第62話 荒れる心に眠れぬ夜
「おはよう。いい天気だね、ルーク」
「……は?」
翌日。いざ朝食の準備をしようと清々しい気分で玄関を開けたルークの前には、なぜかラストが立っていた。
朝日を背にして笑顔を向ける気に入らない相手との突然の対面に、彼は思わずあんぐりと口を開けてしまった。
唖然とする彼をよそに、ラストはそのまま軽く挨拶を続ける。
「今日もよろしく。一緒に頑張ろう」
そう言って昨日と同じように手を差し出してきたラストに、ルークの身体は反射的に扉を閉めた。
ばたんっ、と勢いよく閉じられた時の風によって僅かに誇りが舞い上がる。
それを気に留める余裕もなく、彼は光の失われた薄暗い家の中、鍵を閉めた扉に背中を預けながらずるずると地面に座り込む。
「……いったい、なんだってんだ。昨日と言い今日と言い……なんなんだ、あんの野郎」
どうやら今日も、ルークが大っ嫌いなあの部外者は関わってくるようだ。
――せっかく目を背けるだけで互いにうまくやっていたというのに、いったいどんな風の吹き回しだろうか。
あれほど明確に突きつけた拒否を、まさか忘れたわけではあるまい。それを踏まえてなお距離を縮めようとするとは、どれほどのお人好しか愚か者か。
――いずれにせよこんな自分よりはまともに違いないと、ルークは今日も自分を嘲笑った。
■■■
もちろん彼の予想していたように、ラストは今日も積極的にルークとの距離を詰めようとする。
彼が任された仕事である狩猟はいつの間にか終わっており、それを良いことに彼はルークの関わる様々な仕事に手を出しに来た。
例えば、死んだ魔物から剥ぎ取った皮のなめし作業だ。
「んっ、しょっ、んっ、しょっ……」
魔物の皮は通常の獣の素材と比較して、より丈夫な代物だ。それをラストが次から次へと狩ってくるものだから、村長のロイはこれを機会に村人の毛皮製品を全て魔物産に更新しようと考えていた。
それによって、自然と加工作業に駆り出される人手も増える。ルークもその一人だった。太く長い椅子の上に座って、伸ばした皮の裏側から余計な肉や脂肪を削ぎ取っていく。
下手を打てば余分なものどころか皮さえ抉ってしまいかねない、繊細な力加減が必要な作業なのだが――。
ルークがちらりと隣を見ると、ラストが同じように腰掛けてなめし作業に精を出している。
彼は見られていることに気づくと、ルークに微笑みかける。
「……ちっ」
そんな顔をされれば、思わず身体にも変に力が入ってしまう。危うく皮を破りそうになって、ルークは舌打ちした。
周囲を見渡せば、他に作業の出来そうな場所は既に先客によって埋まっている。彼らに場所を変わるよう頼んでも、理由を問われれば答えようがない。
発散できない苛立ちに悶々としながらも、彼はラストを目に入れないように自身に宛がわれた場所で静かに作業に意識を没頭させるのだった。
――それだけでは終わらない。
「やぁ、お疲れさま」
単純な声掛け、それに小さな言葉を重ねるのに始まり、
「水を飲むかい? 日中の作業には水分補給はかかせないよね」
「ん。少し切れ味が落ちてるよ。砥いでおいた方が良い」
「僕はもう寝るよ。お休み、ルーク。――そうそう、お酒はほどほどにね」
合間合間にルークへの心遣いの感じられる声を、絶え間なくかけてくる。
最後にわざわざ酒場に顔を出して、就寝前の挨拶をしてきたラストにルークは思わず叫びたくなった――いったい、酒を飲みたくなるほど忘れたい気持ちを湧き上がらせるのはどこのどいつなのかと。
だが、そうして感情を表に出そうとすることが相手の思う壺なのだと、最近は鈍っていたはずの狩人としての本能が訴えて取りやめた。
不味くなった酒を諦めて、酔い覚ましの水を一飲みして――決して彼の忠告に従ったわけではない――ルークは仕方なしに早めに帰宅して床に就いた。
「うッ……」
しかし、眠れない。
昨日とおとといからずっとそうだ。
