? 貴方からも叱ってやってくださいな」


 パルマに腕を引っ張られて、父親――現ヴェルジネア領の領主、アヴァル・ヴェルジネアが顔を上げた。

 しかし、その娘と同じ翡翠の瞳は話の中心へは向けられていない。彼の視線は変わらず、散らばった書面に刻まれた一覧に注がれているままだった。

 それもいつものことと、先手を打つようにオーレリーが口を開く。


「私と彼はお母さまの言うような関係ではありません。断じて違いますわ、お父様。私は彼を騎士として任じただけであって、醜聞を招くようなことは決していたしておりません」

「貴女は黙っていなさい!」


 パルマのキンキンと耳に響く叫び声を側で受けても、アヴァルはまったく動じない。

 彼は息子たちと同様に、妻の言い分など知ったことかと言わんばかりに自分の考えをそのままオーレリーに問うた。


「――それで、そのラストとやらはいくら金を納める?」

「はい?」

「騎士として認めるなら金貨一枚。台帳に登録し、正式な騎士とするなら金貨二十枚。叙勲式を執り行うなら五十枚だ。とはいえ、娘の頼みならばそうさな。三十枚で勘弁してやろう」


 その言葉に、パルマはあんぐりと口を開けて夫を見つめることしか出来なかった。

 だが、オーレリーにとっては十分に予想の範疇だった。

 誰が何と言おうと、彼女の父はまず第一に金のことを考える。アヴァルにとって、己の趣味である贅沢に必要なもの以外の事柄は全てそれらに付随する情報に過ぎないのだ。

 娘の醜聞も妻の怒りも――民の命でさえも、金にさえなればそれで良いと本気で考えている。

 それを知っているからこそ、オーレリーは静かに答えた。


「……お父様に認めていただく必要はございません。私と彼とは、お金で繋がっているのではありませんから」

「そうか。ならば話は終わりだ。勝手にすると良い」

「あなた!」

「金にならん話に意味はない。それよりも来月出品されるというシモーニの絵の方がよほど大事だ。これを手に入れるのに、あと三つは新たな税を定めねばなるまい……」


 そう言って再び書類の中の名前に没頭する父と、口うるさく彼に責めよる母。

 リクオラは酒に酔ってぐでんと椅子に背中をだらしなく預けているし、セルウスは同好の士を見つめたお云わんばかりににやにやと笑って見つめてくる。

 そして姉は母の目が父へ向かったことに、面白くなさそうにしながら三枚目の肉にがっついている。

 ――その光景が嫌で嫌でたまらなくて、オーレリーは履き慣れない踵の高い靴を鳴らしながら、駆け足で己の心の落ち着く空間へ向かった。

 階段を一段飛ばしで駆けあがり、廊下を幾つか抜けて彼女が辿り着いたのは祖父の書斎だ。

 入り口の周囲の壁は塗り替えられて食堂と同じようなおぞましい両親の趣味に染められているが、その中は昔と何も変わらない。


「はぁっ、はぁっ……」


 中に入って、彼女はすぐさま胸元から取り出した鍵で誰も入って来られないように入ってきた扉を施錠する。


「……こんなものっ」


 ついで彼女は邪魔な靴を脱ぎ捨てて、壁に埋め込まれた本棚に備え付けられていた梯子を駆けあがる。

 そのままいくつかの本の背表紙を順に押して、颯爽と飛び降りた。

 すると、やがて本棚の内一つがゆっくりと動き出す。

 その向こうに顔を出したのは、暗い石造りの階段だ。

 ひんやりとしたその階段を転ばないように手探りで静かに降りていくと、やがて一つの部屋へと辿り着く。


「……ただいま」


 ヴェルジネア邸の地下に作られた光のない隠し部屋の中で、オーレリーは密かに呟いた。

 この場所は父も母も、家族の誰もが知らない。唯一知っているのはここを作った彼女の祖父と、それを教えられた孫娘だけだった。


「光よ。月の導きによりて、闇を照らせ。【光灯連星ルクスフィア】」


 彼女の口ずさんだ魔法により、真っ暗だった部屋が照らされる。

 そこには表の書斎とは比べられないほどの蔵書がずらりと並んでおり、その他にも様々な品々が置かれていた。

 彼女はその中をまっすぐに歩いて、部屋の奥に掲げられていた一つの古い肖像画の前に立つ。


「いかなる闇が罪を包み隠そうと、その光は全てを暴く――満月の下に、必ず」


 額縁に刻まれていた文言を、オーレリーが指でさすりながら読み上げる。

 そこに描かれていたのは、一人の少女だ。


「私は彼女にはなれません。だって、この身は罪深きものなのですもの。……でも、その光の欠片で少しでも多くの人を救えるのなら、救わなければ。この心まであの人たちのようになりたくなんて、ありませんから」


 彼女とは真逆の、翡翠の髪に琥珀色の瞳を持つ可憐な少女をオーレリーは見上げる。

 年月を経てかなり色褪せているものの――月を背中にして闇夜を駆けるその鮮やかな姿は、この街の誰もが良く知っている【怪盗淑女ファントムレス】アルセーナその人だった。

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