第95話 悪戯な風の罰
チャルヴァートンの雇った私兵の中に紛れ込んでいた、仲間殺しすら厭わぬ不穏な男。
独特の呼吸で身体を揺らしながら両手で短剣をくるくると弄ぶ彼に、アルセーナはその優美な表情を一瞬顰めてしまう。
しかし、彼女はすぐさま怪盗らしい挑戦的な笑顔を浮かべなおし、語り掛ける。
ただ暴力を責めるだけならば誰にでも出来る。
それでもここにいる彼女は怪盗なのだ。たとえ仕事の最中に予想外のことが発生しても、常に冷静かつ優美に乗り越えなくてはならない。
ラストも知っている物語上の怪盗の流儀に則って、アルセーナは嘯く。
「まさか貴方のような狂犬が紛れ込んでいるとは予想していませんでした。ですが、それでも私の予告は一文字たりとも変わりません。なにがあろうとも、私はそこのチャルヴァートンからお宝を盗ませていただきます」
「へェ、言うじゃないカ。それじゃ、その犬の牙を味わってみナァーっ!」
深く前に身体を傾け、まるで獣のような姿勢から狂犬呼ばわりを良しとした男が急速に肉薄する。
逆手に握られた左右の短剣が宙を切り裂き、ぎらりと女怪盗の喉元に迫る。
「申し訳ありませんが、それはお断りしますわ。人に牙剥く犬と戯れるほど、私は物好きではありませんので」
瞬時に閃いたアルセーナの日除け傘が、その誘いを拒むように男の双牙を正面から受け止めた。
飛び掛かるように襲い掛かった男の体重を受けても一向に圧し折れる気配を見せない傘とアルセーナの細腕を見て、男は嗤う。
「やるナ! その傘、鉛でも入ってるのかヨ!」
「お答えする理由はありますか? 怪盗とは謎と神秘を羽織る者であれ……暴かれこそすれど、自ら口を割るようなつまらないことはしませんよ」
そう言いながら、彼女は男の勢いに弾かれるようにして後ろへ跳び退る。
あえて金庫から距離をとった彼女に複数の怪訝な視線が寄せられるが、気の昂った仲間殺しの男は構うことなく、嬉々として駆け出した。
そうして、手短にまずは彼と怪盗の間にいた邪魔な競争相手を斬り伏せようと腕を振るい上げて――。
「ましてや、女性の秘密を暴きたてようとする無粋な殿方もつまらないもの。ちょっとした罰くらいはあってもよろしいでしょう?」
凶刃を振るおうとした男が、突然ずでんと転んでしまった。
あまりに情けないその倒れ方に、次なる獲物の悲劇を見届けそうになっていた他の男たちは驚きに目を丸くする。
そして、続いて彼らは狂犬の無様な倒れっぷりの理由を認識して、大きく声を上げて嗤った。
「ぶほっ! お前、マジか――マジかよこんなの!?」
「うっわえげつないぜあの女! ここまでやるかあ!?」
「くッ、なんダ、急に足になにかが絡まっテ――ア?」
嘲笑を受けて額に血管を浮かべながら立ち上がろうとした男が、思い通りに動かなかった己の下半身を見て唖然とする。
そこには、先ほどまできちんとしていた彼のズボンが半ば脱げかけの状態で両脚に引っ掛かっていたのだった。
そうして下着が丸出しになった男が、情けない醜態を晒した自分に顔を真っ赤にする。
「ふざけんナ! こんなので負けられるカッ!」
よくよく観察すれば、腰で縛るための紐が切れていた。劣化で千切れたとは思えないほどの綺麗な断面に、男は眼前の怪盗がなにかしらしたのだろうと推測し激昂する。
そこにはもはや先ほどまでの不気味さは残っておらず、アルセーナは帽子の下で失笑する。
「あら、どうやら狂犬というのも見せかけだったようですね。ええ、下着を見られた程度で恥ずかしがるなんて、可愛いワンちゃん。骨を追いかけているくらいがちょうど良いのではないかと思いますわ」
「っ、クソが! この程度でオレっちが止まるなんて思うなヨ!」
こうなればもはや構うものかと、男は急いで邪魔になったズボンを脱ぎ捨てようとする。
だが、それより先にアルセーナが彼の凶行を封じるための魔法の詠唱を紡ぐ。
「風よ、気まぐれに摂理の天秤を傾けよ。妖しき魔精がさかしまに嗤う。【
彼女が傘の先端を男に差し向けながら、謳い上げる。
しかし、そこからは風の弾丸も刃も打ち出される気配がない。
「けッ、そんなのでどうしようってんダ――あ、グゥッ……ッ、アッ……がっ、グウゥゥゥ……」
初めは余裕ぶっていた男だが、次の瞬間に彼は白目をむいてその場に倒れてしまった。
そうして男はぴくぴくと身体を痙攣させながら、チャルヴァートンの中庭の地面に接吻して起き上がらない。
「なっ、なにをしたというのですか!? 攻撃もなにもしていないというのに、急に倒れるなんて――そんな馬鹿なっ!」
「少しばかり躾が足りないようでしたので、意識を奪わせていただきました。安心してくださいな、彼は死んではいませんよ。ただ、目を覚ますのは全てが終わった頃になるでしょうけれど」
