第100話 この街に欠けてはならない笑顔
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老爺の取った予想外の行動に、彼女は怪訝そうに首を傾げる。
「どういうことでしょう? このお店にはこれまで、我が家の騎士たちが幾度となく迷惑をかけてきましたわ。それ以外にも、飲食業にかけられた税金は他の商売と比べて重いものですわ。最近は好調だとしても、それ以前の赤字は経営の傷として深く残っているのではありませんか?」
「いや、お嬢様の言う通りですじゃ。全体的に見ればまだまだ経営はよろしくありませんわい」
「でしたら、無理をなさらずとも受け取ってくださればよろしいのに……」
「なに、決して無理をしているわけではありませんわい。そこは分かっていただきたいんじゃ」
そう語る老爺の陰のない瞳に、嘘偽りの気配は見られない。
彼は目の前に座るオーレリーに真っ直ぐに目を向けながら、今の食堂【デーツィロス】の経営状況について説明した。
「ラスト君が来てくれてから、お客様の数がぐんと増えましての。ごろつき共が溜めていたツケが残っておるのは本当ですが、それもその内解決すると妻は弾き出しておりました。差し迫って困窮しているわけでもない以上、儂らは宝石をお渡しするだけで済ませようと結論を出したのじゃよ」
「……本当に、よろしいのですか? 見栄を張っているわけではないのは分かりましたが、本当に……?」
「先代に誓って、二言はありませぬ。それに、偶然困窮から抜け出せた儂らはともかく、まだまだ飢えている者はおりますからの。どうぞ、その方たちのために、お嬢様の思うように使って下され。それがこのヴェルジネアにとって最も良い判断になると、儂らは知っておりますゆえ」
未だ迷うそぶりを見せるオーレリーは、その手を膝の上に乗せたままでいる。
そんな彼女を促すように、シュルマは机に置いたままだった二つの品物をそっと持ち上げて彼女の手の中に収めた。
老夫婦の思いがずしりと伝わったからだろうか、唐突に彼女の眦に涙が滲んだ。
「オーレリーさま? もしやこの老爺の言い分がそこまでお気に召しませんでしたかな?」
「違います。申し訳ありません、シュルマさん。ただ、つい嬉しくなってしまいまして……少し、待っていてくださいな」
彼女は速やかにそれをハンカチで拭い、元の気品のある穏やかな顔に戻った。
「私が今の活動を始めてから、色々な街の方の笑顔を再び見られるようになりました。最初はそれで良かったと満足していたのですが、ある日それは私の思い違いだったと気づいたのです」
「……それはいったい、どんな間違いだったの?」
「彼らは一時笑ってくれても、数日経てばまた元の厳しく張り詰めた顔に戻ってしまうのです。私程度がなにかをしても意味はなくて、結局この街は元に戻ることなく衰えてしまうのではないか――そう思って、毎日私の胸の奥は鈍い痛みを訴えていました」
オーレリーが静かに自分の胸に手を当てる。
ラストには、その細い指先が彼女の心臓そのものを握りしめるように見えていた。
彼女は長い間、内側から自身を苛む無力感に晒され続けていたのだ。民には領主の娘として非難の目を見られることも多々あっただろうし、問題の元凶である家族にも頼ることが出来ない。
内外から魂を削られ続けた彼女の味わっていた苦痛は、きっと肉を直接やすりで削られるようなものだっただろう――。
彼女の背負っていた苦しみを想像して、ラストは顔を顰める。
そんな彼を見て、オーレリーは安らいだ口調で話を続けた。
「けれど、こうしてお金を返されて、ようやくこの心の疼きが少し落ち着いた気がして。どうしようもなかった父の権力に立ち向かうことが出来ると知れて、気が抜けてしまったんです。ありがとうございました、ラスト君。これも貴方のおかげなのですよ」
「……僕はただ、僕に出来ることをやっただけだよ。それよりも、敵わないかもしれないこの街の現状に立ち向かい続けたオーレリーさんの方が、よっぽど称賛されるべきだと思うよ?」
