第87話 先代の欠片


 ラストの助けた老夫婦の営んでいた店というのは、どうやら酒場を兼ねた小料理屋のようだった。

 客が食事を取るテーブルがいくつかと、そこと調理場を仕切るようにカウンターが設置されている。そして、その奥の壁一面には酒瓶を並べるための棚が何段にも渡って設置されていた。

 一度に入ることが出来るのは、およそ十人程度だろうか。それ以上客を入れようと思っても収容できるほどの余裕はあるが、それをしてしまえば洒落た雰囲気が崩れかねない。

 惜しむらくは、本来壁を彩っているであろう酒精の蠱惑的な色と香りがほとんど失われて空っぽになっていることだろうか。

 更には店の装飾品となる部品もところどころ傷んでおり、不躾な騎士によって荒らされた生々しい傷がはっきりと伺えるのも悲しいところだ。


「ささっ、どうぞそちらへ座りなされ」


 老爺はその中でも一番綺麗な席へとラストを案内し、すぐに店の奥へと引っ込んでいった。


「少々お待ちになってくださいな。今あの人が、お礼を持ってきますから」


 続いて老婆が見苦しくないように荒れているところを誇りが舞わないように丁寧な手つきで片していく。


「えっと、僕は……」

「遠慮なさらないでくださいな。あの人も久々のちゃんとしたお客に自慢の腕を見せられそうで、喜んでいるのです。たとえ何もしてなさらないのでも、どうか楽しんでいっては下さいませんか?」


 そう言われてはお礼を断ることも出来ず、彼が頭を悩ませていると、その鼻に濃厚な旨味を孕んだ肉の香りがぷぅんと漂ってきた。


「……これは?」


 ラストは思わず、その匂いの出所に顔を向けた。

 しかし老婆は微笑むばかりでなにも答えず、そんな彼の問いに答えるようにして、老爺が腰が曲がっているとは思えない優雅な足取りで皿を運んでくる。


「さあ、これが今の儂に出来る精一杯のお返しじゃ。召し上がっておくれ」


 ラストの前に差し出されたのは、おおよそ平民の店には出てくると思えないような立派な肉料理だった。

 こぶし大ほどの楕円形の肉の塊に、照りのある黒い濃厚なソースがたっぷりとかけられている。そこに閉じ込められた複雑な香りは、片手の指の数では足りないほどの具材を的確に重ね合わせなければ成し得ない。


「いえ、本当に僕はなにもしていなくて……それにこれほどの料理を出されても、僕は今お金がなくて。代金を支払おうにも、払えないんです」

「なぁに、金はいらんよ。それに若いものが遠慮しなさんな。出されたのなら食べれば良い、簡単なことじゃろう? ほれ、早く食べなければ冷めて味が落ちてしまう。細かいことは気にせず、たらふく食べると良い」


 ずずいと差し出されたナプキンを胸元にかけて、ラストは老爺の押しに負けてしまうような形で運ばれてきた肉料理に手を付ける。

 僅かに弾力のある肉の固まりだが、少し力を入れればさっくりと自ら割れてしまう。

 そして、その中から溢れ出る湯気に混じった芳醇な脂と香味野菜の香りがラストの食欲を更にくすぐった。


「うわぁ……」


 肉の塊の正体は細かく刻んだ肉に複数の香草を混ぜて成形し直したもののようで、内側に閉じ込められていたそれらが一挙に解放されて波のように押し寄せる。

 それにつられて、彼は思わず切り分けた肉塊の一片を口へと運ぶ。


「――美味しい。色んな旨味が互いを支え合って、一足す一が三や四になってるみたいな……」


 まず初めに、肉そのものの強い旨味と肉汁を吸った野菜のさっぱりとした触感がふうわりと彼の舌を包み込む。

 そして噛みしめれば、一歩遅れて肉の表面を覆っていた輝かしいソースの濃縮された甘みと、そこに隠されたほのかな酸味と辛味で引き締められた刺激的な風味が肉の味と混然一体となって、彼に次の一口を急かさせる。

 スピカ村で味わっていた料理が素材そのものの風味を生かすものと考えれば、この老爺の出した皿はその対極だった。いくつもの味を織り重ねて更なる美味を生み出す、彼にとっては食べ慣れたブレイブス家やエスの屋敷で味わっていたような料理だ。

 その美味しさにはラストも断る気が失せてしまって、すぐさま彼は皿の中身を食べつくしてしまった。付け加えて、いつのまにか傍に置かれていたパンで更に残っていたソースも一滴も残さず拭ってしまっていた。


「ごちそうさま――お爺さん、いったい何者なんですか? この味、少なくとも普通の店で追及できるような味じゃない。貴族だって、知らずに口にしていればまさか平民の料理人だとは思わないかもしれません。本当の本当に、美味しかったです」

「ほっほ、そこまで言われると照れるのぉ」


 ラストの感想に老爺は恥ずかしそうに頬をかく。

 そのやり取りを聞いていた彼の妻が、種明かしをした。


「ほほほ、それも当然よ。だってうちの夫は、前は領主さまのお台所で働いていたんですもの」

「……え。ええええっ!?」


 衝撃の事実に、ラストは大きな声を上げて仰天した。

 まさか普通の街で乱暴者にツケを強要されていた老人が実は貴族の屋敷で働いていたなどとは、彼は夢にも思わなかった。

 しかし、老爺は肩を竦めるばかりでその立派な経歴を誇ろうとはしなかった。


「昔の話じゃよ。今の領主には気に入られんかったから、仕事場から追い出されてしまったがな。まあ、儂も気に入らんかったからお互い様じゃよ。それにしても、嬉しいことを言ってくれるの。そうか、儂の腕はまだまだ現役か。……ところで、もしや君もいずこかの貴族なのかの?」


