第96話 ごきげんよう
――金庫の解錠とチャルヴァートンの誇る四騎士を同時に相手どるなど不可能だ。
そう言われたアルセーナは、ならば金庫そのものを中の財産ごといただくと宣言した。
その可憐な声が夜の高級街に響いた時、金庫の上のチャルヴァートンは馬鹿を見るような目をしながら笑った。
「ははっ、言うことに欠いて金庫ごと盗む、ですか! 面白い冗談ですね……ですが、そんなことが本当に出来ると思っているのですか?」
彼は両腕をばっと広げて、己の足元の金庫をとんとんと革靴の踵で叩く。
「大の大人が四人でようやく運べる重量のものを、その可憐な腕で運べると? それも我が四蛇騎士の猛攻を掻い潜って? いくら魔法が使えようと、これだけ目立つものを持って逃げ切れるわけがないでしょう! そのような夢物語は不可能ですよ!」
例え解錠を諦めたとしても、この場の状況はなにも変わらない。
目前の怪盗淑女がチャルヴァートンの両腕のおよそ三倍はあろうかという大きさの金庫を運ぶのを、みすみす彼の部下たちが指を咥えて見送るわけがないのだから。
それを態度で示すように、鎧を着た商会の騎士たちがずしんと音を立てて彼女に近づいて威圧をかける。
しかし、それを見ても彼女はドレスを纏う美貌に陰りがみられることはなかった。
「不可能だから諦めろと? それは違いますわ」
彼女は両手を重ねていた傘の先端で地面を軽く叩き、頭上で嗤う恐喝の紳士を見上げて気丈に微笑む。
「怪盗とは不可能を可能にしてこそ、そう呼ばれるのですわ。これまでも、そしてこれからも」
まったく折れる様子を見せないアルセーナに、チャルヴァートンはなにか嫌な予感が背筋を走ったようで、ならばと大きく腕を振り下ろした。
「っ、どこまでも口の達者な女ですね! いいでしょう、やっておしまいなさい! 我が屋敷の地下牢に繋がれた後でもそのような口を叩けるか、今から実に楽しみですね!」
「……」
視線以外の全てを覆い尽くす、重厚な鉄の兜を被った甲冑騎士が四人。
彼等は足並みを揃えて、無言のままにアルセーナへと歩み出す。
その手に握られているのはそれぞれ、大剣、戦斧、長弓、そして剛槍。
見るからに恐ろしい鋼の威容をたたえる彼らに、アルセーナはじりじりと後ろへ下がる。
だが、それがただの怯えによる後退ではないとラストは見ていた。
「距離の調節……位置を変えて、戦いやすい相手を引きずり出してるんだ」
下がるアルセーナと、前進する騎士。
その全体の状況は変わっていないように見えて、最初は槍を持った騎士が先頭に立っていたのが、いつの間にか戦斧を持った騎士を先頭とした陣形に移り変わっている。
それをどのように御するつもりかとラストが見守っていると、状況が動く。
彼女につられた戦斧騎士が外の騎士よりも一歩前へと踏み込んで、持っていた武器を構えてゆっくりと振りかぶり――俊敏な動きで振り下ろした。
――どがんっ!
全身鎧をものともしない素早い動きが、衝突と同時に屋敷の中庭の地面を捲り上がらせる。
しかし、そこにアルセーナの潰れた姿はなかった。
がちゃりと音を鳴らして騎士が頭を上げると、なんと振り下ろされた斧の上に無傷の女怪盗が立っていた。
「……!」
馬鹿にされている、そう察した騎士は斧を振り上げて上に立つアルセーナを落とそうとした。
それより早く、彼女はとんとん拍子に太い鉄の柄を駆けあがって騎士の肩へ、そして頭の立派な兜の上に降り立った。
「……?」
頭の上の怪盗を見上げようとする騎士に、アルセーナは一言。
「失礼しますね」
そのまま彼女は男の上を振り向こうとする力に合わせて、彼の頭を蹴って宙に跳んだ。
「なにっ!?」
ふわりと風に乗るように、彼女は残る三騎士を彼らと武を交えることなく飛び越えて、金庫の上で様子を見ていたチャルヴァートンのところへと降り立った。
「ごきげんよう、チャルヴァートンさん。これであとは貴方だけですわね」
百余人の男たちを超えてきたはずの、その身に纏うドレスには汚れの一つもない。
かつん、と傘の先端で固い金属の床を鳴らし、アルセーナが始めとなんら変わりない様子でチャルヴァートンを見据える。
その透き通った茶色の瞳を突きつけられた大商会の主は、とっさに懐から護身用の小刀を取り出した。
しかし、それを構える姿には精細さが欠けていた。残念なことに、頭は回っても武器を取り扱う才能には恵まれていなかったようだ――それもそのはず。彼の刃は舌に乗せて放つものであり、その腕はペンを持つのが精々なのだから。
「このっ、なにがあとは貴方だけだ、ですか! お前のような盗っ人に、私の築き上げた大切な財産を盗まれてなるものですかっ!」
「大切な財産、ですか。法と良識で許された領分を超えて吸い上げられた人々の血と涙の結晶が貴方のものだとは、誰も認めませんわ」
「うるさい! ここの領主さまが認めたことです! それをお前如きに邪魔されてなる者かっ!」
彼はナイフを手当たり次第に振り回し、取り乱しながら正面に立つアルセーナへと向けて突進する。
しかしその動きはあまりに杜撰で、彼女は闘牛士のようにひらりと身を躱すだけで良かった。
「なっ……うわあっ!」
