第56話 お礼のお礼
「そう、そこを右に曲がって……あの二又杉が見えたら、その真ん中から大岩がちょうど真ん中に見えて……」
記憶の糸を辿って木立の隙間をするすると進むレイにラストは追随する。
彼女は複雑なはずの森の中を、勝手知ったるというようにほとんど迷うことなく進んでいく。
「詳しいんだね。てっきりルークみたいな狩人以外はあまり森に入らないと思ってたんだけど。もしかして魔物が溢れる前はよく来てたの?」
ラストの問いかけに、彼女はかつてを懐かしむように目を細めた。
「そうよ。とは言っても、浅いとこの木の実を拾ったり果物を摘んだりだけね。最近は危険になったからって立ち入り禁止になっちゃったけど、前はそんなじゃなかったから。……それにしても、意外と変わってないものね」
「動物たちは人間と違って開拓なんてしないから。たった二年やそこらじゃそこまで変わらないのも無理はないよ」
「それもそうだけど。魔物なんて危ないのがいるんだから、きっと森も壊されてるって思ってたのよ」
「あー、なるほど。でも、彼らだって基本的な所は普通の生き物と変わらないからね。いるだけで自然を壊すなんてのは、人間界にはいないはずだよ」
「そっか。自分たちの住むところを壊しちゃ住めなくなるものね」
そんな他愛もないことを話しながら、二人はすいすいと目的地目掛けて進んでいく。
時折遭遇する猛獣はラストが適当に小石を投げて追い払う。一々斬り捨てていては血の匂いに惹かれた余計な獣まで呼び寄せてしまうからだ。レイがいるのだから、なるべく面倒は避けたかった。
そんなラストの配慮のおかげで、二人は労せず目的地へと辿り着いたのだった。
「――見えたわ。ここよ!」
突如開けた視界の先に広がっていたのは、太陽の光を反射してきらきらと輝く水面。
それが、周囲を歩いて元の場所に戻るのにおよそ二十分ほどの広さで揺らめいていた。
池というよりはむしろ、小さな湖と呼ぶ方が相応しいほどの大きさだ。
「ここに来たかったの?」
「そうよ。ほら、言ってたでしょ? 汗臭いから水浴びしたいって。川じゃ精々太腿までくらいの深さしかないけど、ここならめいっぱい身体を洗えるわ。なんなら泳ぐのだって出来るし、今ならあんたとあたししかいないから使い放題! 好きなだけ遊んでも誰にも怒られないわ!」
ラストも森を探索している際に、湖が存在していることは知覚していた。
しかし狩りの最中では湖は水生動物がいるというくらいの認識しかなく、湖で身を清めるという発想には至らなかった。
それは風呂と言えば熱いお湯、という彼の常識が阻害していたことも一因だ。
しかし、考えてみれば庶民がそう簡単に身を浸かるほどのお湯を準備できるはずもない。
王都でも有数の貴族であるブレイブス家は財政的貧困などからはほど遠く、エスは自然の温泉を直接汲み上げている。そのどちらもない所では、大量に薪を使ってお湯に浸かるという発想そのものに及ばないのも無理はない。
スピカ村におけるそれらの代わりが、この湖なのかもしれないと彼は考えた。
「いつもなら村の皆で来るからそんなにはしゃげないし、騒がしくしてると釣りしてる人に魚が逃げちゃうって怒られちゃうけど。今なら二人っきりだから、なにしたって怒られないわ。ふふっ、だから誰にも言っちゃ駄目よ? こんなの羨ましがられちゃうから」
「なるほど。確かにこれは絶景だし、独占していると怒られそうだ」
どうよ、と言わんばかりにふんすと胸を張るレイにラストは苦笑をこぼした。
村人を出し抜く茶目っ気も中々に愉快だが、それ以上に彼女の心遣いが彼は嬉しかった。
レイ自身の望みを問うたはずだったのに、返ってきたのはあくまでもラストへの気遣い。正確に言えば二人ともが楽しめるものなのだが、本来は彼のことなど気にしなくても良かったのに彼女はそうはしなかった。
