第98話 月雫を換える役割
他の客がいないせいか、オーレリーの透き通った声は店奥の厨房まで響いたようだ。
夜の仕込みをしていた老爺シュルマが、料理の良い匂いを調理服に纏わせながらバタバタとやってくる。
「ああ、お嬢様。お待ちしておりましたぞ、さあさ席へどうぞ。ただいまご用意していた料理をお持ちしますので……」
「ありがとう、シュルマさん。ですが、本日は食事をしている余裕はないのです。貴方の料理を断るのは本当に心苦しいですけれど、これは私の大事な役割ですから。他にも私を待っている方がたくさんいるのです」
彼の皿の味を知る者としては飛びつかざるを得ないはずの提案を、今日のオーレリーははっきりと断った。その言葉の裏には先日のような悲壮感ではなく、確かな義務感が秘められていた。
それに首を傾げるラストだったが、老夫婦もまたこの間と異なり、彼女を強く引き留めようとはしなかった。
「うーむ。そう言われては仕方ありませんな。婆さんや、オーレリーさまはきちんと食事を取っておられるのかのう?」
シュルマがそう問うと、老婆エルマはじろりと熟練の女中としての目をオーレリーに向けた。
「……そのようですね。まだまだ指摘すべき点はありますが、ひとまずは合格を差し上げてもよろしいでしょう。ですが、くれぐれもご自愛なされるように。良いですね?」
「はい、エルマさん。もちろんです。合格できて安心しました、きちんとした生活習慣を取った甲斐がありましたわ」
素直に頷いたオーレリーの様子は、先ほど叱咤を受けていたラストのものとは大違いだった。
それがなんだか情けなく思えて、彼は更に掃除に集中することに決めた。床掃除が終われば次は客の使った椅子や机を磨き上げなければならず、仕事はまだまだ残っている。
彼がそうしている一方で、エルマはオーレリーに休憩を取るよう勧める。
「ですが、紅茶くらいは飲んでいってもらいますよ。今日はこの後も色々な所を回るのでしょう? きちんと水分を取らなければ倒れてしまいますからね」
「分かりました。それでは貴方の淹れるお茶を楽しませていただきますね。屋敷のも悪くはないのですが、いかんせん、エルマの味を舌が覚えてしまっているもので困ったものですわ」
「今の紅茶係がどなたかは存じ上げませんが、この老婆が積み重ねた茶葉との時間を易々と越えられてはたまりません。まだまだ若いものには負けませんよ」
そう言って一度厨房へ引っ込んでいった老婆を見ながら、適当な席に腰掛けたオーレリーの正面に店の主人であるシュルマが立つ。
彼は厨房から出てきた時からずっと抱えていた小さな布の包みを、机の上に優しく安置した。それが解かれると、中から青く輝く一つの宝石が姿を現した。
床を磨き終えたラストは、今度は机を磨きながらも二人のやり取りを見やる。机に置かれた宝石は小粒だったが、平民には数か月は安心して暮らせるほどの価値があるように思えた。
「これがそうなのですね?」
「はい。今朝儂らが目を覚ました時に枕もとに置いてありましたんじゃ。儂にしろ妻にしろ、そのようなものを買った覚えはとんとありませぬ。ここにある宝石と言えば、妻との婚約指輪程度ですからの。ですから、それは十中八九怪盗の置いていった【
「なるほど……」
オーレリーは布に包まれたままの宝石を軽く持ち上げ、様々な角度から観察する。
ラストには、その姿が宝石の美しさそのものを楽しむ令嬢というより、価値を見計らっている鑑定人のように見えた。
そして、その予感が的中していたことを彼はすぐに知ることになる。
「おおよそ分かりました。それでは、これで買い取らせていただきます」
彼女は宝石を机に戻すと同時に、腰に下げていた小さな鞄からずっしりと重みのある袋を出して宝石の隣に置いた。
その封が彼女の手で解かれると、金色の輝きが顔を見せた。この店でラストが会計をしている間は見た記憶のない、小さな金貨の塊だった。
「驚きました、ラスト君? これが今の私が頑張っている、一番大切な仕事なのですよ」
