第57話 悩める乙女の抵抗


 こぽこぽ、と小さな気泡が二つ。余韻にさざめく水面を小刻みに震わせる。

 続けて、水中から浮かび上がった二つの頭が顔に張り付く水滴を勢いよく振り払った。


「――ぷはっ、まったく! 急に飛び込んで来たら危ないだろ!?」

「――はぁっ、ご、ごめんなさい……つい」


 叱りつけるラストに、レイは思わず身を縮めて謝った。


「下手すれば溺れてもおかしくなかったんだから、もうちょっと落ち着いてくれ。……で、どうしてこんなことを?」

「……あの、その。えっとね?」


 彼女は張りついた前髪の下からちらちらとラストを見上げながら、言い淀む。

 一方、これまでの態度から一転して、力ずくで押し通すような手法を取った彼女に疑惑を抱くラストは追及することに遠慮がなかった。


「ほんの二日程度だけど、僕はそれなりに君の人となりを把握してきたつもりだったんだ。スピカ村の人気者で、それに違わぬ親切な心の持ち主。誰かが困っていれば解決しようとするし、頑張った相手には慰労することも忘れない。そんな君がどうしてこんな暴挙に出たのか、僕には分からないんだ」


 だからこそ、その真意を問いたい――そう目で告げるラストに、彼女は気まずそうに視線を逸らした。


「……さあ、なんででしょうね。あたしにもよく分からないの」

「分からない? それなのにこんなことを?」

「それについては、ホントにごめんなさい。さっきまではその、ついカッとなっちゃってて。でも、うまく言葉にまとめ切れないのよ。なんて言えば良いのか、口にしようとすればあれもこれもってなっちゃうって言うか……」


 その混迷ぶりに、ラストはひとまず怒りの表情を収めた。

 彼女はただなんとなしにラストを突き落としたのではない。とぼけているのではなく、心内に揺れ惑う感情をどこから吐き出せば良いのかわかっていないだけなのだ。

 時折向けられるしょぼんとした目から、彼女の思惑に明確な悪意がなかったことが読み取れる。

 それに少しばかり安堵すると同時に、彼の疑問は更に大きくなった――なぜ、このようなことをしでかしたのか。


「そうか。それなら、少しずつでも良いから。僕に話してくれないかな? 整理されてなくても良いから、教えてくれないか。君の思いを」

「……」


 レイはそう言われても、なお話し辛いと言わんばかりに表情を二転三転させる。

 告げたくとも、告げられない――心内を洗いざらい吐き出すことを恥じるように、顔の筋肉が感情の機微に従って揺れ動く。

 だが、ラストはそんな彼女のことをじっと見つめ続ける。

 言えないのならば言えるようになるまで待つ。

 その真剣な態度に、彼女はいつまでも逃げてはいられないようだと観念した。


「……あの日、ラストに助けられてから。ずっと、あの時のことが頭の中から離れないの」

「……あれが?」

「そうよ。あんたにとっては特別じゃなくても、あたしにとっては特別だった」


 ラストにとっては、ただ狼を一匹蹴散らしただけの話だ。

 たったそれだけの、【深淵樹海アビッサル】に巣食う魔物どもに比べれば雑魚同然の獲物を軽く払いのけただけの些事。

 だが、それは一村娘に過ぎない彼女にとっては、大きな出来事だった。――かつて家を追われて心に傷を負っていたラストに、エスが寄り添ってくれた時のように。


「でも、たった一週間であんたはいなくなっちゃう。どこへと知れない場所へ、旅立ってしまう。だから……引き留めたかったの」

「それが水の中に一緒に落ちることとどう繋がるんだ?」

「落ちたのは偶然よ。最初からあんたが他の男たちみたいに欲望丸出しで、一緒に水浴びしてくれれば良かったの。そうすれば、事故でもなんでも未婚の乙女の裸を見たから責任を取れって……あたしに、縛り付けられると思ったから」


 彼女は自身の罪を、そろりそろりとさらけ出す。

 それはまるで、自身の罪が裁かれるのを待つ罪人のように。

 彼女は助けを求めるように、ラストのぐしょぬれになった服にしがみつく。

 その指の隙間から、透明な雫がぼたぼたと涙のように零れ落ちた。


「ねぇ、あたしには分からないの。どうしてあんたは、旅なんてしているの?」

「旅がどうして、って……」

「旅してたんなら知ってるでしょ。この村だけじゃない、最近色んなところで魔物を見たって声が増えてる。その、魔族を見たって話も。あくまで風の噂よ。噂なんだけど――」


 ――本当かもしれないと、レイは最後の言葉を濁した。

 しかし、ラストはそれが恐らく真実であろうと確信していた。

 かつてシルフィアットと会った際に、彼女は人間側が魔族の領域に間者を送り込んでいると言っていた。ならば、魔族側が同様に刺客や密偵を放っているのも十分に考えられることだ。


