第66話 魔獣弓オリオン


 二人が約束を交わしたその日の午後、ラストはさっそくルークと連れ立って森へとやってきていた。

 しんしんと木漏れ日が降り注ぐ樹海の中を、ラストは散歩しているかのようにさくさくと歩く。

 村にいる時と変わらない呑気なその姿に、隣を慎重そうに歩くルークは口の端を歪める。それがラストには当然なのだと頭で理解していても、適当に近場の野苺を摘まみ食いする様子を見ていては素直に見ていられなかった。


「ん、もしかして欲しいのかい? だったらほら。あーん」

「……」


 一挙一動が彼を苛立たせるラストはともかく、果物には罪はない。

 そう自身に言い聞かせながら、ルークは無言で奪い取った自然の恵みを自分の手で口の中に転がした。

 ここしばらくの間味わっていなかった自然由来の甘酸っぱさに、引き締めていた口元がつい綻ぶ。

 だが、それを楽しんだのも一瞬。彼はすぐさま、いつでも弓を構えられるように周囲の警戒を再開する。


「そんなに気を張らなくても問題ないのに。今回の目的は狩りじゃなくて実験なんだよ? むしろ、余計な獲物に気力を使われたらあとで困るんだけどな」

「うるせぇ、癖になってんだから仕方ねぇやろ。……それに、ただでさえ忙しい中を抜けてきたんだ。お遊び気分で行ったわ、じゃなんも言われんでも気まずくならぁ」


 そう悪態をつくルークはどこか元気がない。

 それもそのはず、彼は先ほどまで村で慌ただしく仕事をしていたのだ。

 ただでさえ食べるものが少なくて誰もが忙しく働かなければならない中、今日は特に急ぎで仕上げなければならないものがあった。

 なお、その原因を持ち込んだのは他でもないラストである。

 ひょいひょいと茂みを掻き分けて進む彼を、ルークは恨めしそうに見た。


「朝っぱらからどんと積まれてた獲物んせいで皆が手いっぱいなんだ。だってのに抜け出すなんざ、申しわけなくて仕方ねぇ。ったく、いったい誰のせいだと思ってやがる」

「仕方ないだろ、必要だったんだから。というか、ロイさんには律義に全部食べようとしなくても良いって言ったよ? そもそも普通は食べないような固い部分まで食べようとするから、余計に手間がかかるんだって」

「けっ、飢えたことがねぇからんなことが言えんだ。うちの村にそんな余裕はねぇ、食えるとこは全部食う。それが村の当たり前なんだっての」


 ルークが寝直しに家に戻った後、ラストは鍛錬を早々に切り上げて朝日の昇る前から狩りに向かっていた。

 やがて彼の鍛錬の最後に水を渡すために一番に起きてきたレイが、村の中央に小山のように積み上がっていた報告を受けていない獣たちの死骸に悲鳴を上げたことはルークの記憶に新しかった。

 それにつられて他の面子がぞろぞろと家から出てきては驚きの声を上げる中、とうの本人は黙々と一人で獲物たちを捌いていたのだから余計に憎たらしい。

 しかも用事を済ませたかと思えば「朝早くから驚かせてすまないね」と告げたっきり、ラストはそれから数時間、ルークを呼びに来るまで家の中に閉じ籠っていた。ロイには誰にも立ち入ることの無いように、としっかりと念を押してまで。


「んで、あんだけ皆を驚かせてやりたかったんは完成したんか? 村のもんがなにしてた言うても、秘密って言って押し通したくせに」


 とはいえ、その正体は丸見えだ。

 ルークが視線を少し動かせば、ラストの腰の辺りに下げられている異様な物体が目に入る。

 だが、彼は何故かそれについての詳しい説明を村で行うのを避けていた。


「まあ一から説明していると色々聞かれて時間を食っちゃうからね。今はなにより君のことが最優先だから、まずはそっちを済ませてからじゃないと。それと、君の気にしてるものはきちんと完成してるから楽しみにしてなよ。……ちょっとばかりズルをしたけれど、それについてはまた後でね」

「おい」

「あははっ、使う分には問題ないから気にしないで。ちゃんと説明が必要な人には説明するからさ」

「……どうだか。おめぇんことだ、相手を怒らしてうまく話せねぇだろうよ」

「ちょっ、それはひどくないかな!? 大丈夫さ、今度はきっと相手のことを考えながら話しかけるから――」


 ――どうせラストのことだから、自然な動作で相手の逆鱗に触れるに違いない。そんなことを考えながら、ルークは小さく笑った。

 そんな和やかな雰囲気のまま森を散策していると、ラストがぴたりと足を止めて身体を左斜め後ろへと反転させた。

 少し遅れて、ルークもまたぴくりと耳を震わせてラストと同じ方向へ身体を向けた。背負っていた弓を低く構えて、森の奥から彼らの方へ近づいてくる気配に耳を集中させる。

 ――ア゛ウ゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛……ンッ!