信じられない光景に慌てふためくチャルヴァートンに、アルセーナが向き直る。
再び距離を詰めるために歩き出した彼女をよそに、遠くから見守っていたラストはたった今使われた術式の内容を分析していた。
「……大気の組成率を変化させる魔法、かな。無味無臭にして不可視の魔法、そんなものを見せつけられたら普通はなにが起きたのか分からないよね」
人間が当たり前のように呼吸で吸い込んでいる空気は、そこに含まれる物質の比率が多少変化するだけで猛毒と化してしまう。
アルセーナはその比率を魔法で操作して、男に毒となった空気を取り込ませ身体を麻痺させたのだった。
だが、それを知る由もない魔力のない男たちは、一様に腰が引けているようだ。
そんな中で、彼女は次に先ほどの気狂い男に傷つけられた者へと手を伸ばした。
「さて、怪盗は人は殺さないとも申します。私が直接手をかけたわけではありませんが、盗みの間に関わった誰かが死ぬというのも気が引けますからね。――女神よ、安らぎの御手で我が敵を癒したまえ。【
そうして彼女が手を翳した先では、先ほど無惨に切り裂かれた男性の裂傷がゆっくりと塞がっていく。
「……なんだこれ、暖かい……? かあ、さん……?」
「私は怪盗、貴方のお母さまではありませんわ。傷は塞がったとはいえ、急な回復は体力を消耗しますから幻覚でも見られたのではないでしょうか。これ以上変なことを言いたくないのなら、そこで静かに休んでいるのが良いですよ」
「お、おぅ……すまないな、【
そのアルセーナのなんの躊躇いもない優しい手つきに、チャルヴァートンの私兵たちは手を出せなくなってしまう。
自分たちに殺し合いすら奨励するような雇い主と、敵にすら救いの手を差し伸べる怪盗。
元々大金に目がくらんで参加するほど欲に素直だった彼らがどちらに味方したいと思うかは、明白だった。
今夜のために雇われた私兵たちは、怪盗の前に鮮やかに道を開けた――まるで、その心を盗まれてしまったかのような忠実さで。
その光景に、金庫の上で見下ろしていたチャルヴァートンが頬の弛んだ肉を揺らしながら肩をいからせる。
「なっ、お前たちなにをしているのですか! これは明らかな契約違反ですよ! 怪盗を捕まえないというのなら、後でたっぷりと賠償金を――」
「契約、金。――そのような安っぽい響きの言葉で、怪盗の歩みを止められるとでも思っているのですか? チャルヴァートン、だとしたら貴方は心底哀れな男ですね。金儲けの才の代わりに、人として大切なことを母親のお腹の中に忘れてきてしまったみたいに」
そう言って、彼女はついに今宵の獲物であるチャルヴァートンの用意した大金庫の前に立った。
しかし、その前には未だ彼の用意している難関な壁が立ち塞がっている。
がちゃんがちゃんと鎧を鳴らして立つ、四人の分厚い筋肉で身体を覆った男たち。そこには騎士の徽章である白刃白梅の代わりに、チャルヴァートン商会の証である羽ペンに巻き付いた毒蛇の紋章が刻まれている。
「ふん、お説教などうんざりです! この役立たずのウスノロどもめ、そこで指を咥えてみているが良い! 貴様らが本来得るはずだった栄誉を、私の真なる部下たちが手に入れるさまをな! やれお前たち、我が商会の名に懸けてそこの女に痛い目を見せてやるのです!」
チャルヴァートンの生粋の部下たちが、各々の武器を掲げて金庫を守るように聳え立つ。
「それだけではありませんよ! この特注の金庫は、百万通りの数字の組み合わせの中からたった一つの正しい数字を選ばなければ開かない! それを調べながら、我が自慢の彼らを相手取ることが出来ますか? 先ほどのような不可思議な魔法を唱える余裕なんて、彼らは決して与えません!」
そう勝ち誇るように高笑いするチャルヴァートンに、アルセーナはくすりと笑う。
「確かに、貴方の言うことは間違っていませんわ。いくら私でもこの場で金庫を開けることは叶わないでしょう」
「ふははっ、そうでしょうねぇ! なんですか、負け惜しみですか! 良いでしょう、それくらいならば聞いて差し上げましょう!」
揺るぎない勝利への自信に、チャルヴァートンは口の端を限界まで開いて、商会の証にある蛇のような顔で笑い続ける。
それを見上げるアルセーナもまた、その笑みを陰らせることなく大胆不敵に宣言する。
「いいえ。私の予告は揺るぎません。開けられないのならばいっそのこと、この金庫ごと盗ませていただきますわ」
――と。
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