急に話を振られたラストは、先のエルマの言葉を思い出してぎくしゃくとしながらもなんとか言葉を返した。
「……【
「その通りです。ね、ラスト君。突然ですが一つ質問をさせてもらいますわ。怪盗が盗むものは、大きく二つに分けられます。その違いはなんだと思いますか?」
掃除の手は止めないまま、彼は頭を悩ませる。
「なにって、難しいな。怪盗が盗むのは悪党の財産なんだろう? それを分類してみてって言われてもね……芸術品と貴金属とか?」
「惜しいですね。正確は、直接市場で使えるものとそうではないものです。小さな単位のお金を渡されたならば簡単に使うことが出来ますが、価値の高すぎる大金貨や宝石などは一度崩したり換金しなければ平民街では使えないのですわ。宝の持ち腐れというものです」
「確かに、言われてみればそうだ。これは気づかなかったな」
屋台一つをポンと買えるような単位の貨幣でたった一つの串焼き一つを買おうにも、店主にはおつりを出すことなんて出来やしない。
買い物が出来ないのであれば、いくら立派なお金でも持っている人間にはゴミ同然だ。
「ですが、生憎とこの近辺の買取屋は昨晩のチャルヴァートン氏と同類の人間が仕切っておりまして、いわゆるぼったくりが横行しているのです。どうせ他に売る所はないのだからと、安値を提示して無理やりに買い取る……だから、私が率先して買い取らせていただいているのです」
「君が提示する値段は良心的なものだと?」
ラストのそれは少々意地悪な質問にも思えたが、オーレリーは気にも留めなかった。
「そうですね。気になるようでしたらエルアさんに尋ねてみれば分かるかと思いますわ。確かな審美眼を持たなければ、領主の館の女中は務まりません。……今はともかく、という前置きがつきますけれど」
諦めを含んだ彼女の話し方に、ラストはすぐに頭を下げた。
「いや、分かったよ。ごめん、失礼だった。そこまで自信があるのなら、相場から大きく離れているわけじゃなさそうだ。……いや、むしろそれよりも多く積んでいたりするんじゃないかな?」
その推測に、オーレリーは図星を突かれたように右手を添えて口を隠した。
うまく悲しい話から彼女の意識の向く先を変えられたようで、ラストは内心で拳を握った。
「あら。よく分かりましたね。ええ、ちょっとだけですが、彼らには迷惑をかけてしまっていますから。その分、少しでも満足していただけたらと思っていました。それがお分かりになるなんて、もしかして宝石の鑑定にもお詳しいのですか?」
「いえ。芸術品の査定などは不勉強です。ただ、オーレリーさんのことだから、相手のことを慮ってちょっとした心づけをしているのではないかと推測しただけです」
正確には、ラストが分からないのは人類の貨幣の相場だった。
長らく魔族の領域の奥深くで金とは縁遠い暮らしをしていたものだから、物にどれだけの価値があるのかは分かっても、その価値に相当する具体的な金額が未だ掴めていない。
スピカ村でもついぞ貨幣を見ることはなく、この街へ来てようやく普通の人々の扱う金額の程度が掴めてきたところだった。それでは未だ、宝石の相場など分かるはずもない。
そちらよりも彼にとって分かりやすいのは、オーレリーの人間性だった。
領主の血を引いていることからの民衆に対する引け目と、強い責任感を持つ立派な女性。
それが稼ぎを目的として換金を行わないのはもちろんのこと、相場通りの対等な取引を行っているとは彼には思えなかった。
自分の血を理由に、自分の損得を考えるよりも相手が得をするように立ち回るのではないか――そんなラストの推理が見事当てはまっていた。
「ふふっ、見られていたのは私の方でしたか。それは今度から気をつけなければなりませんね」
口ではそう警戒を見せつつも、彼女はどこか嬉しそうに頬を緩ませていた。
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