第71話 狩人の仇敵


 無言のルークが前方の道を踏み拓き、歩きやすくなったところをレイが服を引っ掛けないように注意しながら通る。その最後尾にいるラストは、いつにも増して周辺の気配に注意していた。

 万が一の場合は、この場で最も強い彼が他の二人を無事に村まで送り届けなければならない。

 そのような事態に早々陥るつもりはないが、それでもルークはともかくレイは狩猟や戦闘について素人だ。彼女の存在が予期せぬ事態を引き起こすことも鑑みて、ラストは普段よりやや広めの範囲を魔力に満ちた視覚で俯瞰する。


「……ねぇ、まだ狩らないの?」


 前方と後方の二人が静かに魔獣たちの動向を窺う中、それに挟まれたレイがつまらなそうに呟く。

 森に入っておよそ三十分ほどが経過したが、その間彼らは一向に獲物に遭遇していない。

 想定よりも暇な時間が続いていることに、レイは飽きが来ているようだ。

 適当に拾った木の枝でぺしぺしと手のひらを叩く彼女に、ラストはそっと囁いた。


「村に近い所の魔物は既に討伐しきったからね。他の魔物を狩るのには、今はある程度奥に潜らなきゃならないんだ」

「あら、そうだったの。でも、それなら普通の獲物は狩らないの? さっき鹿がいたのに、二人とも見向きもしなかったじゃない」

「これはルークの訓練が主な目的だからね。より多くの魔物を狩るのに、普通のに時間をかけたくないんだ。それに魔獣のお肉だけで村には十分だし、持ち帰る必要もない命を奪うと後々に悪影響が出るからね」

「ふーん……果物とか野草を摘むときに少しだけ残しとく、みたいなもの?」

「似たような感じかな」


 雑談をして少しだけ退屈がまぎれたのか、それでレイは納得したようにこくこくと頷いて、再び足取りを速めるのだった。

 そうして退屈を我慢しながら更にもう少し歩くと、突然全身を襲った悪寒に彼女がびくりと足を止めて肩を震わせた。


「……ねぇ、なんか嫌な予感がするんだけど」

「静かにせぇ。ここはもう、魔物どもの領域じゃけぇの」


 その呟きを聞き咎めたルークがごく小さな声で嗜める。

 彼女が察知した危機感の正体は、魔物たちが住まう領域に侵入したことだ。濃密に漂う死の気配に、ただの村人である彼女は怯えに足が竦んでしまったようだ。

 不安に血色を失いつつある彼女の手を、ラストはしっかりと握って己の身体の横に引き寄せる。


「落ち着いて。緊張から来る汗の臭いは、なおさら匂いに敏感なのを惹きつけるから。ルークと僕を信用して、ゆっくりと息を吸って、吐いて……」

「ふぅっ、ふぅっ……ええ。ごめんね。なんだか喉が渇いちゃう」

「水ならいくらでも飲んでいい。だから、まずは呼吸を整えるんだ。……っと」


 彼女に気を配りながらも警戒を張り巡らせていたラストの視界にて、一つの魔力が動き出す。


「さっそく来たよ、ルーク。東からはぐれ猿が一匹だ。良いところを見せてレイを安心させてくれ、こっちはいつも通り隠れてるから心配しなくていいよ」

「……」


 普段の狩りと同じく無言に戻ったルークは、そっと姿勢を低くしつつ魔獣弓オリオンを構えた。


「レイ、気分がすぐれないところだけど失礼するよ」


 ラストはひょいと彼女の身体を抱え上げ、頭上の太い枝へと跳躍した。

 手早く偶然椅子の形状になっていた枝に彼女を腰掛けさせて、水筒を渡してから彼は腰の銀樹剣ミスリルテを引き抜く。

 その先端に薄い蜻蛉の羽根の如き魔力を纏わせ、いつでも加勢できるように体勢を整える。


「さて、ある意味これは試験みたいなものだね。レイに怒られないよう、頑張れルーク」


 眼下に目をやれば、魔猿は先ほどまで三人のいた場所にそろりそろりと木の枝を飛び移りながら近づいてきている。

 だが、肝心の姿が見えないころに少々警戒しているようだ。

 ルークとラストは自前の隠形を施しており、普段は相手側から察知されることは少ない。恐らくは先ほど体調を崩しかけたレイの気配を察知したのだろう、とラストは推測した。

 しかし、今の彼女はラストが先ほどの接触で魔力の膜を纏わせたために気配が薄くなっている。

 故に魔猿は標的をうまく見つけられないでいた。

 ゆっくりと、時折周囲を見回しながら、それでも相手は餌を求めて距離を縮めてくる。

 その動きの癖を分析しながら、ルークはひたすら息を殺して待ち続ける。


「……」


 やがて、猿が次の枝へ飛び移ろうと、全身に力を込めた瞬間。

 ――うきゃっ!?

