第76話 魔族来訪


 ラストとレイが到着した第一の戦地は、見る影もないほどに破壊され尽くしていた。木々は根元を僅かに残して砕け散り、地面が凸凹に荒れ果てている。その有様から、この光景を為した魔熊の味わった苦しみの凄絶さが読み取れる。

 未だに悪臭が漂っているその中で、彼らは燻ぶっている火種に土をかけて消火していた。


「ううっ……準備してた時から想像はしてたけど、ホントに嫌な臭いね。それでもこれを見てると、直接戦うよりはマシなんでしょうけどね」


 大半は既に風に流されていったとはいえ、嫌な臭いは根強く残っている。

 それに顔を歪めながら、レイはなんとなしに熊が衝突したであろう倒木へと近づいた。その陥没した部分のささくれを指で撫でれば、魔熊の破壊力の一端が感じ取れるようだ。

 それと似たようなものが、周囲には数多く残されている。

 これを直接受けたとなれば、どれほど悲惨な死体となるか――彼女はぞっとしてならなかった。

 思わず肩を震わせた彼女に、最後の残り火を消したラストが歩み寄る。


「大丈夫だよ。まだルークは死んじゃない。ちゃんと湖のところで戦ってるよ」

「見えるあんたはそうでしょうけどね、見えないこっちは心配で仕方ないんだってば……」

「うーん、確かにそうだよね。それじゃさっさと向こうに行こうか。気づかれないように慎重に、だけど……あ、ちょうど今決着がついたみたいだ」

「ほんと!?」

「うん。魔熊の魂の活動が停止してる。ルークも無事みたいだし、これなら――っ!」


 ラストの報告にレイが顔を明るくする。

 しかし、彼は続く言葉を不意に切って顔をこわばらせた。

 

「えっ、ちょっとなによ? そんな思わせぶりなことしなくたって良いじゃない」

「……予定変更だ。急ぐよレイ」


 なんの断りもなく彼女を抱きかかえて、ラストが急に走り出す。

 荒れ狂う熊の突進によって拓かれた道を駆け抜けながら、彼はその赤い瞳を細めて正面を見やる。

 その真剣な表情に不安がったレイが、彼の襟元を引っ張った。


「なによ、なにかあったっていうの?」

「死んだはずの熊の魔力が暴走してるんだ。まるで、生き返ったみたいにね」

「え、どういうことよ!? 魔力ってそんなことまで出来るの?」

「出来ないわけじゃないけど、魔物の知性だけじゃそんな高等なことは不可能だよ。……やっぱり、そういうことか」

「なによ、あたしにも分かるように説明して――」

「ごめん。ここからは更に急ぐから口を閉じててくれ。じゃないと舌を噛んじゃうから」

「えっ――きゃぁっ!?」


 突然ラストが加速したことに、レイが悲鳴を上げる。

 口を開こうとしても、風を受けてうまく話せない。

 そんな中で、なんとか胸を襲う不安に耐えようと、彼女はラストの襟を更に強く握って手繰り寄せた。



 ■■■



「ははっ、はははははーっ……?」


 不意に、湖を漂いながら達成感を噛みしめていたルークが笑い声を止めた。

 彼の肌に、僅かに水面が波打った感触が伝わる。

 不思議なことだ。既に彼以外に動くものなど、この湖にはいないはずなのに。


「……なんだってんだ?」


 狩人の第六感が、それは杞憂ではないと訴えている。

 思わず起き上がったルークが、異変の正体を見極めるべく水の動きの中心部へと目を向ける。

 ――そこには、何故か起き上がっている熊の姿があった。


「……は?」


 確実に息絶えたはずの熊が、どうしてか立ち上がっている。

 その自然界の摂理を越えた想定外の動きに、ルークは思わず呆けてしまう。

 それでも、日々の鍛錬で染みついた感覚が反射的に彼の身体に弓を構えさせて――次の瞬間。


 ――がぎゅる゛ぐお゛ごごがががぁあ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ!