 地の奥から響くような、血気染みた獣の鳴き声が森を震わせた。


「魔物だ。ちょうど良かった、向こうからこっちに来てくれるなんてね。手間が省けてなによりだよ」

「んなこと言ってる場合……いや、てめぇはそんなもんだったな」


 反射的に逃げ出しそうになるルークだが、隣を見れば気配を感じる前と変わらず、武器を構えることもなくただ佇んでいるラストが目に入る。

 呆れるルークに、ラストは任せてくれと言わんばかりに一歩前へ歩み出た。

 彼らがそのまま無言で待っていると、茂みの向こうから感じられる気配が徐々に濃くなってくる。

 がさがさ、ばきばきと木々の隙間を強引に突っ切って、豪胆にも気配の正体は彼らへ向けて一直線に迫りくる。

 そうして、やがて暴力の化身は姿を見せる。

 影よりも黒く澱んだ毛並みに、歪に肥大化した牙。なんとも凶暴な容貌の魔狼だ。

 それが呑気に待っていた本日の昼食たちに食らいつこうと、大口を開けて飛びつこうとして――。 


「それじゃ、捕まえさせてもらうよ」


 そのままの姿で何もない空中に急停止させられた。

 獣はじたばたと暴れ藻掻いて逃れようとするが、指先などの小さな部位を除いて、全身がそっくりそのまま彫像になったかのように動かせないでいる。

 哀れな姿を晒す襲撃者に対して、ルークがぽつりと呟く。


「……なんじゃ、こりゃあ」

「魔力の糸で縛り付けてるんだ。君には見えないだろうけど、今のこいつは髪の毛よりも細い糸で全身が雁字搦めになってる。忠告しておくけど、近づかないようにね。魔物は問題ないけど、なんの対策もしてない君だと引っ掛かるだけですぱっと切れちゃうから」


 ラストがこれ見よがしに、近くに落ちていた枝を魔物の手首の辺りで一振りする。

 たったそれだけで枝は綺麗な断面を晒すことになった。

 そのまま彼は無造作に魔物へと近づく。しかし、相手は暴れようとするだけで実際にラストに危害を加えることは出来ない。


「ほらね」

「ほらね、じゃねぇ。んな危ねぇもん使うってんなら先に言っとけっての!」


 間違えて自分の首に引っ掛かった時のことを考えて、ルークはぞわりと背筋を震わせた。


「大丈夫だよ? 切り口は綺麗になるから、すぐに魔法でくっつけられるし」

「そういう問題じゃねぇ! ……いや、もう良い。んで、わざわざ生きたまま捕まえてどうしようってんだ。おめぇんことだ、やろうと思ぃやぶった切れるほど細くも出来んだろ?」

「うん。でも、今日の主役はルーク、君だからね。これを殺すのは僕じゃなくて君さ――さあ、実験といこう。まずはそのいつもの弓で、どこでも良いからこいつに射かけてみてくれないかな」

「はぁ? んなもん出来るわけねぇだろが」

「倒せとは言ってないだろ? とにかく今の君でどれだけのことが出来るか、改めて確認したいだけだよ。いいからいいから」

「……しゃあねぇな」


 元より今回の話は、ルークが疑る自分の力を信じるというラストに乗って進んだものだ。

 とりあえず彼は乞われるがままに、適当な位置を狙って照準を絞り込む。

 ひとまずは柔らかそうな白い毛並みの腹部へと矢の先を向けて、きりきりと弓を軋むほどに引き絞って、放つ。

 しかし、彼が予想していた通り、矢は突き刺さることなく弾かれて地面に落ちた。見れば、衝撃に負けた胴体が僅かに歪んでいる。これではもう使い物にならない。

 やはりと肩を竦めるルークに、ラストは続きを促す。


「うん、それじゃあ次はこっちを狙ってもらってもいいかな」


 ラストが指し示したのは、明らかな弱点である魔物の眼球だ。

 ルーク自身もとどめを刺す時によく狙うが故に、そこが他と比べてかなり柔らかいことは重々承知している。


「目ん玉か……分かった」


 確かに目玉は他の肉の引き締まった部位に比べて矢を通しやすい。

 しかし、彼の目の前で小さく不満の唸り声を上げる相手は通常の獣とは一線を画する魔物だ。

 いくら弱点とは言え、普段通りにとどめとさせるとルークは思えなかった。

 そう思いつつも、彼は言われた通りに新たな矢を弦の中央につがえた。

 しっかりと大地を踏みしめ、ぎしりと全体をたわませ、先ほどと同じように弓をその限界まで引いて……指を離す。


「……まじか」


 短い距離を駆けた矢は、今度は地面に落ちなかった。

 ――ぎゃお゛お゛お゛お゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛んっ、と魔物が小さくない悲鳴を漏らす。