 ルークの放った矢が、猿の眼前すれすれを通り過ぎていった。

 余りに突然のことに猿は全身を硬直させながらも、矢の飛んできた方向をつい観察する――してしまった。

 次の瞬間、ルークの狙っていた本命の第二矢がその隙だらけの顔を見事に射抜いた。

 一つ目はあくまでの弱点の集中した顔面を自身に向けさせるための囮であり、それに素直に振り向いてしまった時点で魔猿の命運は尽きていたのだった。


「お見事」


 彼女を抱え直してラストが地面に降り立つと、ルークが矢の刺さった猿を持って近づいてきた。


「ほら、これでええだろ……ちょっちしくじったが」


 獲物をラストに突き出した彼は、なぜか不機嫌な様子だった。

 それにレイが怪訝な顔をすると、彼は分かりやすいように死骸を彼女の前に押し出した。


「ちょっ!?」


 急に近づけられた魔物に悲鳴を上げながらも、レイはその死体をまじまじと観察する。

 そうして、彼が顔を顰める理由に気づいた。


「……あら、鼻に矢が刺さってる」


 不幸なことに、魔猿は鼻腔から脳を射抜かれて死んだのだった。その恐怖の対象とは思えない死にざまに、彼女は不謹慎と分かっていつつもついくすりと笑ってしまった。


「……外れなかっただけ良かったってことにしておこう。こういうこともあるさ、うん」

「なんか釈然としねぇ。……んでよ、これでええんか?」


 ラストの慰めを嫌そうに受け取りながら、ルークはレイに確認を取る。

 その言葉に気を取り直した彼女は、慌ててぺこりと頭を下げた。


「え、ええ。本当にあんた、魔物を倒せるようになってたのね。ほっとしたわ。……疑ってごめん。あんたたちの言ってたことは正しかったわ。凄いじゃない、ルーク」

「はっ、こんなもん。レイちゃんの横のこいつに比べりゃまだまだ大したことねぇさ」


 そう卑屈気味に謙遜するルークに、レイは「そんなことないわよ」と詰め寄った。


「なに言ってんの、魔物を倒せるだけでとっても凄いことなのよ。そんなうじうじしてないで、ちゃんと胸を張ったらいいじゃない」

「……だったら、ええんだけどな。すまん、今はなんか、そんな気分にゃなれねぇんだ」


 なにやら純粋に喜ぶことが出来ていない様子のルークに、レイはこてんと首を傾げる。

 だが彼は詳しいことを語ることもなく、ラストに魔猿を押し付けて再び前の方へと戻っていった。

 後に残される形になったレイが、最近のルークに詳しいはずのラストに問う。


「……どうしちゃったのよ? なんか暗くないかしら。もっと喜んでもいいって思うんだけど」

「うん。僕も正直そう思うけど、よく分からないんだ。初めて魔物を倒した時も、あまり声を上げたりしなかったし。技量自体は成長してるから、傾向的には悪くないと思うけれど……」


 ラストは警戒に戻ったルークをじっと見つめる。

 その背中は以前狩りの手本を見せてもらった時と同じく、いたって真剣な狩人そのものだ。余計に騒ぐことなく、冷静に虎視眈々と獲物を狙う理想的なありさま。

 それは、以前と何一つ変わっていない。

 彼が五頭獄犬クイントロスを倒した時には無意識の内に雄叫びを上げたものだが、ルークにはそう言った変化が見られない。

 まるで、まだなにか、それが出来ない理由が残っているかのような――。


「ひとまずは様子を見るつもりだよ。このまま順調にいけば、一週間と経たないうちに一人で魔物を狩れるようになるだろうからね。それが終わってから、改めてなにかあるのか聞こうと思う。今の彼の心を乱して、成長の阻害をしてしまうのは……」


 ……もったいない、と言ってしまいそうになった時にラストははっと思い出した。

 彼自身が五頭獄犬クイントロスを打ち倒した際の達成感は、ただ目の前の壁を乗り越えたというものだけではなかった。それまでは深く意識していなかった両親から刻まれた辛い過去の呪縛、それを自ら振りほどいたことへの解放感が大きかった。

 そして、それを後に振り返った際に、エスはもっと早くに自分が気づいてあげていればとベッドの上でラストに愚痴をこぼしていた。弟子の辛い過去を見抜いてあげられないなんて先達として失格だった、とも。

 他ならぬラストのために悔いていた、彼女の涙の記憶。

 それが、誤ろうとしていた彼の考えを正しい方向へ打ち直した。


「……いや、それじゃ駄目か。兆候に気づいたなら、放置するなんて指導者失格……うん、駄目だ。やっぱり早いうちに確認していた方が良さそうだ。今日は早めに切り上げて相談の時間を取ろう。レイ、この件については後でルークと話してみるよ」

