第73話 破熊作戦―①


 やがて三人が全ての仕込みを終えた頃、太陽は既に中天に昇っていた。

 明るい日差しが森の様子を事細かに照らす中、ラストはレイと共に見晴らしの良い山の斜面の一角に陣地を築いていた。


「……なにも見えないわね」


 冷え込む高所の気候に対抗するように、仕込みの過程で出た大量の毛皮を身に纏ったレイが僅かに身を乗り出しながら言う。

 眼下の森のどこにルークが潜んでいるかは説明を受けているものの、木々の枝に邪魔されてはっきりと視認することは難しい。頭で分かっていても実際に見ることが出来なければ不安になるようだ。

 対してラストの方は、万が一に備えてしっかりとルークの動向を魔力で確認している。


「僕の方は見えてるから、作戦の進行具合やルークの現状はその都度教えるよ」

「ずるいわね。いったいどうなってるのよ? 葉っぱが邪魔でなにも見えないのに」

「今は魔力でものを見てるからね。魂があるものなら隠れていようとお見通しなんだ。今ルークは……うん、予定通りの場所に待機中だよ」

「ずるいわね。その眼、片方貸してくれない?」

「いくら魔法使いだって、なんでも簡単に出来るわけじゃないんだよ? しかるべき道具と場所がないと」

「あれば出来るのね……冗談のつもりだったのに」


 作戦開始までの暇を雑談で潰していると、視線の先でルークが動きを見せた。

 そこから少し離れた場所では、昼食のためか山肌を降りて森に入った熊が獲物の匂いを嗅いて散策しているようだ。

 そして、いっとう強い新鮮な肉の臭いを嗅ぎつけたようで――熊は、ゆっくりとルークの目前へ近づき始めた。


「さあ、狩りの始まりだ。僕たちの合作【破熊作戦ウルサモルテ】、特とその眼で御覧じろってね」

「あんたが言うと、なんか決め台詞のはずなのにロクでもないように聞こえるわね。というか話し合いの時も言ったけど、その名前なによ。ルークとあんたはやたら気に入ってたけど、あたしはあんまり……」


 雰囲気を壊すようなレイの言葉を無視して、ラストはルークと魔熊双方の動きに目を凝らす。

 基本的な手順は普段と変わらない。隙を作りだし、そこを必殺の矢で穿つ。

 ただその過程が少々複雑で、ルークとレイに言わせれば多少冒涜的なものになっただけだ。

 ――ラストには、それら全てをルークが完遂できるよう祈ることしか許されない。

 協力することは出来ても、これはルーク自身が成し遂げるべき成長なのだから。

 やるべきことを終えた今のラストに出来るのは、その仲間が無事に戦を終えられるよう願うことだけだ。

 辛く苦しい現実を己が力で克服できるように導く先達ならではの緊張感は、己が戦いに臨む時よりも更に辛くもどかしい。

 しかし、あくまでも、ルークが本当に危険な状態に陥るまでは手出ししてはならない。

 故に、ラストは強く願う。

 今まさに心の壁を乗り越えんとする者の勝利を。

 ――どうか、ルークがかくも強大な肉親の仇に打ち克てるように、と。



 ■■■



 ぬるりと滴る手汗をゆっくりとズボンで拭い、再度弓を構え直す。

 ルークがこうするのは、これでもう五回目だった。焦る感情を抑えようとしても、どうにも気分が休まらない。

 ――それもこれも、視線の先で悠々闊歩する魔熊のせいだった。

 あれが父の命を喰らったのだと思うと、その姿が近づく度に心臓の鼓動が高鳴ろうとする。脳髄の奥がギチギチと怒りに軋もうとする。

 ――だが、それも全て今の自分には不要なものだ。

 焦りに籠る体内の熱を深呼吸で吐き出し、ルークはラストの立てた作戦を改めて頭の中で反芻した。

 隙を作り、穿つ。

 その大筋は普段のルークの狩りのものとなんら変わりない。

 だが、今回の標的はこの森でも明確に格の違う巨大な魔熊だ。

 隙を作るだけでも一苦労だったと彼は午前中を振り返る――そのためだけに、その時間の大半を費やしたのだから。


「……」


 ルークは自身の方へと、徐々に近づいてくる魔熊から一瞬たりとも目を離さない。

 ――そうだ、そのままこっちゃ来いや。

 風下にいる彼に熊が気づく様子はない。ひっそりと息を殺したまま、心の中で手招きする。

 そう、そのまま……自分たちが仕掛けた罠に誘引されろと魂で呟く。


 ――がう?


