閑話 湖底の悪夢は夢跡となりて


 月日にして、およそ二週間弱。

 ラストは短くも濃厚な時間を過ごしたスピカ村から、この一帯を治める領主のお膝下である地方都市ヴェルジネアへ向けて徒歩旅を続けていた。

 本来ならば大人の足でも五日はかかる距離だが、それは常人の話。魔力による強化を扱える彼は、たった一日にしてその七割弱を既に踏破し終えていた。

 そうして迎えた夜、彼は街道から少し外れた場所にて暖を取りながら休息をとっていた。

 石の囲いの中でパチパチと弾ける焚火にあたりながら、ほど良く炙った干し肉を齧りつつ、脚に溜まった乳酸を柔軟運動を施しながら抜いていく。

 それらをこなすと同時に、彼は宙に一つの魔法陣を描いていた。


「よし、あとはここの変数にこの間の座標を代入して……」


 構築されていくのは、彼にとって見慣れた転移魔法だ。

 しかしその出力はエスの屋敷で使っていたものに比べて、遥かに劣る。龍脈という潤沢な魔力供給源

がない以上、この転移魔法では飴一つすら送る役目すら果たせない。

 それでも、今の彼の目的を果たすには十分だった。


「魔力抽出先を変更して、こっちにしてっと……」


 ラストの指から伸びる幻想的な光の軌跡が、転移魔法陣と、傍に置かれていた紫色の結晶を繋ぐ。

 その正体は、先日打倒した羊頭の魔族シェラタンが所持していた魔獣変異結晶マギメラクォーツだった。彼の身体を埋葬する際に、後顧の憂いを断つべく懐を探っておいたところ、ラストは予備と思わしきもう一つの魔力結晶を見つけていたのだった。

 内部に秘められていた禍々しい術式は回収したと同時に解除しており、今は単なる魔力の塊でしかない。

 これを使えば、ある程度の出力は確保できる。

 後はエスの下で培った知識で改変した魔法陣を、作動させるだけだ。

 送付する対象を、質量を持った物体から音声へ――単なる空気の振動情報のみへ変更。

 更に、やりとりを双方向のものから一方通行のものへ限定する。

 それらの代償として、稼働時間の延長を確保――これでようやく、一分程度通話することが出来る。


「こほん。――あー、あー、声の調子に問題はなさそうかな?」


 ラストが入力した送付先の座標は、シェラタンが元々いたであろう魔族世界の何処かだ。

 魔熊の死が鍵となる条件起動型転移魔法には、対となる転移元へ異常を伝達するための機能が備わっていた。シェラタンが魔熊に転移魔法を唱えさせていた際に観察していたラストは、そこに刻まれていた転移元の座標をしっかりと記憶していたのだった。

 その数値を使えば、逆に彼が元居た場所を補足することも出来る。


「さて、それじゃあ始めようか。二度ととまではいかなくても、しばらくは警戒してこれ以上の行動を起こせないようにね……さて」


 彼が結晶の回収時に同様に手に入れたシェラタンの研究手帳には、彼以外に計九人の名前が刻まれていた。

 彼らはどうやら共同研究者であるようで、それぞれの成果について簡単な記録が残っていた。そのどれもが生を冒涜するようなものばかりで、彼らの性根がロクでもないものであることを文字だけでも十分に窺うことが出来た。

 同じような研究に携わっていた彼らは研究室も共有していたようで、ラストはシェラタンが来た座標に声を届ければ彼らにも聞こえるだろうと推測する。

 声だけでは子供の悪戯程度にしか思われないかもしれないが、いつまでも外出したシェラタンが戻る気配を見せないとなれば、多少は信憑性を増すだろう。


「――聞くが良い」


 出来る限り恐怖を煽るべく着飾った声で、ラストは相手先へ向けて囁く。

 他人を自分の都合で弄ぶことなど、絶対に許されはしないのだと。

 闇に潜む魔の者たちの海馬に、深く深く烙印を焼きつけるように。

 これは、彼らへの警告なのだから――次はないのだと、教えるように。



 ■■■



 一方――魔族の領域の一角、人の訪れぬ辺境の最奥に隠匿された秘密の研究所。

 これまでの魔族全体の方針を真逆に転換させた【偽りの魔王】エスメラルダによる検閲から逃れるため建てられたその場所では、今日も昨日と変わらず生命を冒涜する研究が進められていた。

