第74話 破熊作戦―②
戦況を自分の目で確認することが出来ず、悶々としているレイが問う。
「それで、今のところはどうなの?」
「一つ目の予定地で熊が暴れ回ってる。ルークはそれを近くから窺ってるみたいだから、順調なんだと思うよ。ほら、よく見れば薄い煙がたなびいてるだろ?」
「……んー、ダメ。見えないわ。ここまで遠いとほとんどなんにも、ね」
彼女は目を凝らしてルークのいるであろう場所を見据えるが、首を振る。
「魔物が近くにいると安心できなさそうだったから、これくらい距離を取った方が方が良いかなって思ったんだけど。気になるなら一緒に降りようか? そろそろルークも次に移動する頃合いだろうから、火の様子を見に行かないといけないし」
「……ええ、ついてっても邪魔にならないなら、あたしも行くわ。ごめん、やっぱりどうしても気になっちゃって」
「問題ないよ。なにがあっても、君たちのことは僕が守るから」
申し訳なさそうに立ち上がった彼女に、提案したラストが手を差し出した。
それにそっと手を乗せて、たとえ見えなくても、レイはルークが戦っているであろう場所を見下ろす。
「それならお願い。……なんだかんだであたしもこの計画に一枚噛んでるんだし、見届けたいの。この戦いの結末を、直接ね」
「その気持ちは僕も痛いほどわかるよ。それじゃあ行こう、ルークたちの近くへ」
軽く彼女の腕を引っ張って、ラストがレイの身体を軽く抱きかかえる。
そのまま彼は、山肌を滑空するように飛び降りた。
重力に従って加速しながら、彼もまた遠く離れたルークの様子を注視する。
「……それに、何事もなしに終わるとも思えないからね」
腰に携えた木剣と、もう一つのとある古びた武器の感触を確かめながら、彼は今まさに戦いが行われている場所を鋭く見つめた。
その先で幽かに、野太い熊の遠吠えが木霊した。
■■■
――ぐお゛お゛お゛お゛お゛お゛ぉ゛んっ!
ぷすぷすと全身から余韻の煙が立ち上る魔熊。
しかし、残念なことにその身体はほとんど健在も同然だった。
艶のある漆黒の毛皮はほとんどが焼け爛れてしまっているが、その下の丸太よりも分厚い筋肉は何一つ欠けてはいない。
むしろ大やけどを負った分いっそう恐ろしい形相となった熊が、鼻息を荒くしてルークへと襲い掛かる。
その強靭な四肢で地面を蹴り飛ばし、小屋一つ分ほどもあろう巨体が敵対者を押し潰さんと突進を開始した。
どすんどすんと一歩ごとに小規模の地震を起こしながら迫る巨体に、ルークはすぐさま身を潜めていた木から飛び降りる。
「どぅおらっ!?」
変な声を出しながらも、なんとか彼は熊の突進に巻き込まれて挽肉になる事態を避けることが出来た。
しかし熊の巨体が放つ風圧に体勢を崩されてしまい、若干無様な体勢でべちゃりと着地することになってしまう。
すぐに立ち上がって足をくじいていないかを確認しながら、ルークは熊の消えていった方を見やる。
「……っち、あんなのくらったら洒落になんねぇぞ」
魔熊はルークの乗っていた木を含めて五、六本ほどを圧し折ってようやく止まっていた。
その容易く引き起こされた燦々たる光景に舌打ちしながらも、ルークはすぐに腰の矢筒から新たな矢を引き抜いた。
先端が二股に分かれた奇妙な矢――これもまた、ラストの用意した特殊な鏃だった。
先ほどの火矢にはよく燃えるような細工が施されていたが、今度のものはこれまた一味違う。
軽く引き絞った弦からその矢を解き放てば、ぴゅいいい……と甲高い音が周囲に鳴り響いた。
貫くことが目的ではないために、その矢は熊の額をぺちりと小突くだけで地面に落ちてしまう。
その挑発のような鏑矢を受けて、熊は音の鳴った方を振り返る。
「けっ、来れるもんならこっちゃ来てみろや!」
ルークが更に続けてもう一つ、耳に響く不思議な音の矢を放つ。
それを受け取った魔熊は、再び目標を定めて前足で地面を掻き始める。
――ぐぅお゛お゛お゛お゛お゛お゛っ!