「だから、一人旅なんて危険よ。今はともかく、いつまでもそんなことしてられないわ。……だったら、この村にいれば良いじゃない。一週間だけじゃなくて、ずっと」

「それは……」

「あんたにとっては弱い魔物を倒すだけでも、この村では十分なの。それで持ってる知識で村を回して皆幸せ、それで良いじゃない。それで満足して、それで楽しくやれるのに。ラストなら、次の村長にだってなれるわ。なのにどうして、自分から危ない旅を続けようとするの?」


 彼女はラストの服を一際強く握りしめる。


「いずれどこかで野垂れ死んだなんて聞きたくない。あたしを助けてくれた恩人があたしの知らないとこで死んじゃうなんて。だから、無理にでも引き留められれば……そう思ってたの。うん、たぶん。これがあたしの理由かな。あんたと一緒にいられれば皆笑顔でいられて、あんたも死なずに済む。だから、ちょっとだけ無理をしても……って、うん。まぁ、そんな感じね」


 最後の言葉をちょっとばかり強引に纏めて、レイはそこで話を締めくくった。

 そこから先は語る必要がなかったからだ――理由らしい理由は全て述べたし、ラストに対する説明としては十分だからだ。それを纏めて一言で表した感情の名前も話している内に理解してしまったが、そこまで言ってしまうことは今の状況では憚られた。


「……そうか」


 頬を桃色に染めながらも、自分の気持ちが綺麗に整頓できたようで晴れやかな表情になるレイ。

 彼女の思いは、ラストの気持ちを考えない独善的な思考だ。

 だが、彼はそれを責めようとは思わなかった。

 勝手なやり方で相手に自分の敷いた人生を強いらせる。それはかつての実家のような非情な振る舞いだが、そこに込められた相手への想いまでは。

 間違ったものではない、そう思ったが故に。


「……分かったよ、レイ」


 ラストは彼女に真の目的を打ち明けようと、厳かに口を開いた。


「さっき、言ったよね。今は色んな所が魔物で危険なんだって」

「そうよ。だからそんなところに行かないで、じっとしていれば――」

「でも、それじゃ根本的な解決にはならないだろう。それそのものを生み出す悪因を断たなければ、結局魔物は溢れてしまう。もしこれの原因が魔族というなら、その魔族を止めなきゃならない。そうしなきゃ、必ずどこかで悲劇が生まれ続ける……僕はそれを止めるために、これまで修行を続けてきたんだ」

「それはそうだけど……魔物の発生する原因そのものをどうにかするなんて、そんなの出来るわけがないわよっ! いくらラストでもっ」


 レイにとって、ラストの口にすることは正論であると同時に夢物語だった。

 このスピカ村と、領主を同じにする周辺の村々しか知らない彼女の世界にとって、世界そのものを救おうとする彼の視点ははるか遠くの星のように思えた。手を伸ばすことは出来ても、手が届くことはないのだと。

 

「そうかもね。正直、出来るかどうかは誰も保証してくれない。そんなことを言えば、君を余計に心配させちゃうのも当然だ。……だけど」


 ラストが不可能を唱え現実を見ろというレイから目を外し、遠く彼方を見据える。

 その瞳の向こう側には、今もなお魔族の世界で奮闘しているであろう彼女エスの姿が見えていた。


「それを、目指してる人がいるんだ。不可能だって思っても、届かない未来を掴もうって足掻いてる人が。僕はその人の背中をずっと追いかけてる。あの人一人だけではかつて叶えられなかった、夢の先に。僕は一緒に辿り着きたい。そのためには、安全な場所に留まってなんかいられないんだ」


 レイは夢を語る彼の瞳を通して、その先に映る姿を朧気に見る。

 そして、息を詰まらせた。

 彼の心はずっと、その名も知らぬ誰かを一筋に見ているのだと分かってしまったから。

 ――ああ、ここには、自分レイ・スピカが割り込む余地などこれっぽっちもないのだ、と。

 彼は誰に無理と言われようと、決して歩むことを止めることはないのだ。


「……でも、それまでの間に大勢が死ぬわ。あたしたちだって、ラストがいなくなっちゃったら皆生きていけないわ。魔物は増えてるし、税は重いし。どっちかだけならともかく、両方がこのままじゃあんたが世界を救う前に潰れちゃいそう。そんなことしないで、あたしたちと一緒にいてくれれば……あたしと、一緒にいてくれればっ!」


