第92話 怪盗淑女


 店主である老爺シュルマの言葉を聞いて、ラストは記憶の糸を手繰り寄せる。

 先の【月の憂雫ルナ・テイア】とは異なり、その単語は彼も知っているものだった。


「怪盗、ですか。それくらいなら知っています……ただし、娯楽小説の中の存在として、ですけれど。それがこの街には実在していると?」


 神出鬼没にして変幻自在。あらゆる者に正体を掴ませず、奇跡のような手法を駆使して如何なる場所からも鮮やかに宝物を盗み出す怪傑の盗人。

 見る者の心すら盗むと言われるその職業は、彼にとってはあくまでも空想上の産物に過ぎなかった。

 しかし、老爺はラストの疑いに力強く頷く。


「その通りじゃ。毎月、満月の晩にのみ現れる盗人での。税をたっぷりとせしめる領主や後ろ暗い噂の多い大商会なんかに侵入しては、荒事を起こすことなく鮮やかにその財を盗み出していく」

「荒事を起こさない……見つからない、というのとは違うんですよね?」

「その通りじゃ。怪盗は毎度、噂を聞きつけた観客の前に姿を晒しておる。しかし……なんと言ったらいいか……むむむ」


 うまく言葉に出来ずもどかしそうに唸る老爺の代わりに、傍で食後の紅茶を嗜んでいたオーレリーが口を開く。


「怪盗は暴力を用いてはならない――決して野蛮な手段に訴えることなく、追手である騎士たちを翻弄するのです。怪盗が自ら反撃するのは、それ以外に手段がない場合のみ。逃げられるのならば、会場となった屋敷からは優雅に立ち去ってしまいます」

「ああ、そうじゃよ。オーレリーさまの言う通りじゃ。力で押し通すような見苦しい強盗ではなく、その技術に誰もが見惚れてしまうような奇術師、とでも言えば良いのかの?」


 二人の説明に、ラストは頷く。

 彼らの言葉から語られるこのヴェルジネアの怪盗は、彼の知る怪盗の概念から外れていない。

 どうやら、本当に物語からそのまま飛び出してきたような怪人が活躍しているようだ。


「怪盗は暴力を用いてはならない、か。どこかで聞いたような……ああ、ルブリスの十訓だったかな。怪盗を物語る上で欠かせない十の約定の一つだよね」

「あら? よくご存じですね。ルブリスの著書はかつてあったという【人魔大戦デストラクト】にて多くが消失してしまったのですが。騎士法をお知りになられていることといい、本当にあなたのことが気になってしまいますわ」


 きろりと己を見つめる翠の少女の目に、ラストは自身の迂闊さを呪う。

 彼がルブリスの十訓というものを知ったのは、エスの屋敷での話だ。彼女はかつての人と魔族との大戦直後から引き篭もっていたのだから、そこに蓄えられていた情報も現代では非常に貴重なものになっていることは想像に難くないはずだった。

 しかし、その出所を問われても正直に答えることなんてできやしない。


「……前に旅の途中で立ち寄った、名前も忘れてしまった村に置いてあった本の中に書かれていたってだけさ。偶然目にしたことがあるってだけで、大したことじゃないよ」

「そうなのですか? もしや貴重な大戦時から残る遺本の一つでは……あの、よろしければその村のことをなんでもいいので教えてくださいませんか?」

「ごめん、もうほとんど忘れちゃったよ。どの辺りだったかもうろ覚えなんだ。ごめん、オーレリーさん」


 嘘をついたことも含めて謝罪するラストに、彼女はとんでもないと首を振った。


「覚えておられないのでしたら、無理にとは言いませんわ。ですが、いつか思い出していただけたら……」

「うん、分かったよ。頑張って思い出せるようにするさ」


 いくら頑張ろうが存在しない記憶を思い出せるはずもなく、ラストはそう言って前向きに誤魔化すのだった。


「もう良いかの? ……ともかく、それ以外にも普通の泥棒と聞いて想像するような者たちとは明確に異なることが数多くあるのじゃよ。例えばそう、盗んだ物を自らの懐に溜め込むことなく、恵まれない民衆に分け与えることなどがあたるのう。これが俗に、【月の憂雫ルナ・テイア】と呼ばれておるんじゃ」

「せっかく手に入れたものを惜しげもなくばらまくというんですか?」

「うむ。重い税ばかりで今日の食事もままならぬ者や、商いで騙されて路頭に迷うことになった者。そういった貧しい人々が満月の次の日に枕もとを見れば、お金か宝石が置かれておるんじゃ。怪盗がろくでもない奴らの屋敷から盗んだものがな。満月が人々の貧困を憂いて流した涙――ゆえに、【月の憂雫ルナ・テイア】というらしい。それが無ければ生きていられなかったと、感謝する声もよく聞くわい」

