第58話 思い出を求めて


 気づけば、彼らが森に入った時よりも陽射しはだいぶ強くなっていた。


「いつのまにか、だいぶ経っちゃったな。まさか話しているだけでこれだけ時間を使っちゃうなんて、こんなことになるとは思ってもなかったよ」

「仕方ないでしょ? それが嫌だったんなら、さっさと適当にあたしを振れば良かったじゃない」

「そんなこと出来ないよ。自分のことを心配してくれている相手をぞんざいに扱うなんて。……仕方ない。残りの時間はレイが全部使っていいよ。もうあんまり残ってないけれど」

「え、ちょっ――!?」


 手早く話を纏めたラストは、支えていたレイの身体を溺れないようにゆっくりと離した。

 そのまま潔く岸に上がろうとする彼の袖を、彼女は反射的に引き留めた。


「なにかな?」

「なにって、なんでさらりとどっか行こうとしてるのよ!」

「もとより今の話は僕が村に来たことが原因だから、それで生まれた言い争いの時間についても僕が責任を取るのは当たり前さ。それに、女の子の方が身だしなみには時間を使うだろう? 僕は今ので十分汗は取れたから、後は君が好きなだけ汚れを落としたり水遊びするといい」

「ま……待ちなさいよ!」


 言うだけ言って彼女の手を振りほどいて湖の外へ出ていこうとしたラストを、レイはぐいっと力を込めて引き戻した。

 彼は不可解そうに眉間に皺を寄せて、振り返る。


「待つって、どうしてさ。さっきレイが自分で言っただろ、一緒にいると事故だって起こり得るって。僕が村に残らない以上、そう言った過ちの種は出来る限り失くしておくべきで――」

「事故っていったって、あんなの嘘に決まってるでしょ!? 実際にそんな、いつの間にか服が脱げたりだとかおっぱいを揉んだりとかなんて起きるわけがないわよ! あの時はただ、ちょっとした隙を狙って偶然脱げたように見せようって思ってただけで――なに言わせるのよ!」

「いや、今のは僕はなにも知らないよ!?」

「ともかく、あんな卑怯な真似、もうやるつもりはないから! これっぽっちも! 服だってちゃんと着てるから、一緒に入ってても問題なんて何もないわよ! なんだったら変なとこ見られたって責任取ってとかも言わないから!」


 勝手に自爆したことに顔を真っ赤にしながらも、レイは腕を広げて今の己の無害さを全身で訴えようとする。

 だが、それがラストにとっては逆効果だった。


「いや、そうだとしても……」


 彼にとっては服を着ていれば問題ない、というわけにはいかなかった。

 ――全身から勢いよく飛び込んだことによって濡れそぼった、編み目の粗いレイの服。その生地が水を吸ったことにより伸びて、彼女の肌にぴっちりと張り付いている。

 それによって鮮やかに描き出される、慎ましくも確かな女の子らしい盛り上がり。そして広めの襟の隙間から覗く、濡れ髪が張りついていっそう煽情的になった鎖骨。それらの細やかな要素が、逆に服に隠された残りのレイの肢体への妄想をかきたててならない。

 なにより、己が今まさにそう見られていると自覚していない無邪気な姿そのものが、いっそう成長途中の少女らしさという若い果実の魅力を引き立てて――。


「駄目だ! やっぱり僕は出ていくべきだってば!」


 知らず知らずのうちにエスの蔵書のような解説文を浮かべていた頭を、ラストは叱りつける。

 これ以上危険な考えを抱かないように、彼は強い意志の力で無理やりろくでもない思考を打ち切った。

 自分にも言い聞かせるように強い声を出して、断固として誘いを断ろうとする。


「いくらそのつもりがなくたって、万が一もあり得るんだ! レイはもっと自分の身体を大切にしてくれ!」

「……いいじゃない、別に。どうせ村を出てくんだから、ちょっとくらい一緒に遊んで思い出を作ってくれても」

「うっ……」


 とことん意地になって断ろうとするラスト。

 そこにレイが突如弱気な様子を見せて、彼は思わず狼狽させられた。


「あたしはラストのことを応援するって決めたのに、そっちはそんな風にあたしのことをぽいって捨てちゃうんだ。あー、悲しいなー……」

「あ、いやそれは違うって。捨てるだなんて、そんな。僕はただ君の今後の評判とかを考えて……」

「しょせんあたしなんか、ただの村娘だもんね。魔物でも簡単に倒しちゃえるラストには、こんな厄介な女の子なんていらないわよね……それでちょっとも遊んでもくれないなんて、寂しいなー……。魔物に襲われる前に悲しくて死んじゃうかも……よよよ」


 急に顔に手を当てて悲しげな声を出す彼女に、ラストは引け目を感じてしまう。

 ただでさえ彼女の親切な想いを踏み躙ったばかりなのに、このままもう一度同じことを繰り返して彼女の心を更に傷付けたまま終わるべきなのか、と。

 もちろん互いのことを思えば、ここは辛くとも彼女の幽かな願いを振り切るべきなのだが――しかし、彼にそのような冷徹なことが出来るはずもなくて。


「……分かった、分かったよ!」


 仕方なしに、ラストは彼女の要求を呑むことにした。

 自分が彼女に一つ譲ってもらったのだから、今度は自分が彼女に一歩譲るべきだ。

 そんな思いと共に、彼は天を仰ぎながら彼女の要求を受け入れるのだった。

 ――故に、彼の目は顔を覆う両手の下でレイがほくそ笑んでいることには気づけなかった。


「ありがとう、ラスト」

「一応言っておくけれど。変なことをしたら、すぐに出ていくからね?」

「分かってるわよ。それじゃ、一緒に遊びましょっか。楽しい楽しい、水遊びをねっ」


 確かに彼女は、ラストを村に引き留めることは諦めた。

 しかし、それでも村から立ち去っていく彼の背中に素直に手を振るつもりはなかった。

 ほんのちょっとでも記憶に残る思い出・・・を作って、彼の旅に自分という存在がいたことを少しでも強く刻みつけられたらいいなとレイは考えを巡らせていたのだった。

 残念なことに、いくら魔物を相手に鍛錬を積んだラストであっても、少女の嘘を見破るにはまだまだ人生経験が足りなかった。

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