第三章 望月の憂い風
第84話 翠の瞳の少女
ラストは自身を取り巻く予想を超えた窮状に、天を仰ぐほかなかった。
しかしそこに見えるのは解決策などではなく、ジメジメとした苔の生えた石天井だ。
無言を貫く無機質な黒い石空は、ただただそこに収監された
行き詰まった運命を指し示すかのような、その光景に彼が肩を竦めれば、ばんっ! と机を勢いよく叩く音が狭く薄暗い牢の中に木霊した。
「なぁ、あんちゃん。誰に許しを得て呑気にしてやがるんだ?」
机を挟んで座っている野蛮な声の持ち主に、彼は仕方なしに視線を戻す。
その姿もまた、言葉と同様に低俗そのものであった。
無精ひげを生やし、フケに塗れた脂色の髪の男。
しかし、男は意外なことに、この都市ヴェルジネアにおける正式な叙勲を受けた騎士だった。
風貌は山賊と言われても仕方のないものであるが、その身体には確かに王国の刻印の入った鎧を纏っている。
そして、更に付け加えるならば――入市審査の列に並んでいたラストを、都市を覆う防壁内のこの石牢に押し込んだ張本人でもある。
「別に、空を見上げることに許しもなにもいらないと思うけれど」
「たわけたことぬかすんじゃねぇ!」
今度は振り抜かれた男の拳――もちろん手甲つきだ――が、ラストの頬をなんの躊躇もなく打ち据える。
しかし、ラストはまったく痛手を受けていない。咄嗟に勢いを合わせて首を捻ったことで、衝撃をうまく逃がしたのだ。
だが、そんな事にも気づいていない粗野な騎士は、暴力を振るったことそのものに満足そうにげらげらと笑う。
「はっはぁ! 良いか、ここじゃ俺の命令が絶対なんだよ! 領主様にこの東門の守衛を任されたこの俺様こそがここの規則だ! 逆らうってんなら、分かるまで痛い目見てもらうぜ?」
高らかに響く男の下卑た笑い声を適当に聞き流しながら、ラストは騎士の背後にあった狭い通気口代わりの明かり取りを見やる。
その向こうには、ほんの一時間前まで彼の並んでいたヴェルジネアへの入市を希望する人々の列が見える。
――どうして自分だけが彼らの中から選ばれて、こんな陰気臭い場所に連れてこられたのか。
その元凶である門番の騎士に目を戻し、ラストは内心嘆息する。
「なんだ、その生意気な目線はよ。まーだ教育が足りないか?」
「これが教育だって? なぜ、どうしてそうなるのか理路整然と説くことも出来ず、暴力だけで従属を植え付けようとすることのどこが教育なんだ」
ラストには、それが不思議で仕方がなかった。
騎士である彼が成した不名誉は須らく己の主の汚名に繋がるというのに、それをまるで理解していない。
「はっ、口だけは達者だな。暴力は嫌いか?」
「それが不必要なものならね。そちらの使っているのは、間違いなく僕が一番嫌いなものの類だよ」
「こいつが嫌なのなら、さっさと諦めろよ。なぁ?」
彼はどかっと机の上に足を乗せ、自身の座る椅子の前足を宙に浮かせながらラストを見据える。
「いいか、お前は犯罪者なんだ。こんな適当な身分証なんてでっち上げて街に入ろうとしやがって。なにがスピカ村の長の名の下にラスト・ドロップスの信用を担保する、だ。こんな言葉の一つや二つ、誰だって書けるってのによ。これで誤魔化せると思ったか?」
彼はぴらぴらとラストの持っていた身分保証状を、見せつけるように揺らす。
「身分証の偽造は重罪だぜ? 鉱山での重労働行き間違いなしだ。それに、ただでさえ最近は街を騒がせている馬鹿な奴がいるんだ、お前みたいな怪しい奴はなおさら放っておくわけにはいかねえだろ。殴られたくなきゃ、少しは素直になったらどうだ?」
いやらしい笑みを浮かべながら、騎士を名乗る男はラストを見やる。
「……ま、俺もそんな先のある若い奴を地獄に送りたくはねぇ。鉱山奴隷を見たことあるか? 俺は知ってるぜ。偶然刑期を終えて帰ってきた爺さんだが、身体がガタガタになって息も碌に出来ねえんだ。しょっちゅう黒い痰を撒き散らして、最後には道の隅っこで野垂れ死んでた」
このままだとお前も確実に同じ道を辿ることになる、と男は暗にラストを脅す。
「そんな末路、迎えたいか? 嫌だよな。俺だってそうだ。先のある若者をここよりも暗くて汚えところには送りたくないぜ。だからよ、特別にお前を見逃してやってもいい」
