第94話 怪盗は独り舞う


 月光に照らされた【怪盗淑女ファントレス】の姿に、この舞台に誘われた誰もが目を奪われていた。

 彼女の勇姿を期待していた観客たちも、彼女を仕留めるべく招集された猟犬たちも、誰もが頭上のアルセーナに目を凝らす。

 髪と同色の光沢のある深緑のドレスは、まるで夜会に向かう貴婦人のような出で立ちだ。そこに焦茶色のリボンが巻かれた小さなつば付き帽子を傾けて被り、同じく渋い茶色の細身な傘の持ち手に白手袋をはめた右手を乗せている。

 そして、その中に輝く赤みの混じった金色の両眼が、穏やかに今宵の獲物の姿を見下ろしている。

 その淑女然とした姿に、半裸に鎧といった装いの下卑たチャルヴァートンの私兵たちですら思わず見とれて――演説を遮られた怒りからか、真っ先に意識を取り戻した彼らの主が叱責を飛ばした。


「なにをしている、お前たち! 弓に覚えのある者は射かけろ、そうでなくとも石を投げるくらいは出来るでしょう! 早くあの女を引きずり落とすのです!」

「お、おおっ! 分かってるぜ旦那!」


 その声を聞いて、腕に自信のある男たちがおもむろに動き出す。

 弓や投石器といった遠距離の攻撃手段を持つ者は速やかに狙いを定め、そうでない者は握っていた剣や槍を置いてなにか投げられるものはないかと近くに目を走らせる。大商会を動かす男がただの野蛮な人間を雇うわけもなく、彼らはすぐに意識を切り換えた。

 だが、アルセーナは一手遅れた彼らの先手を取って、更なる驚きの行動に出る。


「ふふっ。お望みとあらば、こちらから降りてさしあげますわ」


 彼女はその言葉と共に、自ら足を踏み外して屋敷の屋上から身を投げうった。

 チャルヴァートンの屋敷は三階建てで、その一番上から落下すれば人間の身体など容易く潰れてしまうことは感嘆に想像できる。

 それを軽く成してみせたアルセーナの死を恐れないかのような所業に、私兵たちの間にどよめきが広がる。


「うおっ、正気かよあの女!?」

「あんなのここにいる誰だって死んじまうぞ!」

「愚か者、あれはあの程度では死にません! 屋上から飛び降り、誰も追いかけられたいのを良いことに悠々と逃げおおせるのはあの怪盗の常套手段でしょうが! そんなことも知らないのですか、狼狽えている暇があったら早く攻撃しなさい!」


 突然の落下に狙いを外された男たちが口々に騒ぐ中、チャルヴァートンが思い通りに動かない彼らへの怒りに座っていた金庫を叩く。

 どうやら男たちは都市の外から集められていたのか、それとも単にこれまで興味がなかっただけなのか。アルセーナの盗み方もろくに頭に入れていなかったようで、唖然とするばかりだ。

 彼らが手を出さないでいる中で、アルセーナの身体はどんどん地面へと近づいていく。

 幾人かが彼女の無惨な終わりを想像して顔を背けるが、他の私兵たちは女怪盗が地面へ向けて手を翳しているのを見た。


「風よ、ここに慈母の抱擁を。【風花聖楯ヴェン・マリアイギス】」


 短文の詠唱から瞬時に展開された魔法陣から、力強くも緩やかな風の防護膜が生み出されるのをラストは視認した。

 それが地面とアルセーナの間に挟まって、彼女の身体を母の差し出した両手のように優しく受け止める。

 そして、その着地と同時に拡散するように散っていった衝撃が中庭の地面を軽く吹き飛ばし、彼女の落下地点が土埃に覆われてしまった。


「……これも、彼女の考えていたことなのかな?」


 役割を終えた魔法の風は、本来ならば意味もなく散っていくだけだ。しかし、その生み出された余波が土埃を本来よりも長く空中に留まらせている。それが、アルセーナの次の手を覆い隠す暗幕と化している。

 本来の仕事を終えた後の魔法の残滓も使いこなしたかに見えた彼女の技術に関心を抱きながら、ラストは続きを観察する。


「くそっ、見えませんぜ!」

「構いません! 撃つのです、撃って撃って撃ちまくりなさい! せっかく揃えた百人の私兵、狙いを定めずともこれだけいればある程度は命中します!」


 今一狙いを定め切れず攻撃を躊躇う私兵たちに、チャルヴァートンが苛立たし気に指示を飛ばす。

 驚かされるのも二度続けば慣れるもので、彼らは先ほどよりも素早く動き出す。

 しかし、それを読んでいたかのように土埃の中からすぐさま影が飛び出した。

 その正体は言うまでもなく、アルセーナである。


「ええ、貴方様の言う通りですわ。ですので、このようにさせていただきますね」


 服装に見合った踵の高い靴を履いているとは思えないほどの軽やかな動きで、彼女は迷うことなく正面からチャルヴァートンの仕掛けに飛び込んだ。

 すなわち、自分を狙う飢えた男たちの群れにその身を躍らせたのである。


「っ、このっ!」


 まさかとは思いながらも、男たちはこの時点でアルセーナの奇行をある程度学習できていたが故に、反射的に自分たちの武器を構えようとした。

 しかし手にしているのはどれも遠距離攻撃用のものであり、接近戦を行うための得物は地面に放り出されたままだ。

 それらを男たちが拾い直すよりも早く、アルセーナは先頭にいた男たちの間をすり抜けていった。武器が持ち変えられるまでの猶予を最大限に活かし、彼女はチャルヴァートンの用意していた分厚い私兵の壁の四分の一をそれだけで乗り越えてしまった。