 鏃はルークの予想に反して、その半分ほどが眼球に突き立っていた。

 だが、脳まで貫いて即死させるには至らなかった。

 これまでに味わったことの無い苦痛に呻き声を上げ続ける魔物が、殺意を全開にして目前の下手人たちを血を流す目で睨みつける。


「んー、ちょっと黙っててね」


 それを受けてルークは一瞬怯んでしまうが、ラストは変わらず動じない。

 この程度の子守歌ならば、【深淵樹海アビッサル】を歩いていれば日常茶飯事だからだ。

 それでも考えを纏めるのに鬱陶しかったからか、彼は指を一振りして新たな糸を口元辺りに追加した。

 ぎゅむっと顎を上から縛られて、魔狼は否応なく黙らされてしまう。

 すっかりただの案山子となってしまった恐怖の対象と、それを顔色一つ変えることなく為したラストにルークは目を疑った。

 そんな彼に、ラストがいつも通りの口調で問う。


「さて、ルーク。今のを実際にやった君から見て、感触はどうだった?」

「……あ、ああ。そうだなぁ、ちっとは傷付けられんのは意外だった。んでも、本当の狩りってぇなるとこうはいかねぇ。こいつらは普通の奴らの何倍もすばしっこいし、それで小さい目ん玉を狙うなんて出来やしねぇ。罠や毒肉も聞かねぇしよぉ、当たんねぇんじゃ意味ねぇだろ」

「あはは……どう命中させるかは一度置いておいて、うん。威力の方は後少しだって分かったろ?」


 結局は知り得た結果も意味がないと切り捨てようとした彼に、ラストは待ったをかける。


「……ああ。まあな」

「そこで聞きたいんだけど、ルーク。君は全力を出していないよね?」


 続いて放たれたラストの問いかけに、ぎろりとルークは目を細める。


「……あ? オラが手ぇ抜いてるって言いてぇのか?」


 侮辱のような言葉に、彼はぎちりと弓を握る手の力を強めた。

 それを見て、ラストは慌てて頭を下げた。


「いや、違うよ。ごめん、言い方が悪かったみたいだ。……ルーク、その弓を使うとき、君は無意識にこう思ってないかい? ――これ以上引いてしまうと、壊しかねないって」

「……っ」


 今の実験の中でラストが見ていたのは、ルークと彼が握る弓のそれぞれの様子だった。

 ルークは弓を構える時、それが軋むまで弦を引き絞っている。

 それこそ本体が折れるか折れないか……その不安になりそうな点の少し前辺りで、彼は弓を引くのを止めている。

 まだまだ、彼の身体はそれ以上引こうと思えば引けるにも関わらず。


「さっき改めてその弓の軋む音を聞いて、君の筋肉の動きを見て確信したよ。その弓じゃ、君の本気には耐えられないんだ」


 そう言いながら、ラストは自分の腰に吊っていたものを取り出した。


「だから、次はこれを使ってみてくれないかな?」


 彼はそのまま、己が今朝の内に完成させた新たな武器をルークへと手渡した。

 それは、今ルークが握る弓と全く異なる雰囲気を漂わせていた。

 握り手には茶色の革帯が滑り止めに巻かれ、胴体はほのかに白みがかった艶のあるいくつかの部品が重なるように貼り合わせられている。弦の部分は弾力の強い褐色の繊維によって編まれており、新たに張り替えた時の特有の張りがなく、妙にルークの手に馴染む。

 ――そして、なによりも。

 その軽くもずっしりとした弓に、ルークの狩人としての嗅覚が確かな命の重みの残照を感じ取った。


「……まさか、こいつぁ……」

「――【魔獣弓オリオン】。僕が拵えた、君専用の魔物の弓さ」


 今朝の出来事と己の直感から感触の正体に思い当たったルークに、ラストはそれが正解だと教えるように弓の銘を静かに告げた。

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