 それは、彼女の苦し紛れの抵抗だった。

 レイはすがるようにラストを上目遣いに見つめる。

 だが、その抵抗を彼は易々と払いのけ――もとい、優しく取り除くように微笑んだ。


「大丈夫さ。税制は今すぐにとはいかないけれど、魔物の方はね」

「え……?」


 戸惑いの目を見せる彼女に、ラストは顎に手を当てながら村の方を見て思案する。


「複雑な人間関係が織り成す政治は、絡み合った糸のように簡単にはほどけない。だけどただ太いだけの強い糸なら、切り落としてしまえる。ちょっと切れ味のいいハサミと、それを振るえるだけの人材がいればね」


 彼はその魔力を映す瞳で、遠くの村に居座ったままの相手を見据えた。

 宴の日の夜に話してからというもの、ラストと彼は全くと言って良いほど話していない。


「問題なのは、僕がその腕利きの職人に気に入られていないところなんだけれど……」


 そこで彼はちらりとレイへと視線を戻した。 

 生来の色素が消失した、深紅の瞳が彼女に訴える。


「どうだろう、彼との間を取り持ってくれないかな。こればっかりはばっさばっさと魔物を倒すようにはいかなくてね、この村のことを真に考えてくれるレイじゃないと難しいんだ。もし君がまだ、僕の提案を受け入れてくれる気があるのならだけど」


 その問いかけは、レイにとって心を締め付けられるようなものだった。

 たった今想いを拒んだばかりの少女に、少女の村から安心して離れるために手を貸してくれとはなんと図々しいことだろう。

 だが、それを受け入れるにせよ受け入れないにせよ、彼はいずれ村から旅立っていく。その背中をあとくされのないように押すか、それとも自分の提案が受け入れられなかったからと足を引っ張るように断るか。彼女は落ち着かない心で迷う。

 先ほど実行したばかりの、後者の卑怯なやり口を選んだレイが今回もそうしろと叫んでいる。

 だが、真にラストの信じるレイ・スピカとして応えようと思うなら、正解はそれではない。

 ラストのまっすぐな瞳が、彼女に向けられている。

 一度相手がずる賢い手で引き留めようとしても、その奥に潜んだ善良性を見抜いたならばそれを信じようとする。

 先ほどの目的といい、そのあり方といい。


「まるで、おとぎ話の【英雄】みたいね……」

「え?」


 突然そんなことを言われて目を丸くするラストを尻目に、彼女はくすりと笑う。

 ――そんな顔をされては、悪い考えを抱く自分なんて蝋燭の火のように消えてしまうではないか。自分が案じる相手の期待を裏切ることなんて、できやしなかった。

 彼女自身を信じる彼の純粋な助けになりたいと、自然とそのあり方に魅せられてしまう。


「……そうね。あたしを置いていっちゃうのに、力だけは都合よく借りようなんて性格が悪いところとか。いつか刺されるわよ、あんた」

「それは……ごめん」


 自分でも都合の良いことを言っていると自覚しているラストは目で非礼を詫びる。

 そんな彼の謝罪を、レイは次の瞬間には軽く笑い飛ばしていた。


「ふふっ。冗談よ。それを言い出すなら、ずるい手を使って引き留めようとしたあたしだってろくな女じゃないもの」


 だから、今のはほんのちょっとのお返しのつもりだった。

 乙女の想いを裏切って苦難に挑まんとする【英雄】への、少女からのほんの少しの仕返し。

 それで彼への未練を一度終わらせて、レイは気持ちを切り替える。

 彼女は乙女としての己ではなく、スピカ村のレイとして改めてラストに向き合った。


「良いわよ、手伝わせてちょうだい。そもそもこれまであんたに甘えてたあたしたちがおかしいんだもの。自分たちのことくらい、自分たちで解決できるようにならないとね」


 そう、彼女は自分の中の屈託を飲み込んだ笑顔を作ってラストに向き直る。

 その瞳の端に小さなきらめきが映っていることに、彼はふと気づいた。

 それは果たして、ただの湖の水に過ぎないのか。それとも――。


「……ありがとう」


 少女の取り繕った気丈な顔の裏を暴く資格は自分にはないとの直感に、ラストは邪推を止めた。

 その代わりに深い感謝を込めた一言のみを、そっと告げるのだった。

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