第93話 満月の夜に
欠けていた月が、長い時間をかけて再びその顔を完璧に輝かせた夜。
その静かな明かりが注がれるヴェルジネアの夜景を眼下に置きながら、ラストは生温い風に身体を晒して、とある建物の屋上に腰掛けていた。
「なんだ、こうして見ると綺麗な街じゃないか。月が人々の安らぎに微笑みを見せる、だっけ。オーレリー、君の愛している街はきちんと僕の目に映っているよ」
金儲けに精を出さなければならない人々の醸し出す張り詰めた空気が消えた夜のヴェルジネアは、蓄積した歴史の風格が浮き彫りとなっていて実に見応えがあった。月が照らし出す神秘的な光の面と、この街の積み重ねた歴史の影の面が対比となっていて、単純ながらも見る者の心に水面を打ったような静けさをもたらす風景だ。
願わくば、そこに街の人々の笑顔が色を付けた、より素晴らしい光景が見られるように――そう、ここに至るまでに人々の努力に敬意と祈りを捧げながら、彼は静寂に満ちたヴェルジネアの平民街とは真逆の方面にある高級街に身体を反転させた。
「それで、こっちが彼女の憂う街の闇か。いやあ、確かにこっちは荒々しいというか、歴史もへったくれもないような光景だけれども」
静まり返った穏やかな平民街と比べて、街の財が一手に集中している高級街は今や侃々諤々としている。
至る所に掲げられた松明によって不躾に闇を消し去られた街は、噂の怪盗の姿を一目見ようと押しかけた民衆に埋め尽くされていた。
「おい、アルセーナはいつ出てくるんだ!? まだなのか!?」
「いやあ、一度はあのえらい美人さんを抱いてみたいもんだ。ま、無理だろうがな! その代わりに今度こそじっくりと眺めてやるぜ!」
「ちょっと、【
怪盗に対してまったく異なる考えを持つ者たちが大挙する様子は実に暑苦しそうだ。
それでも、誰もが少なくない期待を寄せて今日の獲物となる富豪の屋敷を見据えている。その根底となる正の雰囲気が共有されているからこそ、彼の足元の騒ぎは暴動ではなくお祭り程度で済んでいるのだ。
「それでも昼間の空気に比べれば、だいぶ良い感じなのは間違いないかな」
そう、ラストは視界の下に広がる人々を見ながら気楽そうに苦笑する。
今夜の【
周囲に並び立つのはどれもこれもが白く塗装された立派な建物で、彼が働いている煉瓦の土色がむき出しとなった区域のものとは比べ物にならない。
「人々を熱狂の渦に誘う女性怪盗か。もともと圧迫されて不満を溜め込んでいたことへの反動もあるだろうけど、それでもここまで魅了できるのは素直に尊敬すべきだね。いったいどれほどのものか、後学のためにも拝見させてもらうよ」
そう言って、彼は傍に置いていた籠からビスケットを取り出して軽く頬張った。
あまりに悠々とし過ぎている彼の姿は、この屋敷の人間に見つかれば大変なことになると予測がつく――もっとも、その心配は無用だった。
彼が見物場所に選んだ屋敷の住人たちは、ほんの一月ほど前に謎の失踪を遂げたばかりなのだから。
そして、その失踪に一枚どころか二枚も三枚も噛んでいると噂されるのが、今日怪盗が予告状を送りつけた家の主。
彼の腰掛ける屋敷の正面に立つ、きんきらきんの大屋敷に住まうチャルヴァートン氏だ。
「確かに、今日の狙いはあの屋敷で間違いないみたいだ。警備の人間らしき影が慌ただしく動いてるしね」
魔力を宿した瞳で屋敷の人間たちの魂を覗き見しながら、ラストは事前に仕入れていた情報を復習する。
ミールズ・チャルヴァートン。近年この街で急成長を遂げているチャルヴァートン商会の会頭だ。
食糧から服飾品、工芸品から遊戯道具まで手広く扱って儲けを出す大商会。それを支えているのが、商会の主であるチャルヴァートンの類稀なる才覚によるものだと評されている。
ただしそれは表向きの話で、彼の名声の裏には常に後ろ暗い話も付き纏う。恐喝と賄賂、暴力と甘言を駆使して、自身の意に逆らうものをあの手この手で零落させる冷徹な怪物。事実として、彼に敵対する素振りを見せたもののほとんどが不審死や謎の失踪を遂げている。