 ルークの潜む樹上から少し先にうず高く積まれた、血の滴るような肉の小山に熊が首を傾げる。

 明らかな罠だ。肉が丁寧に皮の処理までされた上で放置されているなど、獣の頭でも近寄るべきではないと理解できるに違いない。

 ――だが、目前の魔熊はこの森の魔物の王とも呼べる存在だ。

 その身体に毒や罠は通用せず、これまでに幾多の仕掛けを食い破ってきた暴王としての自負がある。

 故に、魔熊は前傾姿勢のまま、慢心のままにのっしのっしと四つ足歩きで餌の下へ進む。そして、空腹を満たそうと大口を開けて――。


 ――ぐぅあ゛あ゛あ゛あ゛っ!?


 その頭で予想出来た通りの罠――古典的な落とし穴にまんまと頭から突っ込んだのだった。


「……うっし」


 ラストが協力したことにより完成した、その巨体を優に落とし得る落とし穴。そこに嵌まった熊が、脱出しようと手足をバタバタと動かす。

 だが、それは叶わない。

 その落とし穴の中には脱出を阻害するための潤滑剤がこれでもかと注ぎ込まれていたからだ。暴れれば暴れるほどにそれらは毛皮の隙間に絡みつき、うまく壁や穴の淵を掴めなくなる。

 ――しかも、そこには更にルークとレイを以てして鬼や悪魔のようだと言わしめたラストの知恵が潜んでいた。

 熊を手間取らせている潤滑剤の正体、それはラストが取り急ぎ狩ってきた獲物たちの油脂だ。

 ただし、そこに混ぜ込まれたものは脂だけでは済まされない。

 内容物が未処理のままの内臓や毒性植物を乾燥させた粉末など、悪質極まりない素材を練り込むことで、脂は悪臭漂う謎の粘性体へと変貌を遂げていたのだった。

 それらが慌てる魔熊の鼻や口の中から誤飲によって次から次へと体内に侵入し、嗅覚と味覚をこれでもかというほど拷問していたのだった。

 粘膜を焼き尽くす激痛と悪臭に喘ぐ魔熊、その残虐な光景を前にルークは淡々と次の準備を進めていく。

 半ば目を逸らすように作業しながら、彼はラストから説明を受けた時のことを振り返る。



 ■■■



 森に罠を仕掛けている最中、むわっとした生臭い匂いに包まれながらラストが口を開いた。


「ねぇ、どうして魔力を纏えば強くなるか分かるかい?」

「は? なんだ急に。……どうしてって、そういうもんだからだろ」


 余計なことは言わずに手を動かせと睨みつけようとして、ルークはすぐにそれを訂正し答えた。

 それが今回の作戦に必要なことだと悟ったからだ。


「その原理について知っておいて欲しいんだ。……魔力とは魂から漏れ出た力の発露だ。元が自分のものだから、その意志を反映させて自在に動かせる。僕が糸のように使ったみたいにね」

「それで?」

「他にも、魔力をなにかに流して強くあれと願えば、対象がそうなるように働きかけることが出来るんだ。魔物が強い理由はこれさ。強くあるのが当然という意思を魔力を通して体全体に循環させることで、より強固な肉体を恒常的に維持することが出来る。自分が強いと信じるからこそ強い。強いからこそ、自分の強さを信じられる。これが魔物が強い理由なんだ」

「……おう? だいたい分かったような感じだけどよぅ、んでなんだってんだ」

「それを打ち破る方法は二つ。一つはそれ以上の力で強引に打ち破る」

「あぁ……」


 ルークはそんなことが自分に出来るとは露ほども思わなかった。

 目玉を打ち抜くことは可能でも、それは眼球に魔力の強化が及んでいなかったからだ。普通に過ごしていて眼球に強靭さを自覚するような生物など、早々存在するはずもない。


「んで、オラにゃあもう一個が重要だから聞いとけってことか」

「その通りだよ。……魔物は自分が絶対的な強者だと思うから強くなる、だけどそこには細かい穴がいくつもあるんだ。例えば嗅覚。臭いを嗅ぎ分ける力は、危険物を判断するのに重要な役割だよね。だから自然の魔物の間でも特に発達しやすいんだけど、それが強いってことはつまり、臭いものに下手に近づくと?」

「……鼻がひん曲がるよりもひでぇことんなるだろぉなぁ。それがこいつってわけか」


 ルークが、自分が行っている作業へと視線を落とした。

 ラストが軽く仕留めてきた獲物の内臓と脂を取り出し、堀った落とし穴に片っ端から放り込んでいく地道な作業だ。

 もしその中に顔を突っ込んだらと思うと、彼は話を聞いていたレイと揃って顔をしわくちゃに歪めた。

 それに苦笑しながら、ラストは言葉を続ける。


「正解だよ。強化されたものの特徴を逆手に取られても、すぐにそれを弱体化させることは出来ないからね。そして、それだけじゃない。自分がなにかに対して強いと思うから強いのなら、想定外の攻撃なら普通の獲物と同様に効果があるのさ。例えばそう、普通に山で暮らしていれば縁遠い……火攻めとかね」



