第75話 破熊作戦―③


 本日二度目の落下感を味わった魔熊が、慌てて抜け出そうと手足を暴れさせる。

 またあの地獄のような苦痛を味わってはならないと、最初から全身全霊を以て暴れ出す――しかし、今回落ちた場所からはそのような不快な感触が伝わってこない。それに気づいて、熊はふと首を傾げた。

 熊の想像とは異なり、今回落ちた場所はただの湖だった。

 普通の動物たちにとっては重要な水飲み場であり、村人も同様に水浴びなどに利用する場所。そこんじ後処理の面倒な罠を仕掛けることは、さしものラストも提案しなかった。

 加えてそこは、魔熊の巨体であれば足を伸ばせば普通に歩くことも出来る浅瀬だ。

 本当になにもないことに、熊は心底安堵した――そのなにもないこと・・・・・・・そのものが、罠であるとも知らずに。


「――くらえや、次はそっ耳だべ」


 ほっと胸を撫でおろす魔熊は、棒立ち状態になる。

 その狙ってくれと言わんばかりの隙を、ルークが見過ごすはずもない。

 大きく引き絞られた魔弓から放たれた矢が、ぴんと立っていた魔熊の両耳を立て続けに奥まで穿った。


 ――ぐぅあ゛お゛お゛お゛っ!


 視覚に続けて今度は聴覚までも奪われた熊が、痺れるような耳の痛みと喪失感に悲痛な雄叫びを上げる。

 やはり鏃は脳まで到達しなかったようで、魔熊が倒れ伏すような気配は一向にない。

 それでもルークの狙いは十分に達成されていた。

 熊はなんとか頭の横に走る激痛をこらえようと、四肢に力を込める。

 しかし、それらが突如がくんと崩れてしまった。


 ――が、がうぅあっ!?


 混乱と共にばしゃんっ、と熊の巨体は湖の中に倒れ込んでしまった。

 立っていれば浅瀬であっても、倒れてしまえば口や鼻のところが水が覆われてしまう。

 呼吸困難になるのを本能的に回避しようとして立ち上がろうとしても、その足は小鹿のようにぷるぷると震えてもつれた挙句、巨体を支えきれずに再び水の中に屈してしまう。


「……うし。こいつもうまくいってんな」


 その様子を見て、ルークは狙いがうまく行っていることに頬を緩ませた。

 すかさずその油断を引き締め直してから、彼は何度も経とうとしては転倒する熊の様子を観察する。

 ――熊の耳を射抜いた矢の狙いは、その最奥に鎮座する脳味噌ではない。

 その手前、鼓膜からもう少しだけ奥にある三半規管を傷つけることだった。

 三半規管を傷つけられた生き物は、平衡感覚を消失する。

 目も見えず、音も聞こえず、自分がどこを向いているのかさえ分からない。

 そんな状況の今の魔熊は、大酒を飲んで泥酔し千鳥足となった人間と変わりない。

 四肢のどこに、どれほどの力を込めれば良いのか。どこが上で、どこが下なのか。自分と世界の位相がズレたかのような感覚に陥って、ふらふらと足がこんがらがってしまう。

 そうして立つことが能わず、水の中に崩れ落ちることを余儀なくされる。

 ――そこに待ち受けているのは、炎熱でも悪臭でもない。

 息をしようと開けられた大口から、肺の中に次から次へとなだれ込む――ただの水だ。


 ――ぐお゛っ、ぐお゛お゛っ、ごぼっぐぅあ゛あ゛ぅお゛お゛お゛っ!


 魔物であろうと、動物に属するのであれば須らく呼吸しなければ生きてはいけない。

 そんな、普段は意識しないが当たり前の事実を、呼吸に混じって肺を侵略する湖水が侵していく。

 いくら身体が鋼の如き固さを持とうと、なんの障害にもならない。

 光と音を失った世界の中、魔熊は襲い来る水によって呼吸困難に陥り、溺れてしまう。


 ――げぼっ、がっごぼぼぼっ!