その事実に補強された噂話が、人々にチャルヴァートン商会に対する敵意を抱かせ――そして、期待するのだ。
人を蹴落としてきた人間が蹴落とされる側に回る、【
「――皆さん、準備は出来ているのでしょうね!」
むろん、それを易々と受け入れるようなチャルヴァートンではない。
「あれが、噂の……」
公園ほどもあろうかという広い前庭に出てきた、背の小さな丸顔の男性が声を張り上げた。
髭はなく、金縁の眼鏡をかけ、油の目立つ灰色の髪を後ろに流している。それはラストが聞いていたミールズ・チャルヴァートン氏の特徴だった。
彼は周囲の護衛らしき屈強な男たちに、一つの巨大な金庫を中庭の中央へとえっちらおっちら運ばせていた。
そして、その周囲を更に、彼が雇った私兵らしき武装した男たちが取り囲むようにひしめいている。
チャルヴァートンはやがて重い音を立てて下ろされた金庫の上に部下の手を借りて陣取り、拳を振り上げて叫ぶ。
「良いですか、今日こそがあの怪盗の命日となるのです! 以前は屋敷の奥にしまい込んでいたことを逆手に取られ、狭い内部で搔き乱された挙句逃げられましたが――今日は違います! 三百六十五度、どこを見渡しても障害となるものはなにもありません! この場でなら、あなた方も好きなだけ暴れられるでしょう!」
――うおおおおおおおおおおおーっ!
主の挑戦的な問いかけに、それを取り巻く荒くれ者たちが声を張り上げて各々の武器を掲げる。
それを見渡しながら、彼は僅かに赤みのさした頬で満足げに頷いた。
「よろしい。あの謎に包まれた怪盗の素顔を暴き、私の足元に這いつくばらせたものには金貨一万枚の褒賞をくれてやりましょう! 更には、私からこの街の領主であるヴェルジネア様へ上級騎士へなれるように推薦し、生かして捕まえたのならばその身体を一晩自由にしても良い!」
「おおーっ! 太っ腹だぜチャルヴァートンさまよ!」
「もちろん、商人とは素晴らしき成果を出したものには相応の報酬を与えるものですからね。――さあ、その力を振りかざすことを躊躇うな! あのすかした怪盗とやらに一泡吹かせてやりたいのなら、死ぬ気で捕まえてみせるのですよ!」
――おおおおおおおおおおおおおおおおーっ!
再び巻き起こる私兵たちの叫びに、金庫の上でチャルヴァートンがふんぞり返る。
その唇が小さく動いたのを、ラストは見逃さなかった。
「――名誉、金、性欲。おつむの弱い人間を操るなど、獣を躾けるよりもよほど簡単なものだ」
それが、チャルヴァートンの本心なのだろう。
声にしていない彼の心の言葉を、ラストは確かに読み取った。
「さあ、そろそろ姿を現す頃合いでしょう! 探すのです! なんとしてでもその首根っこを捕まえて晒し上げ、以前私にかかせた恥を倍以上にして返して――」
「あら。熱烈なお誘い感謝しますわ、ミールズ・チャルヴァートンさん」
そうして気分を高揚させるチャルヴァートンの下に、言葉とは裏腹に冷たい響きを伴った声が木霊する。
それを受けて、彼だけでなく周囲にたむろっていた私兵たち、そして状況を楽しんでいた民衆たちさえも静まり返った。
彼らは一様に、声の源へと目を向ける。
声の主がいつのまにか姿を現していたのは、あろうことか、チャルヴァートンの屋敷の頂点だった。
月明かりを背景に彼らを見下ろすその姿は、まさに淑女と呼ばれるに相応しい品が感じられた。
「ですが、もう少し紳士的なものにしてくださらないと。お金ばかりにかまけて他のものを軽んじているようでは、自ら破滅を招くことになりますわ。そう、かのミーダス王のように」
彼女は嗜めるような口ぶりでチャルヴァートンを見据えながら、身に纏った夜会用ドレスの裾を摘まんで会釈する。
「申し遅れました。改めて、私は【
そうして余裕を見せる怪盗アルセーナに、ラストは彼女の一挙一動を見逃さないよう瞳に魔力をしっかりと漲らせるのだった。
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