勢いのままに足を踏み外したチャルヴァートンは、むき出しのままの地面に落下してしまった。
その高さは落ちても死なないほどだったが、落ちた際に足を捻ってしまったらしく、彼は足を抑えたまま立ち上がることが出来ない。
そして、その崩れ落ちた様子を金庫の淵に立ったアルセーナが見下ろす。
結局チャルヴァートンには彼女を引きずり下ろすことは叶わなかったのだと、明示するように。
「このっ、アルセーナぁぁぁっ!」
彼はせめてもの抵抗として拳を振り回すも、彼女には届かない。
「お前たちもなにをしている、早く金庫の上に登るのです!」
しかし、頼みの綱の騎士たちは顔を見合わせるばかりで困惑するばかりだ。
全身を覆う甲冑を着込んでいては、彼らの身長の二倍もあろうかという金庫の上に登ることは困難だ。
唯一手が届くのは、弓を持つ騎士だけだが――。
「風よ、ここに慈母の抱擁を。【
板金の一枚や二枚くらいなら容易く貫いて見せそうな強弓も、彼女の周囲に渦巻く風の護りを突破するには至らない。次々に放たれた矢のどれもが、アルセーナを自ら避けるようにして周囲に散っていく。
そうして彼等が手をこまねているのを確認してから、彼女はこの光景を見守っていた大衆へと向き直った。
「――それでは皆々様、お待たせいたしました。これよりこの【
彼女のその高らかな宣言に、観客はごくりと唾を飲み込みながら彼女の言葉に耳を傾ける。
「――三」
アルセーナが、再び傘で金庫の天井を叩く。
金属同士の奏でる軽やかな音が、闇夜に響いた。
「二」
白手袋をはめた細やかな腕が、天へと掲げられる。
その指の向かう先に、民衆も、私兵となった男たちも、チャルヴァートンたちでさえも目を惹かれてしまう。
「一」
彼女の可憐な唇が、小さく踊る。
「それでは、再び満月が輝く時まで――ごきげんよう」
彼女がそう別れを告げた途端、指がぱちんと鳴らされる。
その音が鳴ると同時に、辺り一帯がまばゆい光で満たされた。
「うっ、この光は――っ?」
壮大な目くらましを受けて、誰もが咄嗟に目を抑えざるを得なかった。
アルセーナの指を起点とした発光はおよそ五秒ほど続き、それから次第に収まっていく。
そして、彼らの視界がゆっくりと回復していく中で――チャルヴァートンの絶叫が響く。
「なっ、なっ――ないっ! 私の金庫がっ、私のお金がぁっ!」
ほんの数秒前までは確かに存在感を見せつけていた鉄製の大金庫は、彼らの前から忽然と姿を消していた。
それと同じくして、あれだけ目立つ姿をしていたアルセーナの姿もまたどこにも見当たらない。
わたわたと元の薄暗さを取り戻した周囲を見渡すチャルヴァートンの視線の先に、ひらりと一枚の紙が舞い落ちる。
それを拾い上げた彼が、まだわずかに眩んでいる目をこすりながら、そこに書かれていた達筆な文面を読み上げる。
「――貴方の欲望、確かにいただきました。【
その紙をくしゃりと握りしめ、チャルヴァートンは地面を叩く。
彼の本気で悔しがる様子を見て、大衆は今夜の劇がまたもや怪盗の勝利に終わったことに大歓声を上げた。
「あーっはっはっはっ! やっぱりアルセーナの勝ちだったな!」
「ミールズの野郎、散々他人を蹴落としてきたからな! いい気味だぜ!」
「なんであんな一瞬でいなくなれるんだ!? 本当に信じられないぜ!」
「そんなの決まってるでしょ、【
彼らは最高の劇を見終えた熱も冷めやらぬ中、互いに感想を言い合う。
そうして次第に怪盗がどこに行ったのかなどを好き勝手に考察し出す中、ラストは一人、誰もいないように見える高級街の一点へと目を向けていた。
「……思っていたより凄かったな、彼女は」
最後の秒読みといい、手を空へ向けて伸ばす動作といい、アルセーナの取った動作はどれもこれもがこれ見よがしな動作だった。
「だけど、そうやって聴衆やチャルヴァートンの意識をそこに吸い寄せていたから、最後の
ラストにとっての今夜の収穫は、とにかく【
彼女の技量は並のコソ泥のものではない。ラストがそれを察するには十分な時間だった。
――だからこそ。
「あれほどの技量を身につけたのなら、もっと他にやれることがあるんじゃないかな。それなのにどうして、彼女はあんな目立つ姿を演じているんだろう?」
アルセーナがあえて怪盗という仕事に従事している理由、それが彼は気になって仕方がなかった。
【
「……まあ、それもまた今度聞けばいいか。今日は金庫の解錠で忙しいだろうし」
ここでいくら妄想を膨らませても彼女の心は分からないと、最後にラストは中庭でうなだれるチャルヴァートンに目を寄せる。
彼を哀れそうに見下ろしながら去っていく私兵だった男たちには目もくれず、彼は四つん這いになったまま動かない。
「あれだけの金庫を持って逃げることは無理だって考えは、間違ってないよ。今もまだ、彼の財産は
今夜見せられたチャルヴァートンの人間性からは、それをあえて指摘してやる必要性をラストは感じなかった。
立ち上がった彼は平民街の方を向いて、ゆっくりと自分に与えられた寝床に戻るために歩き出す。
その瞳に映るのは、明日もまた盛況になるであろう
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