 しかし百人の壁は分厚いもので、彼女が先頭の男たちを超えるまでの間に中ごろから後方にかけての男たちは武器の変更を終わらせていた。

 ここからが本領発揮だと、男たちはそれぞれ独特の威圧感を放つ構えを取る。

 

「へっ、ここまでこればこっちのもんだ。散々驚かされたが、女だろうと手加減はなしだぜ? その綺麗な顔が傷ついたって文句言うなよ!」

「御忠告痛み入りますわ。ですが、それは杞憂というもの。だって、そのようなことは起こりませんもの」

「生意気言うのもそこまでに――うおっ!?」


 手柄は自分のものだと剣を振りあげた一番手の男が、不意に姿勢を崩して前方へとつんのめった。

 それと同時に男の前に足を踏み出したアルセーナが、男の肩に絹手袋をはめた手を乗せた。そし、そのまま彼女は身体をくるりと縦に一回転させる。

 まるで曲芸師のような可憐な動きで、怪盗は障害の一つを軽々と乗り越えた。


「それでは次の方、どうぞ」

「っ、まぐれはそう続かないってことを教えてやる!」


 二人目は槍の扱いに自信があるようで、背丈とほぼ同程度の長槍を見せつけるように音を立てて回転させながら彼女へと迫る。


「あら、恐ろしいこと」

「越えられるならば越えてみろ、我が槍はあらゆるものを貫く必殺の角なり!」

「そうですか。それならば、私は貴方の手の届かないところに逃げさせていただきますね」


 鋭い声で武人のように戦いを申し込んだ相手に対し、アルセーナはあっさりと身を引いて別の方向へ走り出す。

 その潔い動きに、男は呆気にとられてしまった。


「なにっ!? 逃げる気かっ!」

「逃げるも何も、貴方と戦うなんてことはどうでもよろしいので。ごめんあそばせ」


 そういって彼女は、だらしなく頬を緩ませながら、槍使いとの戦いの最中に淑女の秘密に包まれた場所を覗き見ようと企んでいた男の下へ近づく。


「うおわっ!?」


 不意を突かれた男は反応が鈍く、咄嗟に握っていた剣を適当に振ってしまう。その甘い狙いを彼女は余裕をもって回避し、ドレス姿とは思えない軽やかな身体捌きで私兵の横を駆け抜けていく。

 そうして宙に舞う羽根のように、アルセーナは男たちの間を抜けて着々とチャルヴァートンの金庫との距離を詰めていく。


「待て――どけっ!」

「この、邪魔するな槍野郎!」


 槍使いの男は慌てて彼女を追い掛けようとするが、その得物の長さ故に周囲の人間が邪魔でうまく追いかけられない。

 私兵たちも仲間を切りつけることは躊躇ってしまうようで、数々の人間を盾がわりに突き進む彼女に見事に多対一を逆手に取られてしまっていた。

 屈強な男たちが追いつくことの出来ない【怪盗淑女ファントレス】の独壇場に、観衆たちが沸く。


「おおっ、見ろよ! チャルヴァートンの野郎の私兵がまるで役に立ってないぞ!」

「アルセーナさまの盗みを邪魔しようとしたって無駄なんだから! 【怪盗淑女ファントレス】さまー! 頑張ってー!」


 人々の歓声を受けた彼女が一瞬だけ顔を彼らに向けて、帽子の隙間から小さく微笑む。

 それを受けた観衆は更に沸き立つが、そのアルセーナの見せた余裕にチャルヴァートンの心は荒波が立つばかりだ。


「お前たち、なにをしているのですか!」

「すみません、しかし仲間が邪魔で――」

「なにを悠長なことを言っているのですか! 仲間ですって!? そんなものはないのですよ! いいですか、怪盗を捕まえた栄誉を得られるのはこの場においてたった一人だけ! 捕まえられなかった者には当然褒賞など与えられませんよ! 手柄を譲りたくないのなら、他人に構うことなくやればいいではありませんか!」


 隣の人間を踏み台にしても栄誉をもぎ取れ、そう告げたチャルヴァートンの言葉に私兵たちは一瞬顔を見合わせる。だが、すぐに彼らはぎらついた目を先ほどまで仲間だと思っていた者たちへと向けた。

 彼らはチャルヴァートンが金で寄せ集めた、元は互いの顔など知らない者たちばかりだ。

 蹴り落としていいのならば、それに躊躇する理由はなかった。


「――雇い主からのお墨付きがでたってんなら構わないナ? へっへ、悪いがそこ、退いてくれヨ?」

「ぎゃあっ!?」


 さっそく、鈍い悲鳴が木霊した。

 その声の主はアルセーナではなく、チャルヴァートンの用意した私兵の一人だ。

 崩れ落ちるその背中から姿を現した一人の男が、亡霊のような動きで彼女を見据える。

 その両手に握られた短剣には、新鮮な血が滴っていた。


「……正気ですか? まさか、このような者まで呼び寄せるとは」


 思わず問いかけたアルセーナに、答えの代わりに男はにたりと薄気味悪い笑みを浮かべた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る