ルークが眠ろうとすると、ついつい頭が痛くなる。
それは、ラストと関わってからの特に顕著な変化だった。この家には誰もいない――狩人としての情けない自分を、先祖に胸を張ることのできない自分を、自分一人で否応なしに見つめさせられる。
ラストへの悪感情、それが決して彼のせいだけではないことは分かっている。そのように嫉妬する自分こそがいつまでも子供で、愚かなのだと思うと、心の奥がズキズキと痛む。
寝ようと意識を断とうとしても、心の荒波は細波に変わるだけで止まらない。
しかも、今日はラストが何度も近づいてきていたこともあって、余計に落ち着かなくて仕方がなかった。
「……駄目だぁ」
眼が冴えてしまって、寝汗が酷くて仕方がない。
一度水を浴びてすっきりしようと、ルークは重い身体を動かして外へと出た。
まだ日が昇っておらず、きらきらと美しい星が満天に輝いている。
さすがにこんな時間ともなればラストは待っておらず、ほっと一安心してからルークは村の隙間を抜ける夜風に身を晒す。
自分を見つめるしかない家の中と比べて、少しだけ気分が軽くなったような気がした。
「水は……ねぇな。しゃあねぇ、井戸は……」
いつのまにか汲み置きしていた分が無かったことに目を細めて、肩を落としたルークは村の共用井戸の傍へと向かった。
普段は村の人間たちがひっきりなしに利用しており、水浴びなどで長時間占拠していれば白い目で見られるだろうが、こんな時間では誰もいないだろう。
そう考えて外れの方の井戸まで近づいていくと、彼の耳が不意に変な物音を捉えた。
「――ッ、――ゥッ! ……ュッ! ……ンッ!」
一定の間隔で繰り返し響く声は、か細くてよく聞き取ることは叶わない。
「……?」
思わぬ誰かの気配に舌打ちしたくなるのを抑えて、足を止めたルークはじっと耳を澄ませた。
風に乗って聞こえてくる音の発生源。それはちょうど、井戸の傍だ。
こんな時間にいったい何者が、そんなところで何をしているのか――いや、そもそもこれは人間なのか。
猿や鹿などの派生である魔物は、村の畑すら荒らすこともある。
ならば、畑を越えて村へ訪れていてもおかしくはない。
万が一この声の主が魔物なら、村が今まさに危険に晒されているということだが――。
急いで弓を取ってこようとした自分自身を戒めるように、ルークは歯を食いしばる。
そう、自分はもうお役御免なのだ。動物を狩る役目はすっかり、ラストに奪われた。最後に抱えていた狩人としての誇りでさえも、彼自らの手で捨ててしまった。
「……」
そう、ルークが身体を張らなくてもラストがいる。
彼がいれば、なにをせずとも自然と脅威は排除されるだろう。
――だが、こんな太陽も昇っていない時間から起きているだろうか?
今からラストを起こすにしても、その間に村に被害が出ては意味がない。ただでさえ度重なる課税で、村人が一人でも欠けては大変なことになることは彼も身に染みて分かっている。
「……」
――だが、自分なら。村で大した役目も担っていない自分なら、死んだところで問題はない。
むしろ、死んだ方がこの頭の痛みもなくなって楽になりそうだ。
「……ふっ」
ルークが力を持て余した巨体で村の脅威を抑えている間に目を覚ました他の村人が、ラストを起こしてくる。それで万事解決だと、彼はそろりそろりと気配を消して声の方へと近づいた。
そして、こっそりと近くの家の陰に張り付いて物音の正体の様子を窺おうと、顔をそっと突き出す。
だが、あいにくとルークの覚悟は空振りに終わった。
月明かりの下、静かに息を押し殺しながら村の外れで動いている何者かの正体とは。
「……三百一ッ! 二ッ、……四ッ! ――八ッ、九ッ、三百十ッ!」
他ならない、鍛錬中のラストだったのだから。
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