「ええ、お願い。あたしだとつい喧嘩腰になっちゃうし。……ラストに協力するって言ったけど、なんだかんだ逆に足を引っ張ってるわね」

「そんなことはないさ。今の話だって、君に言われなきゃこのまま見過ごしてしまうところだったし。ちゃんと助かってるよ」

「それなら良いけど……」


 申し訳なさそうな顔をするレイに首を振りながら、ラストはルークの内心を少しでも理解しようと、彼の様子に神経を尖らせた――その瞬間。


「――っ!」


 ルークの身体が、びくんと震えた。


「ルーク?」


 話の矢先に奇妙な反応を見せた彼にラストが呼びかけるが、答えがない。

 ルークはなにも言わず、ただ僅かに顔を上げて遠くを見据えていた。

 その先に広がるのは森の深層――ラストが最初に転移してきた場所でもある、悠々と聳え立つアストレア山脈に続く場所だ。その山肌と森の間際周辺の緑と茶色が入り混じる空間を、ルークの目が食い入るように見つめて離さない。

 その異様な雰囲気に、ラストは正気を確かめようと彼の下へと近づいた。


「ルーク。……ルーク!」


 一度ならず二度呼び掛けても、返事がない。

 彼は視線の先にいる存在に完全に心を囚われているようだ。


「ラスト、どうしたのよ?」

「さあ、僕にも……」


 さっぱり状況が掴めないレイの代わりに、ラストはルークの見つめているなにかへと同じように目を向ける。

 視線の高さと角度を合わせ、彼の見ているであろう地域の周辺を探る。

 しかし、余りに遠すぎてなにがいるのかよく分からない。辛うじて、ぼんやりと黒いものが屹立しているように見えるが――。


「……なんだ?」


 その正体を確かめようと、ラストは強化魔法を施した目で凝視する。

 それでようやく、ルークの見つめていたものの全容が露わになった。

 ――それは、熊だった。

 ただし、通常の個体のおおよそ二倍はあろうかという巨体を誇っているが。

 眼孔は赤く血走ったように輝いており、血に飢えたように鋭い。

 また、あらゆる敵を引き裂くような黒い巨爪が前腕の中ほどにまで隆起して、半ば腕甲と化している。

 明らかにこの森の生態系とは一線を画する、凶悪な面構えの魔物だ。


「あれは……魔熊? いや、ただの魔物に変異した熊の範疇には収まらない……例えるなら、この森の主みたいなものか」


 ラストの感知圏外に生息する魔物にどうしてルークが先に気づいたのか、彼には分からなかった。

 だが、ルークが見つけたからと言ってそのまま彼に任せるつもりはなかった。


「さすがにあれは、僕がやるよ。どうやら魔物の中でも特別な変異を遂げた個体みたいだ。そこらのとはわけが違う――それに」


 ラストは薄く魔力を伸ばして、一時的に森の全体を俯瞰する。


「他にあれほどの個体はいないみたいだ。それならルークが挑戦する必要もない。まだこっちには気づいてないみたいだし、いったん引いて、後で僕が倒してくるよ。だから、他の獲物を探そう――ルーク?」


 魔熊の目の届かない場所へ移ろうとラストが促すも、ルークは何故か魔熊の方へと足を踏み出した。

 まるで、あの獲物に引き寄せられるように。


「待ってくれ。分かるだろう、あれは他の魔物とは別格だ。無理に危険を冒す必要はないんだよ」


 彼は引き留めようとルークの腕を掴むが、まるで止まろうとしない。

 その異常な様子に、一度鍛錬を中断して無理にでも村に引き返そうかとラストが考えた途端、ルークがぼそりと漏らした。


「……あいつだ」

「え?」


 その時のルークの声には、鉛よりも重い感情が籠っていた。

 それはかつて、宴の夜にぶつけられたものよりも更に激しく燃え盛る――怒り。


「あれだ。あいつだっ。……あいつ、おっ父を殺した奴だっ!」

「なんだって?」

「なんですって?」


 そう小声ながらも強く叫んだルークに、ラストとレイは思わず声を上げた。

 ぎりぎりと、ラストの掴んだ腕に力が籠る。煮え滾るような魂の震えが、ルークの体内を駆け巡る。


「ああ――そうか。なるほどなぁ、そういうこったか。ようやく分かった、オラのやらなきゃならんことが」


 一人納得したように頷くルークが振り返る。

 その顔には悲壮と激昂、二つの感情が入り混じった複雑な表情が浮かんでいた。


「手ぇ出してくれんな。アイツはオラの獲物……じゃねぇ。オラの、おっ父の仇だ。オラが殺したらなきゃなんねぇんだ。……そうだ。あいつを乗り越えなきゃ、オラはいつまで経っても先に進めねぇ」


 それを聞いて、ラストは彼が魔物を倒しても喜びの声の一つも上げなかった理由を察した。

 ルークの心はいくら魔物を倒そうとも満足していなかったのだ。

 その辺にいる魔物をいくら倒そうと、あの魔熊には及ばないとなれば素直に喜べるはずもない。

 そう、かつて自身の目の前で父の命を奪った仇敵を己の手で仕留めるまで、ルークが心から喜ぶ時は来ない。

 ――あの熊こそが、ルークがその手で下剋上を成し遂げるべき真の敵なのだ。

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