 ■■■



 脱出しようと暴れる熊をよそに、ルークは腰の矢筒から特別な矢を取り出した。

 先端に布を巻きつけたそれは、一見して殺傷性の低い矢に見える。

 しかしそこにはたっぷりと獣脂が塗りつけられてあり、これが落とし穴の中身と組み合わさることで恐ろしい効果を発揮する。


「さぁて、次はこいつだぁ。さぞ熱いだろうなぁ……んでも、こいつはオラの憎しみに比べりゃまだまだよ!」


 そこに火打石で着火すれば、火矢の完成だ。

 それを魔熊目掛けて放てば、暴れ回ったことによって脂が隅々にまで染みついていた魔熊の毛皮に炎が一気に燃え広がり――。


 ――ぐぅお゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛っ!!


 瞬時に身を覆った灼熱の激痛に、魔熊が身を捩じらせながら悲鳴を轟かせる。

 たとえ熊そのものが耐火性を獲得していたとしても、脂は身体の一部ではない以上魔力の庇護を受けていない。

 一瞬のうちに全身に広がった業火が、慌てる魔熊の恐怖心を大きく煽る。

 野生の獣が普段の生活では目にすることの無い火に本能的な忌避感を覚えることはルークも父から聞き及んでいた。

 目の前の魔熊もそれは同じだったらしく、じたばたと嫌がるように身体を暴れさせる。

 更に運よく表皮には耐火性がなかったようで、ぱちぱちと炎が時間と共に勢いを増していく。


「うおっ、あっぶねぇっ!」


 悶え苦しむ魔熊はなんとか熱から逃れようと暴れて、四方八方に身体を打ち付ける。

 当然周囲には火の粉が舞い散るが、もし火事になりそうな場合にはラストがやってきて消火する手はずになっている。

 山火事になれば大惨事であるがゆえに、普段のルークならばまず考えもしない手段だ。

 だが今のルークがそちらに気を配る必要はない。

 彼は魔熊をしっかりと見据えながら、今度は通常の矢を構えた。

 やがて、暴れていた熊の火も少しずつ鎮火していく。

 それが消える頃合いに、熊が周辺と自身の状態を確認するためにいったん体の動きを止めた。

 今の熊は卑劣な落とし穴と全身の火傷によって、視覚、味覚、そして嗅覚を一時的に喪失している。

 その状態でなにが出来るかを確認しようと棒立ちになった魔熊――それは、ルークにとっては実に良い的だ。

 魔熊が息を落ち着けようとしている隙に、彼は改めてその両の眼をきちんと射抜いた。

 ざくざくっ、と二つ続けて肉の潰れる音が響く。


 ――がうぁっ!?


 ルークの追撃によって、一時的だったはずの熊の視覚の喪失が永久のものとなる。

 火傷の影響で痛覚が鈍っていたこともあってか、魔熊はあまり大きな悲鳴を上げなかった。

 それでも目の辺りを触って、なにかが突き刺さっていることを理解した瞬間、ここでようやく熊は完全に敵対者が存在していることを知覚した。

 今の攻撃の音で認識したルークのおおよその位置へと顔を向けて、魔熊が怒りを露わに吠える。


 ――ぐぅお゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛っ!!


 不埒な襲撃者へ鉄槌を下さんと、魔熊が巨大な咆哮を轟かせた。

 それだけで周囲の木々が騒めき出し、地面が僅かに陥没した。

 ぶるりと首を振って、ざし、ざしと熊が前足で地面を掻く。その強靭無比な発達部位は、若干表面が融解しているもののきちんと切れ味を保っている。

 怒りの形相で見つめてくる熊に恐怖を覚えかけるルークだが、そこに先ほどのラストの説明の続きが蘇る。

 ――怒ったのなら、熊が傷を負ったことを自覚したことになる。つまり熊は君のことを、傷を負わせ得る敵対者と認めたんだ。君から傷が与えられる可能性を受け入れた……すなわち、魔力による防御が薄くなるってことだ。反面、攻撃力も怒りに合わせて増大するけどね。

 そう、怒りは逆にこれまでに存在しなかった魔熊の隙となる。

 隙を作るために起こらせる――つまり、これはルークが狙って作り出した計画通りの光景に他ならない。

 未だ戦いの主導権は自分にあると意識して、彼は身体の震えを抑え込む。


「……さぁて、まだまだこっからだべ。覚悟せぇや、熊公」


 落ち着いた手で弓をしっかりと握りしめ、ルークはここから始まる戦いの本番に目をじっと細めた。

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