第101話 彼女はどこにいたのか


「それでは、また今度。このお仕事が終わった時にでも、時間があれば足を運ばせていただきますわ」

「いってらっしゃいませ、お嬢様。いつお見えになられても恥ずかしくないよう、夫ともどもお待ちしております」


 慇懃に一礼した老婆に見送られながら、オーレリーは舌から紅茶の余韻が消え去るのとほとんど同時に【デーツィロス】を後にした。

 この街にはまだまだ、彼女による【月の憂雫ルナ・テイア】の換金を待っている人がいる。

 ラストはチャルヴァートンの財産の詳しい内訳を知るわけではないが、昨晩確認した金庫の大きさから、一両日中に終わる量ではないだろうと察していた。一度に運べる貨幣の量も限られているだろうし、これから彼女は屋敷とこの平民街を何回も往復しながら、怪盗の落とし物を手に入れた不運な人々を探さなければならないのだ。


「あの、オーレリーさん。もし辛くなったりしたら、遠慮なく僕を頼ってね。これでも力には自信があるから、荷物運びくらいならまったく問題ないからさ」

「そのお気持ちだけで結構です。ラスト君だって、繁盛なさっている店の手伝いで忙しいでしょうから。……ところで、エルマさんが出てきてから一言もお話ししていただけませんでしたが、あれはどうしてだったのでしょう?」


 彼女はさらりとラストの助力の申し出を辞退しながら、心配そうに彼を見つめた。

 彼は老婆エルマの言葉に心を突かれて以降、店の一部として黙々と清掃を再開していた。

 直前までとは全く異なる態度を取るようになったのを、オーレリーが不自然に思うのも無理はない。


「あーっと、それはだね……。ほら、まだ掃除するところが残ってたからだよ。仕事を忘れて君とのお喋りに夢中になってたから、気まずくって」


 まさか老婆の考えていたお節介を一から説明するわけにもいかず、彼はもっともらしい理由を述べて真実を誤魔化した。

 だが、幸いにもそれで彼女は納得してくれたようだった。


「ふふっ、そうだったのですか。それではお互い、この後も引き続き頑張りましょう」

「うん。お婆さんの眼は厳しいからね、埃の一つだって見逃したりしないんだ。やり直しにならないよう、隅から隅まできっちり掃除しないと」

「エルマらしいですね。昔は女中たちの教育係として、よく叱咤の声を飛ばしていましたわ。ですが、それも相手を思えばこそ。期待されているのですよ、ラスト君は」

「分かってるさ。いつまでもいるわけじゃないけど、せっかくの機会だから僕もここにいる内にいっぱい勉強させてもらうつもりだよ」


 ラストは従者の仕事は知っていたつもりでも、実際にやってみた経験はない。

 しかし、これも知っておけば後に役立つ機会が巡ってくるかもしれない。何事も丁寧にこなさなければならないという奉仕の精神は、彼の目指す将来の姿にも共通するものだ。

 些細な見逃しが、後に予想を裏切る結果に繋がることもある――ラストの元父親が彼を【深淵樹海アビッサル】に放置しただけで済ませた結果、エスに救われて命を繋ぐことが出来たように。

 父の失敗は彼にとっての幸運に繋がったが、ラストがこの先に歩む道では一つの失敗が多くの人間の命取りとなる。

 それを防ぐためにも、エルマの下で働くことは良い機会だと彼は考えていた。


「……ええ、それが良いと思いますわ。シュルマさんのお食事もついていることですしね」

「羨ましいなら、いつだって来ればいいのに。きっとお二人は断ったりしないよ」

「いえ、そこまで厚かましいことは出来ませんわ。やっぱり、私にはまだ、彼らの心からのおもてなしを受ける資格はありませんから。貴方に努力を誉めていてほっとしたのは確かですが、今は時折足を運ばせていただくくらいしか許せないのです」


 そう言って、彼女は辛そうに僅かに顔を陰らせた。

 しかし、以前のように店の様子を窺っただけですぐに立ち去ろうとしていた時よりは確かな前進が見て取れた。

 ならばそれで今は十分だと、ラストはこれ以上彼女を無理に元気づけるような言葉を出さないように口を固く閉じて自制した。

 彼が訪れたことで発生した突然の変化がスピカ村でルークを苦しめてしまったように、急ぎ過ぎては逆に悪い影響をもたらすとラストは学んでいた。

 だからこそ、この場で彼は黙って彼女の抱え続ける強い意志を見守るに留めた。


「では、ごきげんよう」


 そう言って去ろうとしていくオーレリーを見送ろうとしたところで、ラストはふと、視界に映る一つのことに目を寄せた。

 それに忘れていた本来の用事を思い出して、彼は咄嗟に彼女を呼び止めた。


「あ、ちょっと待ってくれないかな?」

「なんでしょうか? ごめんなさい、ここで過ごしているのがあまりに楽しかったせいか、予定よりも時間が遅くなってしまっていまして……長くなるようでしたら、後日にしていただけると助かるのですけれど」


