第91話 月の憂雫


 ラストの手に導かれて、食堂【デーツィロス】に足を運んだオーレリー。

 その姿をちょうど厨房から顔を出していた老爺が目にして、彼は驚きに目を見開いた。


「おや、オーレリー様ではありませんか。これは珍しいお客もあったものですじゃ」

「お久しぶりです、シュルマさん」


 丁寧に頭を下げた彼女に、老爺は朗らかに笑いながら歩み寄る。


「ほっほ、見る度に貴女様のおばあさまに似てきておられて、美しくなられておりますな」

「ありがとうございます。そう言われると、孫娘として嬉しい限りです」

「はいはい、甘やかすのもいい加減になさいませ。良いですか、あなた。早くお嬢様に自慢の料理を出してさしあげなさいな。オーレリー様ときたら、またもやお食事もせずに出歩いておられたのです」


 その老妻の言葉に、シュルマは好々爺とした笑みを一瞬のうちに引っ込めた。


「なんと、食事も取らずに人助けを? それは料理人に対する挑戦状と受け取ってよろしいでしょうな?」

「いえ、そんなつもりはないのですが……ただ、このところ忙しかったもので」

「忙しいからと軽んじられては料理人の名折れですじゃ! 任せておくれ婆さんや、夜のために育てておいたとっておきの肉を出してさしあげましょうぞ!」

「あ、シュルマさん、待ってくださいな――」

「まあまあ。オーレリーさんは気にせずこちらへどうぞ」

「ちょっと、ラスト君なにをするのですか!?」


 オーレリーの言葉を聞いて、老爺はすぐさま厨房へと引っ込んでいった。

 彼の言葉を訂正するより先に、ラストは彼女の手を引いて店内でもっとも綺麗な座席へと座らせた。

 思いがけない無理やりの動作に彼女がラストに文句を言おうとすると同時に、いつの間にか戻ってきた老爺がテーブルの上に料理の乗った皿を差し出した。

 その小さな世界の中に形作られた料理がに意識を惹きつけられて、彼女は文句よりも先に感嘆の息を漏らしてしまう。


「これは……」

「最近肉屋が仕入れるようになったという魔物のお肉ですじゃ。少々値は張りましたが、魔物肉は先代にお仕えしていた際にもあまり扱ったことがありませんでしてな。久々の挑戦がてら、試してみたのです。もちろん味見はしております故、そちらについてはご安心を」

「シュルマの料理ですから、味については心配する必要などありませんが……魔物のお肉ですか。私も食べたことがあるのは一度きりです。それも随分昔のことで、とても美味しかったということしか記憶にありませんね」


 最初に店に入るのを断わろうとしていた様子は見る影もなく、オーレリーはすぐさまナイフとフォークを手に取って、軽やかな淑女らしい手つきで肉を切り取って口に運んだ。


「いただきます――これは」


 一度言葉を発すのを止めて、彼女は暫しの間可憐な口の中で肉の味を堪能した後、こくりと飲み込む。


「しっかりと嚙み締められるだけの弾力と、ほろほろと崩れる柔らかさの見事な調和……そして、中に閉じ込められたお肉の味が主体となって野性味を感じさせつつも、共に煮込んだワインとお野菜、それに唐辛子がうまく手綱を握っていて……腕の衰えというものがまるで感じられません。流石ですわ、シュルマさん」


 誉め言葉を告げながら、すぐに次を口に運ぶオーレリー。

 老爺は白帽子を脱いで彼女に頭を下げながら、ちらりと傍で様子を窺っていたラストを見る。


「お褒めに与り光栄にございます。これも、そこにいるラスト君のおかげなんじゃがな」

「彼の、ですか?」


 オーレリーは老婆によって傍に置かれていた水を飲みながら、ラストへと目を向ける。


「はい。いやはや、彼が次から次へとお客を連れてくるからの。腕についていた錆びも、否が応でも剥がされてしまったんじゃ」

「なるほど。どうやら貴方は、来て間もないというのに本当にこの店のお役に立てているのですね。それは素晴らしくもあり、羨ましくも思います……それに、このようなお料理を毎日食べられるなんて、ずるいですわ……もぐもぐ、ごくん」


