第90話 再会


 領主からの重圧を忘れて食事を楽しめる、安らぎの場所。

 その謳い文句に誘われ、またそれが真実であることを認識した人々によって、老夫婦の経営する【デーツィロス】は瞬く間に人気を博していた。


「すまん、こっちにさっきの肉煮込みをあと二皿追加だ!」

「私達には食後の紅茶をね。あっ、ジャムもたっぷりとお願いね」

「はい、ただいまお持ちします」


 ひっきりなしに訪れるヴェルジネアの客たちによって、店内は常に満席となっていた。老爺の料理と老婆の接客、そしてラストの横暴な騎士に対する大立ち回りが初日の客に与えた衝撃の影響が、目に見える形でもたらされていた。

 ただ彼の誤算だったのは、その光景には当初の店の構想であったであろう厳かな雰囲気が微塵も残されていなかったことだろう。

 その原因であるラストは腰を深く折り曲げて老爺に謝罪していたが、彼は鍋をかき回しながら大らかに笑うばかりだった。


「なぁに、飯を食う皆が楽しそうに笑っている。そこが変わらぬのなら、どうなろうと【デーツィロス】は【デーツィロス】よ」

「……それなら、よかったです」


 ほっと胸を撫でおろして、ラストは店の繁盛を一時のものにしないよう粉骨砕身働いていく。

 そうしていると、早速彼の役目が回ってきた。

 ――酒類の提供も以前と同じく続けている以上、空気の穏やかさも相まって、ついつい気の弛みが大きくなってしまう者たちも存在する。


「はっは――ぁがっ」


 日々の生活で溜まっていた鬱屈を晴らそうとして、つい暴れ出そうとしてしまう男性。

 だが、いくら人々の楽しむ声を許容するとは言っても限界を超えれば放置しておくわけにはいかない。

 その気配を察知し、瞬時に対応するのもラストに任された重要な仕事だった。


「失敬」


 いきなり立ち上がって領主への日々の恨みつらみを叫び出そうとした彼の身体が、なんの脈絡もなく机に突っ伏してしまった。

 その背後には、音もなく立っていたラストの姿がある。


「お客様。こちらのご友人は後ほど……」

「お、おう。すまないな。分かった、ちゃんと俺たちで運んでくよ」


 そのラストの涼しい笑顔に酒で熱くなった身体が瞬時に冷えていくのを感じながら、連れ添いの男性たちはこくこくと頷いた。

 変わらぬ笑顔で次の客へと対応するラストを横目に、彼らは倒れた仲間の様子をちらりと見やる。

 そこにはまったく怪我が見られない。どれほどの技量を持てばそんな芸当が出来るのかと思いながら、彼らは己の首筋を擦った。

 彼らもまた、ラストの技をその身体で知る者だった故に。


「……そろそろおいとまするか」

「……おう。遅れたら親方に怒鳴られちまうからな」


 倒れた仲間をいそいそと担ぎ上げる男たちを見ながら、別のテーブルで世間話を楽しんでいた女性たちもまた席を立った。


「それじゃ、名残惜しいけれどお別れね。また今度来るから、よろしくね」

「ラストくーん、お姉さん寂しいなー。もっともっとお話ししない? ……今夜にでも、二人っきりで」

「申し訳ありませんが、そのような注文は取り扱っておりませんので。またのご来店を、心からお待ちしております」

「ええ。ほら、行くわよ。迷惑かけないの。出禁にされちゃうじゃないのこのお馬鹿」

「あーん、またねー!」


 一緒に食事を楽しんでいた友人に引きずられ、ラストの腕に抱き着いていた女性も店を出て行った。


「お疲れ様、ラスト君。ちょうどお客さまがいなくなったから、入り口のを変えてきてちょうだい。私たちもお休憩しましょ」

「はい、分かりました」


 店はこれから、夜の開店に備えて新たな準備を始めなければならない。

 本来ならば朝に準備した分で一日を乗り切れるはずだったが、ラストが関わるようになってからは余りの客の多さに一度の仕込みでは追いつかなくなっていた。

 その嬉しい誤算のために、今のこの店は開店時間をお昼と夜の二回に分けている。

 片付けと休憩、そして夜の仕込みのための時間に間違って客が入ってこないよう、ラストは店の外へ出て、掲げられていた看板の表示を【開店】から【閉店】へと引っくり返した。


「あら、ちょうど閉店ですか?」


 店内に戻ろうとした彼の背中に、残念そうな聞き覚えのある声が飛んでくる。

 ラストがそちらに振り向けば、この街の第一印象とも言える琥珀色の髪が輝いていた。


「君は……オーレリーさん?」

「貴方は……あら、ラスト君ではありませんか。どうしてここに……」


 別れ際に逃げるように立ち去っていった彼女との意図しない邂逅に、ラストはなんと言葉をかければ良いのか分からなくて口をつぐむ。

 それはオーレリーも同じだったようで、彼らは次の言葉を紡ぐまでに少しの沈黙を挟まなければならなかった。

 お互いに赤と翠の瞳を向け合って相手の様子を見計らっていると、先日無理やりな別れ方をしたこともあってか、その謝罪の意を込めてオーレリーが先に口を開いた。


「……ええと、もしかしてこちらで働いているのですか? そうしたら、並みいる騎士たちを倒した噂の食堂の店員の正体とは貴方のことだったのですか?」

「それは、はい。確かに自分がやったことです」

「なるほど。あの時騎士を圧倒していた技量からして、確かに貴方なら可能なのでしょうね。てっきり誰かが運よく倒してしまって、その後に騎士たちが復讐に押し寄せたのではないか……そう心配して様子を窺いに来たのですが、問題はなかったのですか?」

