第79話 誇りに別れと誓いの一矢を
ラストからの思わぬ提案に、ルークは一瞬思考を止めてしまった。
「彼を殺すという結論だけは絶対に譲れない。民を徒に弄ぶ歪んだその本性、生かしておけば必ず次の災厄を招くからね。……ただ、将来的なものだけでなくて、これまでに積み重ねてきた悪行を断罪するという視点から考えれば、僕よりも直接被害を受けた君の方が相応しいと思うんだ。どうかな?」
「どうかなって、急にんなこと言われてもよぉ……」
足元に無様に転がるシェラタンを見ながら、彼は困ったように頭を掻く。
彼は既に、【
まさかその背後に真の黒幕がいて、すぐに姿を現すなんてことまでは予想していなかった。
「確かにこいつはロクデナシ野郎だけどよぉ、ぶっちゃけどうでもいいっつーか……別に自分でぶっ殺す必要がねぇってか。正直どうでもいいって感じなんだが」
「ふーっ!? こひゅ、こひゅっ、こほぉーっ!」
そのあまりにぞんざいな扱われように、二人のやり取りを聞いていたシェラタンが騒ぎ出す。
しかし、その怒りも喉元から空気が抜けてしまって声にならない。芋虫のように蠢きながら喘ぐ今の彼の姿は、むしろルークの哀れみを誘うだけだった。
下等だと信じる人間に気の毒そうに見られて更に怒りを訴えようとする空しいシェラタンの様子から目を外し、「それに」とルークは続ける。
「てめぇがくれた弓も壊れちまったしな。これじゃあやろうったって、どうせ出来やしねぇだろ?」
「ああ、それなら大丈夫だよ。弓ならここに持ってきてるからさ、ほら」
地面に置きっぱなしの砕けた
その姿を見て、ルークはシェラタンの無様な姿を見ていた時よりも大きく驚きを顔に出した。
彼の目の前に差し出されたのは――まごうことなき、父の形見の弓だった。
「はぁっ!? なに考えてそれを持ってきてんだべさ!? 魔物に効きもしねぇってのに……」
「もしかしたら使うことになるかもしれないかなー、って思ってね。それに、結果的にこうなったんだから僕の予想もあながち間違ってなかったってことで」
「なんじゃそりゃ。使いもしねぇもんをよくも……いや、ちょっと待て」
ルークが、己の直感が訴えた僅かな違和感を頼りに目を凝らす。
ラストが握っていたその弓は、彼自身が手放した時から僅かに様相を変えている。弦が新しいものに張り替えられ、全体が丁寧に磨かれている。
――それだけではない。干からびていた全体には張りと艶が見受けられ、単に整備したという程度では済まされないほどに修繕されている。
「せっかくの君のお父さんの形見なんだ。そのまま朽ちさせるのももったいなくて、毎日少しずつ魔力を注ぎ込んで生気を回復させてたんだ。死んでいた細胞を生き返らせて完全な状態まで巻き戻すことは出来なかったけれど、これでも十分君の本気に応えられるにはなったはずだよ――ただし、一回こっきりだけどね」
申し訳なさそうに、ラストが目を伏せる。
いくら工夫を凝らそうとも、絶対量の少ない彼ではエスのようになんでも出来るわけではない。
「この弓はもう随分酷使されてきたんだ。もう、弓としての寿命も限界に近い。放っておいても、近いうちに何かのはずみで壊れてしまっていただろうね。そんな状態なんだ、君の全力に一射だけなら耐えられるけれど、それを解き放った瞬間に微塵も残らず砕け散ってしまうだろう。――さあ、どうする?」
再度の問いかけに、ルークは目を閉じ眉間に皺を寄せて頭を悩ませる。
彼自身は、父親から継いだ眼前の弓を握る機会はもう二度と巡ってこないものと思っていた。
だが、使わずに父との思い出として大切にとっておこうとしても、この弓は自然と壊れてしまうという。
――それならば、いっそのこと。
「……分かった。そいつを貸せ。こんまま放っといて腐らせっよりかは、最後に役目を果たす方が弓の本懐だっぺ」
最後に狩人の相棒としての誇りを抱かせたまま、逝かせてやりたい。
そんな想いを抱いて、ルークはラストの提案を受け入れた。
「うん、僕もそう思うよ。それじゃあどうぞ。僕は矢の方を準備してくるから、その間に軽く調子を確かめておいてくれ」
ルークに弓を受け渡し、ラストはシェラタンが現れた時と同じように湖面を渡って、そこに浮かんだままの魔熊の死体の傍へと向かう。
彼が剣で右腕を切り落とし、そこから矢を加工する様を傍目に眺めながらルークは弦を軽く弾く。
久々にその手に握った弓の感覚は、まるで違う。使い古されて老人のように草臥れていた以前の感触とはまるで異なる。
使い込まれてしっとりと味が出たとでも言うべきか、以前よりもずっと彼の手に馴染む。