 そう言いつつも、オーレリーは律義に足を止めて振り返る。

 ラストは軽く頭を下げてから、人差し指をぴんと立てて彼女に問いかけた。


「いや、そんな時間を取らせないから。最後にこれだけ聞かせて欲しいんだ。――君は昨晩、どこにいたんだい?」


 その簡単な質問に、オーレリーは一秒と掛からずに答えた。


「昨晩ですか。それなら、ずっとお屋敷の中にいましたけれど。ちょうど栞を挟んだままの本がありましたので、先ほどお話したお爺様の書斎に篭って……それがなにか?」

「そうだったの? てっきり僕は、君もあのチャルヴァートンの家に来ていたと思ってたんだけど」


 きょとんと多少大げさに首を傾げたラストに、彼女は目を僅かに細める。


「……どうしてそのように考えられたのですか?」

「どうしてって、君が言ったんじゃないか。お待ちしています・・・・・・・・、って。覚えてないのかい?」

「ああ……そう言えば、確かにラスト君の仰る通りですわ。申し訳ありません、両親に家で待機しているようにと言われていたのをすっかり失念していたようです。ほら、怪盗は予告状を送った先を襲うと知っていても、いつその裏をかいてお屋敷を荒らされるか分からないでしょう? 魔法を使う相手には、同じ魔法を使うことの出来る私たちでなければ対抗できないと――お父様たちはだいぶ怪盗を警戒されておられるようでして、満月の日は常に私たちを家に引き留めておくのです」


 オーレリーは素直に謝って、彼女の姿が見えなかった理由をラストに教えた。


「そうかい? ただの勘違いだったのなら、それで良いんだけどね」

「とはいえ結果としては嘘をついてしまったのも事実ですわ。この償いはまたの機会に、きちんとさせていただきますね」

「お構いなく。と言っても、君のことだから納得しないよね」

「はい。なにせ、あれだけの暖かい想いを伝えられたんですもの。このまま何もなしに終わる、というわけには参りませんわ。心の恩人に迷惑をかけたままなんて、お爺様に叱られてしまいますもの」


 あっさりと彼女の説明に納得したラストは、彼女の言う償いについて考える。

 ただでさえ忙しい彼女の時間を貰ってまでお礼をされることは憚られる。

 なにか彼女の背負う仕事とうまく両立できるものはないかと思考を巡らせたところで、彼はぽんと手を叩いた。


「それなら、次に店に来る時には休憩時間じゃなくて、開店している時にしてくれないかな」

「ええっ、それだけでよろしいのすか?」

「それだけ、じゃないさ。この店を君みたいな美人が贔屓にしていると噂が立てば、より多くのお客さんが来てくれるだろうからね。そうなれば、僕のお給料も増えるからね」

「……確かに、そうですけれど」

「それに、こうも考えられるよ。お爺さんたちの売り上げに貢献することが出来る……今日は返されてしまったお金だって、そうやって渡せば断ろうにも断れないだろう? これなら君の抱えているお爺さんたちへの贖罪の気持ちも、少し落ち着くんじゃないかな」

「ラスト君、貴方という人は……いえ。これ以上なにかを言っても、貴方は私のことを考え続けてくれるのでしょう。分かりました、ここは素直に貴方の提案に従いますわ」


 彼女はどこか呆れたように苦笑いしながら、ラストの提案に頷いた。


「それにしても、貴方は騎士を大人しくさせてくれた件といい、本当に私にとって興味の尽きない方ですわ――この間は早く出立するようにと促しましたが、今はむしろ、離れていってしまうのが惜しいと感じてしまうほどに。貴方なら、私と一緒にこの街を変えていけるのではないか……いえ、冗談ですわ。忘れてくださいな」


 オーレリーは最後に割り切った笑顔を向けて、たたたっと足早に次の家へと駆けて行った。

 ただ、ラストには遠ざかっていくその背中に、彼女の寂しさが尾を引いているように見えてならなかった。

 この街の本当の姿も、彼女の真の笑顔も、目にするにはほど遠く感じられて、彼は静かに視線を下ろす。

 その先の地面には未だ、去っていった彼女の足跡がくっきりと残っている。

 それらをじっと見つめながら、ラストは頭の中に書き留めていたとある足跡――彼が今朝の鍛錬をする際に見つけていた、眠る老夫婦の部屋へと続いていた真新しい足跡と照合させた。

 記憶の中のそれは、歩幅や土の沈み具合などから多くの情報をラストに与えてくれる。

 それらが裏付けるとある真実への推理を頭の中だけで組み立てながら、彼は静かに【デーツィロス】の中に戻るのだった。

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