 文句を言いつつも、彼女はすぐに大の大人二人分はあろうかという皿の中身をぺろりと平らげてしまった。

 どうやら食前の遠慮染みた様子とは異なり、内面は相当な健啖家らしい。

 とはいえ、それで彼女の魅力が損なわれるようなことは全く見受けられない。

 オーレリーの肉体はしっかりと引き締まっており、金に任せた飽食に愉悦を見出す怠惰な者たちに共通するような贅肉は一片たりとも見られないからだ。


「ふう……ご馳走様でした。ふふっ、これほど楽しいお食事の時間を過ごしたのはいつ以来でしょうか」


 そう明るい顔を見せる令嬢に、老婆は対照的に悲しげな顔を見せる。


「たまには、ご用事がなくとも足を運んでくださって構いませんのに。こうして顔を見るのは二か月ぶりですか? 先月は【月の憂雫ルナ・テイア】もありませんでしたからね」


 【月の憂雫ルナ・テイア】――ふと老爺の口から出現した聞き覚えのない単語に、ラストは首を捻る。

 しかしオーレリーと老婦人の久々らしきやり取りに己の好奇心で介入することはよろしくないと考えて、彼は今は静かに聞きに徹することにした。

 たまには遠慮せず顔を見せてくれて良いのにと誘いの手を差し出す老婆に、オーレリーは申し訳なさそうに瞼を下ろす。


「いいえ。領主の血筋である私があまりに何度も訪れていると、店の評判にも響くでしょうから」

「街の皆も、貴女様のご献身ぶりは知っていますよ。同じヴェルジネア家とはいえ、オーレリー様は他の方々とは違うのではないかと、皆さま期待を寄せておられます」

「お世辞は結構です。私が街の方々に胸を張って顔を見せるには、まだまだ罪滅ぼしが足らないのです」


 今日のことはあくまで例外なのだと、頑なにオーレリーは自分自身を身体に流れる血で否定する。

 そんな彼女の強くも儚げな姿をラストは見ていられずに、目を背けて傍にいた老爺に呟く。


「……随分生真面目というか、責任感が強すぎるというか。子が親やその他の家族の分まで罪を背負い込む必要は、僕はないと思います。先ほどの食事時のように、もう少しくらい年頃の女の子らしい笑顔を見せても良いでしょうに」

「そうじゃな。だが、あの子はそれで納得せん。良くも悪くも、先代の教えに忠実にですからの。父親の招いたこの街の窮状を、あの子なりになんとかしようとしておるんじゃよ。昔から知っておる身としては、その頑張りを一概に否定しきれんのじゃ」


 そう、老爺は孫を見るような優しい目でオーレリーを見る。

 その眼の中には、大切な彼女に無茶をさせたくないという心配から来る思いと、彼女の辛い道を歩もうとしている意志の輝きを曇らせたくないという応援の気持ちがせめぎ合っていた。


「止めることは出来なくても、せめて支えるくらいはさせてもらいたいものじゃ。恐らくは、今の御屋敷にオーレリーさまの無茶に付き合えるような人材はおらんからの。そういった優秀な使用人は、今の領主様が全て目障りだと首にしてしまいなさったのでな」


 自身もその憂き目にあった老爺が、悲しそうにため息をついた。


「それで、時にお嬢様。本日はどのようなご用件でこちらまで来られていたのですか? 今月はまだ、満月を迎えてはおりませんが……」


 思い出したかのように老婆が問うと、オーレリーはそれまでの悲し気な表情を引き締めてきりっとした顔で答えた。


「このお店が騎士に襲われた、という話を聞きましたので。また父のことで迷惑をかけてしまったののではないかと気が気がでなくて、話を知ってすぐに飛んできたのです。申し訳ありません、ちょうど街の反対側にいたのでその日の内に気づくことが出来なくて」

「あら、そうだったのですか。そこまで気になさらずとも、どうかお顔を上げてくださいませ。ありがたいことにラスト君があのろくでなしどもを追い払ってくれましたから、店には一つの被害もなかったのですよ」

「そのようですね。私も偶然、彼がこの街を訪れた際にその立ち回りを見る機会がありましたが、あの乱暴者たちがまるで相手になっていませんでした。本当に素晴らしい力の持ち主ですわ」


 そう彼女たちに矢継ぎ早に褒められて、ラストは急に恥ずかしくなってしまう。


「あはは……僕なんてまだまだですよ」

「ご謙遜を。もし私が父であれば、貴方のようなお方をこそ騎士に任命するというのに――とはいえ、私はどうやっても領主になどなれませんから。お忘れくださいな」


 彼女は自分の思いつきを、すぐさま軽く笑って流した。

 再び寂しさを取り戻した空気を取り直すように、ラストはここで先ほどから気になっていた点を質問することにした。


「そういえば、先ほどのお話に出てきていた【月の憂雫ルナ・テイア】とはいったい? 聞き慣れない言葉ですが……」


 そう質問したラストに、老夫婦は意外そうに顔を見合わせる。


「なんじゃ、知らないのかの?」

「……いえ、それも当然でしょうね。なにせ彼がヴェルジネアへ来てから、まだ一週間も経っていませんもの。まだ満月を迎えていない以上、耳に入っていないのも無理はありません」

「おっと、そういえばそうじゃったな。いや、あまりに彼が店にいるのがしっくりくるもので、つい昔からいる店員だと思っておったわい。――ラスト君。【月の憂雫ルナ・テイア】とはな、満月の夜にのみ困った人々の下に落とされる贈り物のことじゃよ。そして、その贈り主はこう呼ばれておるんじゃ」


 老爺は少々もったいぶった後、その呼称を小さな声で告げた。


「――怪盗、とな」

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