 この新たな地獄から逃れようと、魔熊はがぼがぼと呻き声を上げながら藻掻き続ける。

 その行為がなおさら体力を削って、体勢を立て直すための力を失う行為であるとも知らぬまま。


「――起こさせかよぉっ!」


 ぜいぜいと呼吸を乱しながらも、なんとか震える手足で立ち上がれそうになった魔熊。

 しかし、そこから脱出しようとする雰囲気を見せた相手を容赦なくルークの魔弓が縫い留める。

 藻掻く最中で矢が引っこ抜けた眼窩へと、彼の矢が再び突き立った。


 ――ぎゃお゛お゛ぅっ!?


 身を捩じらせる激痛に、魔熊は奇跡的に成り立っていた体勢を崩してしまう。

 脳に直接訴えるような激痛に、熊の身体はまたもや水の中へ押し戻された。

 せっかくうまく行ったところに水を差されて怒りに燃える魔熊が、もう一度起き上がろうとするより先に、感情のままに両腕を振るってやたらめったらに周囲に斬撃を飛ばす。

 しかし水に遮られた遠距離斬撃は大した飛距離もなく、咄嗟に伏せたルークの下にすら届かなかった。

 

「ふーっ、ふーっ……。ええぞ、こん調子じゃい……。忘れんな、オラは弱ぇんだ……」


 未だ魔熊はルークの手中に嵌っている。

 しかし、彼はそれでもなお一瞬たりとも気を抜こうとはしなかった。

 ふとした瞬間に目前の無様な様子を嘲笑したくなる気分を必死になって押さえながら、熊の起き上がろうとしたところを狙いすまして穿つ。

 度重なる恐ろしい罠によって疲労困憊になっていようと、相手は魔物だ。

 その手足は動きを鈍くしようと、まだまだ人間の身体を容易く肉団子に変えてしまえるほどの力を有している。

 その巨体が完全に沈黙するまで油断は禁物だと、彼は強く己に言い聞かせる。

 それでも徐々に興奮によって荒くなってしまう息をなんとか押し殺しながら、彼は無心になって魔熊が立とうとするのを阻害すべく矢を放つ。

 ――射る。

 ――射る。

 ――射る。

 眼球を、舌を。耳を、喉を、尻の穴を。皮が焼けて剥き出しになった肘や膝の裏を、爪と肉の隙間を。

 ありとあらゆる剥き出しの弱点を、ルークの矢が断続的に傷つけ続ける。

 眞熊がちょっと我慢して痛みが治まって、ようやく立てそうになったかと思えば、そこを再び射抜かれて激痛に倒れてしまう。そうして呼吸の粗くなったところに湖の水が流れ込んで、空気が足りないと喘ぐ肺を存分に痛めつける。