 仮死状態にして保存された、人間も魔族も含む動物たちがガラス張りの棺に並べられた実験室。それを見下ろせるように配置された研究室にて、彼らは各々の研究意欲と加虐欲を満たすべく研究器具を振るっていた。


「それにしても、ここに籠ってもう二年。そろそろ月の光を眺めたいわ……」


 【吸血鬼ヴァンピエレ】の女性が試料の入った試験管を振りながら呟くと、隣でごりごりと鉱石を磨り潰していた【狼魔族ライカン】の男性が答える。


「ふん、普段はお前らのことが気に食わなくて仕方がねぇが、同感だ。こうして好きな研究に没頭できるのは最高だが、たまには変身して思いっきり暴れねぇと気が済まねぇ」

「あら野蛮。でも、そうね。ここにいるのは既に調教済みだから、甚振っても面白くないもの。たまには純粋な獲物を狩らなきゃ、つまんないわよね」


 彼らにとっては至極残念なことに、魔王の座に返り咲いたエスは彼女の目の届く限り全ての支配地域において無益な拷問や殺生を禁足事項に指定した。

 家畜の屠殺程度ならばともかく、快楽の追及などを目的としたものは互いの同意を得たものを除いて全てが禁じられている。

 無論、ここで行われている研究は一から十まで全てが今の魔界では禁忌とされているものだ。


「次は調教前のものを持ってくるよう、支援者に頼んでみようかしら」

「ああ、そいつは良い。二年も見つからねぇんだ、今更ちょっと騒いだ程度で感づかれたりはしないだろうよ。かかっ、久々の楽しみだ」

「ふん! そのようなこと、いずれ戦争が起きればいくらでも可能となろうぞ。それまでは我慢せんか、いくら支援者とて、そう簡単にあの魔王を出し抜けるわけではないのだぞ」


 隅っこで背もたれ付きの椅子に深く腰掛けていた初老の老人が、しかめっ面をしながら呟く。

 彼の外見は一見して人間と変わりないが、彼は傍に立たせた虚ろな表情の女性の下腹部に手を当てて、そこに刻まれた淫靡な紋様から淡い生命の光――精気を吸い取っている。彼もまた、エスに胃を唱える魔族の一人だった。


「偽りの魔王とは言え、実力までは嘘偽りではない。なんとかその眼から逃れてこのような辺鄙な所に研究所を建てたというのに、今更些細な失敗で感づかれるわけにはいかんのだ。なに、今暫しの辛抱よ。この研究が実った暁には、世界は再び渾沌に満ちる。それまではなんとしてでも見つかるわけには――」