「いいえ。私の努力なんて、しょせん焼け石に水をかけているようなものですわ。私には、根本的にこのヴェルジネアを変えられるような力などありませんから……」
そうして、オーレリーは物憂げな表情を浮かべて目を伏せた。
その顔が初日に見せられた別れ際のものと重なって、ラストは思わず彼女を引き留めようとその手を取った。
「え?」
呆気にとられたように彼を見上げるオーレリーに構わず、彼は孤独に震える彼女の手を両側から包み込むように握った。
そして、彼女がその内に抱える悲しみを瞳越しに見つめながら、ラストはこのままで話を終わらせないように語り掛ける。
「そんなことを言わないでよ、オーレリーさん! ――たとえ一時のものだったとしても、貴女の取り戻した人々の笑顔は決して偽物なんかじゃないんだ。だから、あまり自分を追い詰め過ぎないで。身を粉にしてこの街に尽くしているオーレリーさんの頑張りが無駄だなんて、僕は思わない」
「ラスト君……」
「君にはこの街を変えようとする強い心があるんだ。それがこのまま潰れてしまうなんて、悲しいことを言わないでくれ」
オーレリーの信念は決して折れて良いものではない。
彼女の浮かべた悲嘆と苦痛が入り混じった表情を、ラストは放っておくことなど出来なかった――ましてや、初日に彼女に言われた通りに素直に従って、一月が過ぎると当時にこの街から出ていくことなんて。
荒廃していくがままのヴェルジネアを放っておけず、人々の安寧のために奔走するオーレリー。
彼女がろくでもない人間たちの振るう権力の前に屈するような未来を迎えることは、ラストには許容できなかった。
彼女は人々の笑顔を守るために、ずっと孤独に戦ってきた。
なら、そんな彼女の笑顔は誰が守るのだろうか。
この街で最も価値のあるお宝であろう彼女の笑顔がなくなってしまっては、【英雄】としてエスに誓った平穏が訪れたなんて言えるはずもない。
「決めたよ。君が困っている人たちを助けようとするのなら、僕がオーレリーさんをその胸の痛みから守ってみせる。皆を幸せにしたいのなら、君もその中で笑っていないと駄目だ」
「……ですが、私は民を苦しめる悪しき領主の血族です。幸せになる権利なんて、ありませんわ」
「そんな権利の有無なんてどうだって良いよ。誰かが幸せになりたいと思うことを邪魔して良いものなんて、なにもないんだから」
少なくとも、己の幸せのために他人を苦しめる者たちのためにオーレリーの幸せが妨げられることが良いわけがない。
そう思いながら、ラストは彼の想いを断ろうとする彼女に告げる。
「良いのですか、そんな熱烈に私を口説いても。貴方は旅の途中なのでしょう?」
「僕の……僕たちの旅の終わりは、誰もが笑って好きに暮らせる世の中なんだ。悲しそうにしている君を放っておいたら、いつまで経っても終わらない。むしろ、何のために旅をしているのか分からなくなっちゃうよ」
そんな彼の言葉にオーレリーは少しばかり押し黙ってから、やがて小さく頷いた。
「……ありがとうございます。ラスト君、貴方のおかげでこの胸のもやもやがまた少し晴れた気分です。そこまでおっしゃってくださるのでしたら、時折ここへ来てお話させてもらっても良いですか?」
「それくらいお安い御用だよ。僕も、それにお爺さんたちも、君のことを待っているからさ」
「ふふっ、少し違いますけれど……分かりました。それでは、頼らせていただきますね」
そうして彼女がラストにちょっとだけ顔を近づけると、厨房に引っ込んでいたはずの冷たい視線が急に二人の間に割り込んだ。
「……なぜラスト君は、私が目を離したほんの僅かな間にお嬢様の手を握っているのですか?」
「あっ、エルマさん。これはですね……ええっと、なんでもないですよ。ははっ……」
老婆に厳しい目で睨まれて、ラストはぱっと手を離して誤魔化すように笑った。
その後ろで、オーレリーはその手に残るぬくもりを確かめるようにじっと見つめていた。
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