「ええ。皆さん、大変物分かりの良い方たちばかりで。最近はまったく見ていませんよ」

「そうですか。それならなによりですわ。……ところで」


 彼女はその翡翠の目を細めて、ラストに真剣な雰囲気の笑顔で近寄った。


「毎日のように騒ぎを起こしていた彼らが急に大人しくなったのですが、そちらも貴方がなにかしてくださったのでしょうか? もしも愚か者につける薬があるのでしたら、是非ともお譲り願いたいのですが」

「さて、なんのことやら。静かになったのなら、それで終わりということでよろしいのでは?」


 十中八九、【戒罰血釘カズィクル】が原因だろうとラストはあたりをつける。

 しかし、人体の内部に干渉する魔法は使いこなせなければ予想しない後遺症を残す可能性がある。

 いくら彼女が貴族の血を引く魔法使い・・・・であり、瞬時に鉄の扉を力自慢でも開かないように塞ぐことの出来る技量があったとしても、ラストはその術式を教えるつもりはなかった。


「お願いします、ラスト君。私は本気なのです」


 口の堅い彼に、オーレリーは顔を近づけて詰め寄ろうとする。

 その髪からは春の若草のような優しい香りが漂い、上目遣いになった彼女の胸元に思わず目が引き寄せられそうになる。

 が、彼はそれらの誘惑に負けることなく、固い笑顔で沈黙を保った。


「……どうやら話していただけないようですね。仕方ありません。お店の無事は確認できたので、私はこれにて失礼いたします」


 そうしてこの間と同じようにそそくさと立ち去ろうとした彼女を、ラストは今度こそ呼び止めた。

 とはいえ、彼女の話したくなさそうな家のことを聞くつもりはない。


「よろしいのですか? どうせならお茶の一杯でも飲んでいきませんか。休憩時間とは言え、一人くらいなら店主のお爺さんも多めに見てくれるでしょうし」

「ありがたい申し出ですが、お断りします。ただでさえ街の皆様にご迷惑をおかけしていますし、ここの方たちにも色々と辛い思いをさせてしまっています。せっかくのお休みのひと時にまでお邪魔するなんて、申し訳ありませんから」


 だが、そこで老婆がちょうど扉の向こうから顔を出した。


「ラスト君、お昼の準備が出来ましたよ。……おや、オーレリーさまではありませんか。お久しぶりですね」


 目ざとくオーレリーの姿を認めた老婆に、彼女は慌ててぺこりと会釈した。


「エルアさん。お元気そうでなによりです」

「貴女様も変わらず……いえ。以前お会いした時に比べて、また少しお瘦せになりましたね。まったく、女性がそんなで男性を惹きつけられると思っているのですか?」

「あ、いえ、その。私は殿方のことなんて。それよりも街の皆様の方のお手伝いをする方が――」

「駄目ですわ。いくら忙しくとも、お食事を抜いて良い理由にはなりません! 良いですか、健康な淑女たるもの食事を疎かにしては――」


 往来でお説教を受けて、それまでの落ち着いた様子はどこへやら、オーレリーはあわあわと頬を朱く染めて可愛らしく老婆の傍へ詰め寄る。

 どうやら彼女と老婆は互いに気を許しあうだけの関係でいるようだった。


「エルア、なにもここでそんなことを言わなくてもいいでしょう!?」

「駄目ですわ。目を離せばすぐに注意したことを忘れるお嬢様ですもの。きちんと顔をあわせる度に言っておかなくては、雇い入れていただいた先代に顔が立ちません」

「……実は今、彼女に少しこちらで休んでいっていただこうかとご提案をしていまして」

「ちょっと、ラスト君!?」

「あら、それは良い案ですわ。お嬢様、さあさどうぞこちらへ。どうせ今日もお昼もろくに食べずに街の中で人助けをしておられたのでしょう? 夫の料理を食べて、きちんと栄養補給をなさいませ。よろしいですね?」


 有無を言わさぬ老婆の目に射すくめられては、騎士を相手に真っ向から立ち向かえる彼女と言えど断ることが出来なかったようだ。


「……はい。お言葉に甘えさせてもらいます」

「よろしい。さ、ラスト君。案内はあなたに任せるから、失礼のないようにね」

「はあ、どうして僕に? 顔見知りのようでしたらお婆さんがお相手すればいいのでは?」

「私は飲み物の準備に忙しいから。それに言い出しっぺはあなたなのだから、最後まで責任を取りなさいな。よろしくね?」


 老婆は掴んでいたオーレリーの手をラストに握らせて、足早に店の奥へと戻っていってしまった。

 後に残された二人は、ぽつんと重ねられた互いの手を見ていることしか出来なかった。

 やがて伝わってくる相手の体温にはっと気が付いて、ラストはひとまず無難な店員としての対応を取った。


「……こほん。それでは、いらっしゃいませお嬢様。どうぞ安らかなひと時をお過ごしください」

「……はい。お願いしますね、ラスト君」


 色々と想定外のことが重なったものの、彼らは別にいがみ合っているわけでもない。

 ラストの言葉にオーレリーは一瞬だけ悩んだものの、結局はその誘いに従って【デーツィロス】に足を踏み入れるのだった。

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