「――ほぅ、この【魔王】から逃げられるとでも?」

「いかんのだ! ……あ?」


 突如現れた流麗な美声に、その場にいたもの全てが動きを止めて部屋の入り口を見る。

 しかし、その反応が既に彼らの敗北の運命を決定づけていた。

 彼女から逃げようと思うのならば、声が聞こえた時点で余計な動作をせずに一目散に逃走の選択肢を取らなければならなかったのだ。

 ただ、それが出来たとしても逃走が成功する可能性は原子よりも小さいだろうが。


「偽りのっ――!」

「ふん」


 彼女の得意とする雷電の魔法が、この場にいる研究員たちの身体を一瞬のうちに打ち据えた。


「【雷珠ライジュ】――【雷威カムイ】。無駄口を叩くのは戦いの趨勢が決まってからに決まってるだろ? こんな風にな」


 平伏すように地面に崩れ落ちた彼らを見下ろすのは、今の魔界を支配する最強の魔族。

 闇よりも深い宝黒のローブをはためかせ、全身に張り付く伸縮性の高い防具を身に纏う女王。

 【魔王】、エスメラルダ・ルシファリアその人だった。

 彼女は全身を麻痺させられて動くことの出来ない魔族たちを、軽く指先から射出した魔力糸で拘束していく。

 下手に脱出しようとすれば関節が外れるか骨が折れるかといった、種によって異なる魔族の骨格を的確に押さえたやり口で反逆者たちが縛り上げられる。


「まったく、よくもこんなところに研究所なんて作る気になったもんだ。藻に覆われた湖底の研究所とは、確かに余の盲点だったよ。しかしこんな所に長らく引き篭もるなんて、もっと他にその努力を向けるべき先があったと思うけどな」


 彼女は呆れるように研究員たちを見下ろしながら、近くの机に積まれていた資料を手に取る。 

 その中身を紅藍魔眼ヘテロクロミアで流し読みして、彼女はため息を漏らす。


「ふぅ、魔物の作為的な誕生か。有意義な実験であることは認めるが、せっかくの成果も戦争などというつまらんことに使用されては宝の無駄遣いだ。せっかくの素晴らしい脳みそをそんなことにしか使えないなんて、余は悲しいぞ?」

「――そんなこととはなんだ貴様ぁっ!」

「うわっ!?」


 呪文を唱えられないように口が封じられているはずなのに、声が響く。

 その主である、裸体の女性の足元に転がった男性を観察して、エスは今の声がその種族的特性によるものだと気づく。


「精神感応か……となれば【夢魔族キュバス】だな。傍の女は食事代わりか、まったくいい趣味をしてるもんだよ」


 エスはその女性の額を小突いて気絶させ、男の座っていた椅子に座らせる。


「貴様のような偽の魔族に、我らが生の謳歌を邪魔されてなるものか!」

「別に、普通に楽しんでる分には邪魔しないさ。でも、これは駄目だろ。他の奴らが自分の一生を楽しもうとしてるのを踏み躙るのはさ」

「なにが駄目なものか! 強者こそが法であり正義なのだ、弱者は我らの礎となることにこそ悦びを見出すのだ!」

「そうかい。んじゃ、お前たちも強者たる余に従え」

「……くっ!」


 気まずそうにそっぽを向く【夢魔族キュバス】の男性に、エスは失望の目を向けた。


「いや、そう簡単に言い負かされるなよ。まあ、余もお前らと同じ道理を振りかざして堕ちるつもりはないけどな。それでも口で言って聞かなかったんだし、実力行使も多少は止む無しだ。……ふむふむ」


 彼女は彼らが万が一にも逃げ出そうとしないように監視しながら、研究資料を次から次へと読み進めていく。


「なに、既に成功個体を人間界に運び入れて経過観察中だと? ちっ、面倒な。数は十六か。観察中なら、どこから見れる――あそこか」


 彼女が目を向けた先には、資料に記載されたのと同じ数の魔法陣が存在していた。


「これであちらから送られてくる情報を確認しているのか。ならばこちらからも干渉できるな……うむ。彼らには悪いが、適当に暴走でもさせて死んでもらうとするか。いや、もう一匹死んでるな」


 エスは数ある魔法陣の内一つが、既に機能していないことに気づく。


「こいつの活動地域は、なになに……。王国の田舎か。彼の出身地でもあるな。でも、あんなところに魔物を倒せる人間がいるか普通? いや、居たなら居たで良いんだけどな。それじゃさっさと残りを片してしまおうか」


 そう魔法陣から魔物たちへ干渉しようとしたエスの前で、突如灰色になっていた魔法陣が起動する。


「なに? いったい誰が……いや、ここの研究所の人員は十人だったな。今は一人足りん、となればのこのこと帰って来ようとしてるのか? 都合がいい、探す手間が省けて助かった」