「――おっと、それはさせないよ」
「げほぁっ!?」
ふと、ラストが離れた場所からシェラタンを睨む。
先ほどから沈黙していた彼が密かに汲み上げていた治癒の魔法陣が、ぱきりと砕け散った。
逆転の一手が容易く打ち砕かれ、シェラタンは呻く。
それをよそに彼はもう一度湖面を歩いて戻ってきて、その手に持った矢をルークへ受け渡した。
「はい、これを使って。あの熊の発達部位を支えてた丈夫な右前腕骨から削りだしたんだ。これなら折れることなく、その弓の最後を看取るものとして立派に役割を果たしてくれるよ」
「なにからなにまで、すまねぇな」
ルークが受け取った矢を軽く指先で確かれば、その長さも重心もケチのつけようがないほどにぴったりだ。
「完璧だぁ、こいつなら気兼ねなく弓を引ける」
「それなら良かった。――それじゃ、終わらせようか」
改めて二人がシェラタンへと向き直る。
その視線にじろりと射抜かれて、地面に転がっていた彼はびくりと身体を竦ませた。
魔族の身体に人間の攻撃が通るはずもない――そう考えていても、ラストにその常識をひっくり返された以上、ルークにも同じようにやられてしまうのではないか。そんな猜疑心が渦を巻いて、魔族としての誇りよりも先に恐怖がシェラタンの心を支配する。
「ふーっ、ふーっ!」
その呻き声を無視して、ラストが魔力の糸でシェラタンの身体を宙へと吊り上げる。
「魔族といっても、強度があるだけで身体の構成自体は普通の生き物となんら変わらないんだ。【
「なんで魔族の身体のことにまで詳しいんだてめぇはよ……いや、オラたちの思いもしねぇことを次から次へと出してくんのは今更か」
ルークが狙いを定めやすいように、わざわざラストは彼の肩の高さにシェラタンを揃え、一直線に矢が脳まで通り抜けるように体勢を整える。
「さあ、いつでもやっていいよ」
最後にそう短く促して、ラストは後ろへと下がった。
その弓の最後を知らしめるためのこの場の主役は、ルークなのだと言うように。
「……おぅ」
ルークもまた端的に頷きを返し、静かに弓へ矢をつがえた。
「むふーっ、むふぅーっ!」
己の命を奪いうるであろう白き骨の鏃を眼前に突きつけられ、シェラタンがなんとか逃れるべく藻掻こうとする。
しかし、ラストの魔力糸は一切彼を逃そうとしない。むしろ細い糸が肉から骨にまで食い込んで、彼の身体をより強く固定する。
「……」
ルークは
込めるべき恨みや怒りの感情と言ったものは、既に先の魔熊との戦いで吐き出し尽くした。
今の彼の弓に込める想いは真実、狩人としての純粋な在り方だ。
「……」
死した父から引き継いだ狩人としての誇りは、既に捨てたつもりでいたけれども。
今この時だけは、その気持ちを以て彼は弓とかつての持ち主であった父に報いようとしていた。
きりきりと弓の軋む音が、聞こえる。
それが強くなるたびに、父親との懐かしい記憶が彼の中に蘇ってきた。
――そんな尊敬すべき父親との思い出を、悔いを残すことなく送り出すべく、彼はその弓が訴える限界を超えて力を込めていく。
「こひゅーっ! こほぁぉーっ! こふぅーっ!」
なんとか逃れようと身体を暴れさせるシェラタンの呻き声は、もはやルークの耳には響かない。
やがて彼が疲れたように一瞬動きを止めた瞬間、ルークは静かに指を離した。
それと同時に、ルークの見ていた世界が急に遅くなった。
解き放たれた矢が加速するたび、彼の握っていた弓が端からバラバラに砕けて塵に還っていく。
その一つ一つを確かに見届けながら、彼は心の中で感謝と別れを告げた。
――これまでありがとう。そして、さようなら、と。
「むーっ! ……むぐぉっ!?」
時間の感覚が戻り、白き矢がすとんとシェラタンの脳髄を打ち抜いた。
全身から力を失って、彼はうなだれるようにがくんと首を落とした。
そして、ルークの手の中に残っていた感触がふわりと消えていく。
役目を終えた木弓は溶けるように輪郭を崩して、吹き込んだ風にさらわれるようにして消えていった。
それを見送りながら、ルークは誓う。
――既に、受け継いだ狩人の誇りは捨ててしまったけれど。
――それでもこれからは自分に出来るだけ精いっぱい、失った誇りに恥じないだけの生き方を貫いてみせる、と。
平穏を取り戻した森の柔らかい風が、僅かに彼の背中を押す。
それがこれからの自分を応援してくれる父の手のように思えて、ルークは晴れやかな顔で空を見上げるのだった。
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