「なるほど……それはまた、皮肉ですね。奪う騎士が蔓延る街で、施す盗人が感謝されるというのは」

「そうじゃな。確かに、今はもう人々を守る騎士は誰もおらんようになってしまった。だからこそ、かの。今では誉れ高き騎士よりも、罪人であるはずの怪盗の方を擁護する声も多い」

「お話を聞いている限りだと、それも当然だと思いますけどね」

「ラスト君の言う通りじゃ。これも愚かな政策をとった者の自業自得じゃよ。理不尽に奪い取られた金を、怪盗こそが民衆へ取り返してくれている……こちらの方がよほど自分たちを守ってくれているのではないか、そう誉めそやす者も多い。表立っては言えんから、あくまでもこっそりとじゃがな」


 そうヴェルジネアの人々の怪盗に対する評価を締めくくって、老爺はやれやれと肩を竦める。

 その身振りからは、素直に怪盗を支持しているといった様子は窺えなかった。


「……お爺さんは、怪盗のことをどう思っていらっしゃるんですか?」


 だからこそ、ラストは彼に直接怪盗についてどう思っているのかを尋ねた。

 オーレリーも気になったのか、彼女が口に運ぼうとしていたカップが宙に停止する。

 老爺は悩まし気に首を捻った後、小さくため息を吐いてから自分の考えを二人に伝えた。


「さて、のう。怪盗が何を考えて行動しているのかは、儂には分からんからな。さっき言ったように感謝を捧げる者もいれば、ただ民衆に媚びを売って承認されたいだけだとけなす者もおる。それを否定する事も出来ん。正しいことをしているように見えても、法を破っている以上罪人であることは間違いないのじゃしな。……誰もがそれが正しいからと好き勝手にやっては、それこそこの世のおしまいじゃろうと儂は思う。だからこそ、簡単に怪盗を称賛することはできんよ」

「では、シュルマは怪盗の存在に否定的なのですか?」


 オーレリーが、恐る恐ると言った体で確かめようとする。

 彼女も領主の一族に属していることに複雑な思いを抱いている者として、怪盗の存在には小さくない関心を抱いているようだ。


「本来ならば、そうすべきなのでしょうな。しかし、ですぞ。それに救われている、救われるべき者たちがおるということは確かなのですじゃ。本来ならば領主が担うべき役割を怪盗が担っておるのだ――故に、儂には彼女・・が正しいのか間違っているのか、簡単に判断を下すことは出来んよ」

「……そうですか」


 彼女は明らかにほっとした様子で、冷めつつある紅茶に再び口をつける。

 どうやらオーレリーは怪盗の存在に肯定的であるようだと考えながら、ラストは老爺の意見に賛成する。


「……慎重なご意見、ありがとうございます。僕も、ひとまず実際にその怪盗を見るまで判断は保留ですね。今の話によると、怪盗の働きぶりを観ることは出来るんですよね?」

「怪盗は盗みを働く前に、必ず予告状を送ると言われておる。満月が近づけば自然と、送られた側は警備を厳重にするからの。たまに外れることもあるがな」

「どうしても見たいのでしたら、私の方からお伝えしますわ。一番被害が多いのが我がヴェルジネア家ということもあってか、父や家族は並々ならぬ怒りを抱いておられますし。自然と怪盗の予告状についても耳に入ってきますから。」

「本当かい? 助かるよ、ありがとう。それじゃ、次の機会にはぜひ観察させてもらいます」

「ええ、お待ちしておりますわ」


 怪盗についての話がひと段落したところで、ラストはふと老爺の言っていた怪盗の呼称について問う。


「……ところで、先ほど彼女と呼んでおられましたが。怪盗の正体は女性なんですか?」

「そうじゃよ。【怪盗淑女ファントレス】アルセーナ、それが怪盗の呼び名として知られておる」

「【怪盗淑女ファントレス】とは、これまた随分と洒落た名前ですね。いったい誰がそう呼び始めたんですか?」

「うむっ、誰が呼び始めたか? そればかりは儂も知らんの……婆さんや、そっちは知らんか?」

「いいえ。私も知りませんわ」


 揃って首を振る老夫婦を横目に、三杯目の紅茶を飲み切ったオーレリーが答える。


「そのことなら、アルセーナの初舞台の夜にちょうど父が王都で有名な吟遊詩人を呼び寄せていたのです。彼女の鮮やかな盗みっぷりを見て感激した彼が、思わずその場で命名してしまったんですよ。もっとも、後で怒り狂った父に屋敷から叩き出されていましたけど。そのように狭量だから、金が足りなければ税を重ねればよいなどという短絡な思考しか出来ないんですわ、まったく……」


 そう言いながら、オーレリーは蜂蜜をたっぷりと入れた四杯目の紅茶を貴族の淑女らしき滑らかな動作で持ち上げ、ぐいと一息に飲み干すのだった。

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