 やがて水が溜まってきて痛んだ肺の奥から吐き出されたものに、赤いものが混じり始める。

 それでもルークはひたすらに矢を射かけることを止めない。


「苦しいだろぉなぁ、痛ぇだろぉなぁ……んでも、おっ父の方が何倍も痛かったにと違ぇねぇ!」


 熊が完全に立たなくなるまで、彼は弓に矢をつがえることを止めはしない。


「……っ! ……おらっ! ……、……そこだぁっ!」


 一つ目の矢筒が空っぽになればそれを打ち捨て、近くにあらかじめ置いてあった予備のものに手を伸ばして新たな矢を引き抜く。

 そこにしまい込まれていたたっぷりの矢を、ただひたすらに射出し続ける。

 何度も何度も、立ち上がろうとする動きを食い止める。

 そうしてやがて、三つ目の矢筒がすっかり軽くなった頃――。


 ――うぐあ゛っ、がぶぅお゛お゛お゛っ……。がぽっ、がぼぼっ……。


 ついに、魔熊の巨体が立ち上がる気配を全く見せなくなった。

 吐き出される息も絶え絶えになって、気配がすっかり死人のそれに近くなっている。


「……ようやく、か?」


 そう希望を口にしつつも、ルークは弓につがえた矢を下ろそうとはしない。

 怪しんだルークは気配を殺し、水音一つ立てずにしばらく待機してみる。

 ――もしかしたら、死に体を装って死亡確認に近づいてきたところを返り討ちにする魂胆なのかもしれない。

 そんな疑いを胸に抱きながら待ち続けて――およそ十分。

 未だにしぶとくこぽこぽと息を繋いでいるものの、それは余りにもか細い。

 ぐったりと倒れ伏したままの熊の身体は、いよいよ呼吸も辛くなってきているだろうに、一向に最後のあがきをしようとする素振りを見せない。


「……こんなら、大丈夫か? ……んなら、こいつで終いにしたるか」


 慎重に様子を窺いながら、ルークは魔熊がようやく本当に死にかけているのだと判断した。

 それに頷いた後、彼は残っていた矢の中から特別大きいものを引っ張り出した。

 ほのかに茶色がかった純白の矢――魔物の骨から削り上げた、本当にトドメを刺す時の切り札だ。

 それを持ちながら、ルークはざぶざぶと熊の正面へ向かって移動する。

 敵が間近に迫ってきているというのに、熊はもはや何の反応も返さない。

 全身が焼け爛れ、至る所に矢を生やした魔熊。


「……おっ父の仇だ」


 その潰れた瞳を睨みつけながら、彼は仰々しく魔獣の弓を構えた。

 狙いは唯一矢の刺さっていない、魔熊の鼻だ。

 ――鼻の穴は脳へと繋がっている。昔の人々が儀式で遺体を傷つけないように脳みそを抜き取ろうとして鼻から掻き出していたというラストのうんちくを思い出しながら、ルークは弓を全力をかけて引いていく。

 ぎしりと歯を食いしばり、腰を低く落として全身で弦を引く。

 不思議なことに、どれほど魔物を倒しても空虚感に満ちていた彼の身体には今、溢れんばかりの熱が漲っていた。

 ――父の仇を、心に残っていた後悔をここで超えるのに、全力を尽くさないでどうする。

 そう言わんばかりにルークの筋肉が脈動し、魔弓を強く引き絞る。

 そうして見据えた先で、かひゅー、かひゅー、と虫の息で僅かに上下する鼻の穴弱点

 慎重に機を見計らい、それが完全に脳まで繋がったと意識した刹那。


「――ねや、クソ熊ッ」


 呪いを込めたような一言と共に、ルークは溜めに溜め込んだ重矢を放った。

 その矢は真正面に位置する熊の鼻腔へと突き刺さり――そのままぞぶり、と頭蓋の奥までを一気に貫いた。

 びくん、と熊の身体が不自然に跳ねる。

 四肢が痙攣し、ずちゃんっ、と水しぶきを立てて巨体が完全に水に浸かった。

 開かれた顎の中からだらんと矢が剣山のように突き立った舌が水面を漂うように伸びる。

 ぐったりと広がった五爪が、重りのように湖中に沈んでいく。

 どこからどう見ても、その生気を失った身体が二度と起き上がるようには見えなかった。


「……やった、ってのか?」


 それを見て、ルークは思わず自身に問いかけた。

 本当にあの、父の胸を息子の目の前で貫いた魔熊が死んだのか。

 激痛に苛まれ、悪臭に鼻を曲げて、身体の至る所に矢を生やして苦しみの中に死んだのか。


「……やった。ああ、やったった。こいつは死んだ、死んだったっ……!」


 それを何度も頭の中で確認して、ようやく魔熊の死が現実だと認識出来た途端――ルークは身体を水面に投げ出して、大きく笑った。


「ふっ、ふははっ、ふはははははっ……はははははははははははははははーっ!」


 どうしてか、彼は胸の内側から笑いが込み上げてきて仕方がなかった。

 今ひとつ実感のなかった他の魔物の討伐とは違って、溢れんばかりの快の感情が全身を駆け巡る。

 感情を抑え込んでいた緊張感が切れて、緩むと同時にどこにそれだけのものが隠れていたのかと思うほどの充足感が彼の心と身体を満たしていった。

 水面に上向きに浮かびながら、ちらりと横目で熊の死骸を見やる。

 なんとも徹底的に叩き潰された熊が、情けない姿を晒している。

 その光景が心底心地よくて、どうにもルークはこの感情が止まらなかった。

 これまでにない達成感に満たされて、彼は天を仰ぎながら高笑いをひたすらに繰り返していた。




 ――だからこそ、彼は気づかなかった。

 完全に死んだはずの熊の瞳に、ぎらりと赤い不穏な輝きが宿ったことに。

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