足を下ろし、肘を机に乗せて男はぐっと身体を寄せる。
そこから漂う悪臭にラストが顔を顰めるのも気にせず、彼はにちゃりと口を歪めた。
「せっかくこの俺が温情をくれてやろうって言ってるんだ。だったら、それを受けるお前からも相応の恩ってやつを貰わなきゃあな。分かってんだろ、お前もここを抜け出すにはどうすればいいのかってことくらいはな」
温情に対する相応の恩、それは要するに釈放のために金を寄こせということだ。
結局のところ、男は保証されているとはいえど身元のはっきりとしないラストに難癖をつけて、金を巻き上げたいだけなのだ。
堂々と袖の下を要求してくる男に顔をぎゅっと顰めながら、ラストは彼の脅しに負けることなくはっきりと言い放った。
「なにが温情だ。無茶苦茶な冤罪を吹っかけておいて金を巻き上げるなんて、そんなやり口は騎士の風上にも置けない。あんたみたいな男になんて、銅貨一枚だって払うもんか」
「ほぅ、そいつがお前の答えか?」
断われてもなお、男はにやにやと笑うばかりだ。
そうして男は感心そうにしながらうんうんと頷いて――再びラストの顔を殴りつける。
「それはそれで構わねぇさ。やんちゃなガキを躾けてやるのも、騎士様の仕事ってやつだしな。それに、その綺麗な顔。苦労の一つも知らないってお坊ちゃんの顔だ。ここいらで一つ、男前にしてやる――よっ!」
さらに続けて、窮屈な石部屋の中で騎士の暴力がラストを襲う。
それをやりすごしながら、ラストは舞い上がる埃とかび臭い空気、そしてなにより問題を抱えた目前の不良騎士に面倒くさそうに目を細める。
「そらそらそらぁっ! 男だってんなら、避けずに一発くらい殴ってきてみろよ!」
目の前の男の言う通り、いっそのこと殴って気絶させて逃げ出せれば楽なのだが、相手は曲がりなりにも騎士という歴とした身分を持っている。
そこいらのごろつきならばともかく、領主の配下である騎士に手を出せば後々より大きな面倒になることは目に見えている。
それに、こういった輩ほど一度やられても恥を知ることなく、蛇のように執念深く相手を追いかけるものだ。
「……本当に、どうやって切り抜けようかな」
がんがんと石の敷き詰められた床を踏み鳴らす騎士の鉄靴の音に、そんなラストの呟きはかき消されてしまう。
そもそも金を払おうにも、彼の懐には一枚たりともそんなものはないのだ。
かと言って、そのまま鉱山送りになどされてはたまらない。
なんとも厄介な状況に陥ってしまったものだと、頭を悩ませる彼が惰性で騎士の攻撃を捌き続けていると――。
「そこまでです」
がちゃん、と突如なんの前触れもなく鉄の扉が開かれた。
差し込んできた強い光に思わず二人が目を細める中、扉の向こう側に立っていた影がずかずかと無遠慮に室内に踏み込んでくる。
しかしその足取りには目の前の騎士のような野暮ったさは微塵も感じ取れず、むしろ洗練されているように見えた。
「っ、いきなりなんだ! ここは今俺が使ってるんだぞ!」
「なにをしているのですか、貴方がたは」
それはこの暗鬱とした部屋には似つかわしくない、清涼な小鳥の如き乙女の声だった。
しかしその声は雷鳴よりもなお鋭く石畳を打ち据え、彼らはその声の主の顔を確かめようと目を凝らした。
野蛮な騎士は、どうして女が栄誉ある騎士の仕事場に割り込んできたのかと忌々しさを込めて。
ラストは、この柔らかくも決して曲がらぬ性根を持つであろう女性に興味を持って。
彼らは揃って、明るい光に満たされた部屋の入口を見つめた。
「双方、拳を収めなさい。そして、なにがあったのかを明瞭に語るのです。まさか暴力でしかそれを語れないというような方は、この場にいらっしゃいませんよね?」
穏やかだが有無を言わせぬ口調で、ぴんと背筋を伸ばした女性は二人に語り掛ける。
やがて久々の強い光に慣れてきた彼らの目に、彼女の全貌が明らかになる。
柔らかに波打った琥珀色の髪を靡かせた、人形の如き美貌を持つ少女。
「へぇ……」
その顔に埋め込まれた、深い思慮の光が漂う澄んだ
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