 エスは先手必勝とばかりに【雷珠ライジュ】を構える。

 しかし、誰も出てくることはなく、代わりに魔法陣の内容が少し書き換わり、そこからは声のみが響いてきた。


「――聞くが良い」


 その聞き覚えのない声に、様子を見守っていた研究員たちが困惑の表情を見せる。


「魔羊は既に、永遠とわの安寧へと旅立った。他者の尊厳を犯した愚かな者どもよ、汝らはやがて己が罪にて裁かれるだろう。懺悔せよ、己が愚行を悔い改めよ。さもなくば、我が銀の刃がいずれその命運を断つであろう――」


 短いその言葉を告げて役割を終えたのか、魔法陣は再び色を失ってしまった。

 鳴り響いた警告染みた声に混乱の空気が漂う中、エスが彼らに問う。


「魔羊か……おい。残る一人は【羊魔族アリエス】か?」


 口を閉じられているがゆえに、誰も答えることは出来ない。しかしその顔色の変化で、エスはその推測が正解だと悟った。


「ふははっ、どうやら人間に討たれたみたいだな。魔物を殺した挙句、元凶の魔族まで殺してしまうとはいやはや恐ろしい人間もいたものだ」


 そう軽く笑いながら、彼女は研究員たちを改めて見下ろし、判決を下した。


「だが、安心しろ。余はお前たちを殺したりはしない。だけど、これまで他者を好き勝手に蹂躙してきた分は反省してもらわないと死んだ者も浮かばれないだろう? 光も音も届かない、ここよりも更に深い闇の果て、【冥府牢獄タルタロス】の独房でじっくりと己の罪を噛み締めろ」

「待っ――」


 エスは彼らの抗弁に聞く耳を持たず、指を鳴らして転移させていった。

 そうして余計な者たちが消え去った後、無人になった研究所にて彼女は突如笑い出した。


「……ふっ。ふはっ! ふはははははっ!」


 興奮しながら、彼女はたった今手に入れた値千金の情報に甘美の声を上げる。

 ここの研究員たちからしてみれば恐ろしい警告にしか聞こえなかったものも、その声を知る彼女からしてみれば中身の言葉などおまけ程度にしか聞こえなかった。


「そうか、既に旅立っていたんだな。良いぞ、さっそく余よりも早く愚かな奴らの計画を打ち砕くとはな! さすがは自慢のラスト君だ! ふはははははっ!」


 最初の言葉を聞いた瞬間に、彼女は声の主がラストであると気が付いていた。

 そして続く内容を聞いて、彼が健在であることが理解出来て嬉しくて仕方がなかった――なんなら、久々に聞いた彼の声に、軽く絶頂に達してしまうほどに。


「余と別れて早数年、さぞや立派な青年へと成長しているに違いない。今はまだ顔を合わせる時ではないが……その時がますます楽しみになってきたぞ。ふふっ、余は待っているからな。早く余の下まで来てくれよ?」


 この数年、最前線に立って魔族内での改革を推し進めていた彼女は、なにかを解決するたびに多くの嫌悪すべき光景を目にしてきた。

 だが、その苦労もラストの声を聞けば一瞬のうちに吹っ切れてしまった。

 やる気全開となった彼女は、気絶したまま寝かされていた女性とその他に救えそうな検体たちを魔王城へと転移させ、手早く魔法陣を操作して接続先の魔獣たちの命を刈り取った。

 そうして後始末を一息の内に終わらせて、彼女は研究所の全体に火を放つ。

 ――彼女の視界に映る全てのものが、地獄の業火に包まれて燃えていく。

 醜悪な研究のなにもかもが、跡形もなく浄罪の炎によって清められていく。


「悪いな、お前らを救えなくて。せめて我が魔炎にて安らかに眠れ」


 やがて建材までもが溶融していく様を確認して、エスは犠牲となった者たちの冥福を祈りながら、自身もまた魔王城へと退避していった。

 残された研究所は、やがて鈍い音を立てながら瓦解する。

 湖の奥にて崩れ去った悪夢の夢跡が日の目を浴びることは、これまでも、そしてこれからも訪れることはないだろう。

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