そして、どろどろとした怒りの感情をこれでもかと発露させた熊が雄叫びを上げながら突進を再開した。
先ほど自分が打ち倒したばかりの木の残った株を今度は蹴り飛ばして、騒音を発しながら迫りくる巨体。
「っとうおっ!? 当たってたまるかってんだ!」
それを見たルークは今度は矢を射かけることなく、一直線に逃げ出した。
自身のすぐ傍を小規模の暴風が駆け抜けていくことに恐怖を感じながらも、彼は脱兎のごとく走っていく。
そうして再び目標を失った熊が耳を澄まそうとすれば、
「オラはこっちだってんだ、ほら来いや!」
そこへ誘いをかけるようにもう一度音の鳴る矢を放つ。
それに釣られた熊が、今度こそはと再び突進を開始する。
バキバキと森の環境を力任せに破壊しながら直進してくる熊の速度は確かに驚異的だった。
しかし目が見えていないということもあってか、うまくルークを捉えることが出来ない。
「ふんっ! ……まだまだだっぺさぁ!」
全力で森を駆け抜けるルークに対し、矢の音だけを頼りに狙いを定める今の魔熊の突進が当たることはない。
ルークは矢を放つと同時にその場を離れているのだから、魔熊が彼に攻撃を当てることは実質的に不可能だった。
そんな一方的に挑発を積み重ねられるだけの状況が鬱陶しくなったのか、魔熊が足を止めてのそりと立ち上がった。
「んぁ?」
突然背後から木々の砕ける音が聞こえなくなったことを不自然に思い、ルークが振り返る。
すると、立ち上がった魔熊がどう考えてもその自慢の爪が届かない距離であるにも関わらず、大きく腕を後ろに振りかぶっているのが見えた。
「――まずっ!?」
それを視認したと同時に、ルークは横へ跳ぶと同時に地面に這いつくばった。
――ぐぅお゛お゛お゛お゛んっ!
がなり立てる熊がその巨腕を勢いよく振り切った。
それと同時に、爪から放たれた衝撃波が不可視の刃となって放たれる。
それによって、先ほどまでルークのいた場所が一瞬のうちにズタズタに引き裂かれてしまった。
「あっぶねぇ……。まじでんな攻撃やってくったなぁ……」
その光景を恐る恐る眺めながら、ルークはほっと無事である我が身に胸を撫でおろした。
もし今の攻撃に触れていれば肉どころか骨まで千切れていただろうと簡単に想像がついて、彼の背中を冷や汗が伝う。
「ったく、あいつに言われてなきゃ避けれんかっただろぉな」
ルークが間一髪のところで回避できたのは、ラストによる事前の助言があったからだ。
発達した部位からは時に想像もつかない攻撃が飛び出すことがある。今回の場合であれば成長した爪から魔力の刃を飛ばしたりなどの遠距離攻撃の可能性もあるとラストが予想しており、それがぴたり的中したのだった。
なんとも恐ろしい攻撃に、普通の生き物であれば為すすべなく切り刻まれてしまうに違いない。
現に熊もそう考えていたのか、ふんふんと耳を澄ませるばかりでルークが死んだと思っているようだ。
その間違いを正すべく、彼は再び鏑矢を射かけて熊に己の生存を教えた。
透き通った風切り音が鳴り、熊は襲撃者がまだ生き残っていることを知る。
すぐさま追撃に移ろうと突進を再開する熊に対し、ルークはまた駆け出した。
そうして突進されては居場所を知らせてはを繰り返していると、彼はいつのまにか次の目的地が近づいていることに気がついた。
「はぁ、はぁっ……っしゃ、ここまでくりゃあ……っ!」
既に限界を訴えつつある両脚に鞭を打って、ルークは一気に残りの距離を走り抜ける。
やがて辿り着いた目的地の傍で足を止め、最後の鏑矢を放った彼は熊の突進が絶対に当たらないであろう位置まで退避した。
――ぐお゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛お゛お゛っ!
少し遅れてやってきた熊は、自身の聞き分けた音を疑うことなく直進する。
そうしていつかルークに痛い目を見せられることを信じて、尽きることの無い馬鹿力で森を突き進んで――またもや足を踏み外す。
――ぐお゛お゛っ!?
勢いのついた巨体は踏みとどまることも出来ず、そのまま大砲が着弾したような音を立てて、次の舞台である湖へと落下した。
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