 この世のものとは思えない死獣の咆哮が、湖全体を震撼させた。

 魔熊を中心として、放射状に衝撃波が拡散する。

 それを正面から受けて、ルークは湖の中から吹き飛ばされてしまった。


「うおっ――がはっ!?」


 受け身を取ることも出来ず、ルークは湖畔に聳えていた木の幹に衝突した。

 その衝撃で肺から空気が搾りだされてしまい、全身に走る鈍い痛みに立ち上がることも出来ず、彼はずしゃりと木の根元にずり落ちてしまう。

 幸いにも彼の身体に目立った怪我はない。

 しかしその代償としてか、身体の前に構えていた魔獣の弓が衝撃を受け止めて壊れてしまっていた。

 それだけも十分一大事なのだが、それよりも彼は、目前の嘘のような光景に意識が吸い寄せられてしまう。


「……なんっ、あっ……」


 ――なんだ、あれは。声にならない声で、ルークが叫ぶ。

 それに構わず、湖の中にひっそりと佇む巨体がゆっくりと口を開く。

 矢のたっぷりと刺さった舌を、痛みなど感じていないかのように強引に動かしながら、おどろおどろしく言葉を紡ぎ出す。


「――『卑獣の愚魂よ、我が糧となれ。捧げよ、奉じよ、くべよ。忠実なる下僕は奇跡を為す燈薪となりて、大義のための礎とならん――【生魂奉呪サクリフィセ】』……」

「な、なんだ……?」


 怪しげな文言が紡がれるものの、その内容をルークは理解することが出来ない。

 ひとまず熊が喋っている怪しげな現状を止めなければならないということは分かるのだが、木に叩きつけられた彼の身体はまだ言うことを聞かない。

 ただ見つめるしかないのかとルークが歯ぎしりしていると、そこへレイを連れたラストがちょうど辿り着いた。


「――なにがあったんだ、ルーク!」

「っ、ラスト……?」


 彼は立ち上がれないルークの下へ近寄ってレイを下ろすと、すぐに彼の様子を診察する。


「全身打撲か。罅は入っていても、骨折してるところはない。……うん、ひとまず安心していいね。それで、なにがあったのか話してくれるかな?」


 ラストは明らかに不自然な様子の魔熊に眼を向けて、ルークに事情を問う。


「分か、んねぇ……死んだあいつがいきなり立って、ごほっ! 変なことを言い始めてっ……」

「変なことってなによ。そもそも熊がなにを言うってのよ?」

「知る、かっ。ただ、サクリ……フィセ? とかなんとか……」

「【生魂奉呪サクリフィセ】だって!? よりにもよってなんでそれが――いや」


 ルークの口から飛び出たのは、ラストにも聞き覚えのある魔法の名称だった。

 【生魂奉呪サクリフィセ】――それは生魂を対価に莫大な魔力を引き出す禁断の呪法だ。

 確かに、熊の近くにはかつてエスに渡された禁呪目録に載っていたものに近い魔法陣が浮かんでいる。所々がほつれているが、それでも通常では信じられない程の出力が感じ取れた。

 だが、【生魂奉呪サクリフィセ】そのもの魔力に指向性を与える効果はない。そこから派生してどのような魔法が行使されるのかを見極める必要がある。

 なにが起きるのかを三人が見守る中、熊の口が更に続けて新たな魔法を紡ぐ。


「『詠唱、接続。――空よ、我らが掲ぐ真の魔道に平伏せ。偽りの魔王は失墜し、如何なる空隙さえも真なる魔に従属すべし。絶対なる不可視の隔壁を超え、我が一足は千里万里を越えん――【空標流旅ロクスイテル】』」


 魔熊の喉の奥から漏れ出る言葉――詠唱は放っておいて、ラストは構築される魔法陣を解読する。

 そこに編み上げられているのは攻撃系の術式ではなかったものの、彼に深く関わりのある魔法だった。


「……ねぇ、いったいなにが起きようとしてるの?」

「転移魔法だよ。誰かがあの魔熊を標として、遠く離れた場所からここに来ようとしているんだ」


 熊の魂を使って作り出されたのは、ラストがエスの屋敷で飽きるほどに見た転移魔法陣だ。

 本来ならば発動に膨大な魔力が必要なその魔法が、熊の魂から魔力を強引に抽出することで成立させられている。


「来るって、誰が来るっていうのよ?」

「さて、誰かまでは分からないよ。でも、少なくともこの熊に関係している相手だろうね」

「魔熊に関係するって、まさか誰かがわざとこれをあたしたちの森に運んできたとか!?」

「どうだろうね。それを知ってるのは、これからやってくる相手だけさ」


 陣を破壊すれば、相手の転移を封じることが出来る。

 それでもこのような事態に関わった者の思惑を直接その口から聞きたくて、ラストはあえて魔法の構築を邪魔することなく観察し続ける。

 やがて完成した魔法陣が、一際強い光を発する。

 役割を終えた熊が沈黙し再び水に倒れ伏す中、得体の知れない相手が姿を現した。


「……なによ、あれ」


 魔法陣の中から姿を現した相手に、レイが限界まで目を見開く。

 湖の上に浮くようにして立っていたのは、黒を基調とした貴族服を纏った男性だ。

 ただし、その側頭部には羊のように渦を巻いた角が生えている。

 その褐色肌の男性はかけていた眼鏡をくいっと白手袋をはめた手で押し上げて、周りを睥睨した。

 そして、自身の足元で魔熊が死んでいることに気づく。


「……ふむ。これはいったいどのようなことが起きたのでしょうか? せっかく調教した【裂爪熊ラセルウルサ】が殺されているとは……そこの人間ども、説明していただけますね?」


 そう、異様な雰囲気を漂わせる男性――羊角の魔族は嘆息しながら、熊の喉から放たれたものと同じ声でラストたちに問いかけた。

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