 先ほどのラストの言葉を聞いて、貴族の舌評価について言及していたことに老爺が問う。


「そうですね。カトラリーの扱いも、まるであの日のご主人様を思わせるような滑らかなものでしたわ」

「あ、いえ。今のは言葉のあやで……」 


 しかし万が一にも自分とブレイブス家の繋がりを露呈させるわけには行かなくて、ラストは慌てて首を振った。


「そうか。ふむ、まあ深くは聞かんよ。それよりもほら、おかわりはいらんか? まだまだ好きなだけ食べておくれ。若いのだから、もっと食べてくれて構わんのだぞ」


 そう言って頷いてもいないのに次を持ってこようとする老爺を、ラストは慌てて引き留める。


「ちょっ、待ってくださいって。いくらなんでもこれほどのものを、お礼だからと言ってそうなんども無料でいただくわけにはいかないですよ。これは次の開店時間に備えて仕込んであったものなんでしょう? なのにそこまで貰うなんて、僕には出来かねます」


 だが、それに対して帰ってきた答えは余りに意外過ぎるものだった。


「なに、構わんさ。どうせこの店はそろそろ閉めようと思っていたからの。ちょうどいい、婆さんや、今日で店じまいにしよう」

「え? なにをいきなり――」

「そうですね。いい加減ツケばっかりで経営も限界でしたし、いつまでもダラダラと続けるくらいならここいらですぱっと止めてしまうのも良いでしょうね」

「やはりか。ならばこれで次の日の分を気にすることもなくなった。さ、気にせず食べとくれ」


 そうにこやかに告げる老爺の言葉があまりにも衝撃的過ぎて、ラストは思わず立ち上がった。


「いやいやいや、そんなことを言われたらいくら美味しいものでもお腹に入らなくなりますって! 良いんですか、これだけ素晴らしい料理を提供できる場所をそう簡単に閉めてしまうなんて!」


 この老爺の料理をヴェルジネアの人々が食べられなくなるのは、ラストから見てこの歴史ある街の大きな損失に思えてならなかった。

 しかし、老夫婦はそんな彼の熱意の篭った言葉にも首を振るばかりだ。


「元々は先代様の下で身につけた腕を腐らせるのがもったいなくて、誰でも良いから儂の料理で笑顔になって欲しいと思って始めた料理屋じゃった。最初は調子が良かったが、次第に噂を聞きつけたあんな連中が来るようになって結局他のお客も来ないようになったんじゃ。いい加減、今の領主の下では限界だと思っておったしな」

「それに、ついに騎士にも殺されかけましたしね。もう、あれは私らのような人間には今のヴェルジネアについていけないという神様の思し召しだったのでしょう」

「そんな……このまませっかくの美味しいお店が潰れるなんて、もったいなさすぎる……」


 ヴェルジネアの衰退が、また一歩目の前で進もうとしている。

 それを憂いていた、先のオーレリーの顔がふと思い起こされて、彼はなんとか自分に出来ることはないかと考えを巡らせる。

 ――そして、彼はふと自分が探していたものについて思い出した。

 なんとも都合の良いことに、この場には今まさに彼の求めていたものがある。更にそれを行えば老夫婦の憂いも経てるという、まさに一石二鳥の案をラストは思いついた。


「仕方なかろう、少年よ。これも運命なんじゃ」

「いえ、待ってください。せっかく今日まで我慢してきたんですよね? だったら、もう少しだけ待ってみても良いのではないでしょうか」

「む?」


 怪訝な顔をする二人に、ラストは申し出る。


「僕をここで雇ってはいただけないでしょうか」

「なにを藪から棒に、どうしてそうなるのじゃ?」

「今の話を聞く限り、お客が減った原因はここの料理にあるわけじゃない。それを聞きつけた騎士たちが、元々来ていたお客さんを減らしていったんでしょう? だったら彼らを追い払えば、元々のお客さんたちも戻ってきてくれるんじゃないんでしょうか。――それなら、僕が彼らを追い払います」


 彼は二人の顔を見て、はっきりと断言する。


「本当に今更にはなりますが、認めます。先の騎士を追い払ったのは僕です。あの程度の力なら、束になって押し寄せて来ようと追い払えるだけの自信はあります。だから、どうか考え直してはみてくれませんか?」


 そんなラストの言葉に、老爺が首を傾けて悩むようなそぶりを見せる。


「儂の料理を美味いと言ってくれた恩人の言葉じゃから、別に構わんが……すまん、給料が出せんのだ。生憎と最近はツケ払いばかりでの、ただでさえ赤字だから払えるだけの金がない。人が戻ってきてくれればなんとかなろうが、失敗すればただ働きじゃ。それで本当に良いのか?」

「構いません」


 ラストは、この老爺の料理が間違いなく人々の舌をひきつけてやまないだけの魅力があると見抜いていた。

 だからこそ、彼は覚悟を問うような老爺の言葉にすぐさま頷いた。


「即答か……あい分かった。そこまで言うのならば、もう少し続けてみようかの。このまま今代の情けない領主に負けるくらいなら、儂を取り立ててくださった先代領主のためにもあと少しくらいはみっともなくとも足掻いてみせようぞ」

「ありがとうございます。僕も、全力で頑張らせていただきます!」


 そうして、ラストは老夫婦と握手を交わしたのだった。

 ――かつてヴェルジネアを立派な都市として成長させてきた先代領主の栄光の欠片は、すんでのところで完全に砕け散るのを食い止められた。

 そのくすんだ輝きを元に戻して人々に笑顔になれるだけの余裕を取り戻してもらう、それもまた自分の目指すことなのだとラストは固く拳を握りしめた。

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