「それにしても、僕の言ってたことを気にかけてくれたなんてね。もっと別のことでも良かったのに、君の親切さには本当に頭が上がらないよ。ありがとう、レイ」
「別に、これもあんたが周囲の魔物を掃除してくれたおかげだから。お礼を言うのはあたしの方。こっちこそありがとうね、ラスト」
「いや、こっちこそ……」
「あたしこそ……」
「いやいや、こっちこそ……」
「いやいやいや、あたしこそ……」
そうして何度も互いに頭を下げ返しあっていると、その状況がどうにもおかしくなって――。
「ははっ、あはははっ!」
「ふふっ、あっはははは!」
二人はつい、顔を合わせて一緒になって笑ってしまった。
だが、このままではどうにも話が進まない。
ひとしきり笑い終わってから、ラストはきゅっと顔を引き締めた。
「よし、それならありがたく受け取らせてもらうよ。とは言えこれはもとから君へのお礼のつもりなんだし、そっちが先に入って良いよ。僕はその間に周囲の掃除がてら、持って帰る分の獣たちを狩ってくるから」
いつまでもこうしていては、長らくレイが姿を消していることを村人たちが怪しむだろう。
大きな騒ぎになる前に、入るならさっさと入らなければならない。ラストはまず彼女を優先して、自分はその間に彼女を守るついでに手っ取り早く本来の仕事を済ませてしまおうとした。
しかし、そうしていったん立ち去ろうとした彼をレイが引き留めた。
「ね、ねぇ。ちょっと待ちなさいよ」
「どうしたの? 早く入らないと、村の皆に気づかれちゃうよ?」
急かすラストを、レイが意を決したような表情で見上げる。
その頬はほのかに赤く染まっていた。
「聞きたいんだけど。この辺り、湖の近くに魔物はいるの?」
「うーん……いや、今はいないみたいだ。少なくとも、すぐに僕たちを襲うようなのはいないかな」
「なら、無理に急いで狩ってくる必要はないってことね」
「え? まあ、そうと言えばそうだけど……それがどうかした?」
レイがなにを言いたいのか分からなくて、ラストは頭に疑問符を浮かべる。
そんな彼を恨めし気に睨みながら、彼女は目をちらちらと周囲に彷徨わせながらぼそぼそと呟く。
「っ……ほら、別れて入ると、楽しめる時間が半分こになっちゃうじゃない? それじゃもったいないというか、その……どうせなら、出来る限りゆっくり遊んでたいっていうか……」
「それなら、君は君の好きなだけ入ってていいよ。僕は別に短くてもいいからさ」
「そ、そうじゃないわよっ! だから、そのね……」
彼女は一度俯いてから、改めて上げた顔をぎゅっとラストに近づけた。
その表情はあわあわと気恥ずかしさに揺れているが、瞳だけは彼のことをまっすぐに見つめている。
「い、一緒に入ればいいじゃない!」
「えっ……えええっ!?」
思わぬレイからの提案に、ラストは慌てて首を振る。
「そ、そんなのは駄目だよ! 一緒に入るなんてそんな、色々と見えちゃうだろ!? いくらなんでも恥ずかしいっていうか、それは流石にまずいって!」
「でも時間がもったいないじゃない!」
「そういう問題じゃないだろ!? というかレイ、顔が真っ赤じゃないか! そこまで無理しなくても、僕が入る時間を減らせばいいだけだってば……」
「だから、それじゃせっかくここにあんたを連れてきた意味がないでしょ!? これはあんたからのお礼でもあるけど、あたしからのお礼でもあるんだから!」
段々と顔を近づけて迫るレイから逃げるように、ラストはじりじりと後ずさる。
しかし、なんとも運の悪いことに彼の後ろに地面はなかった。
そこには代わりに、青々とした湖が美しい顔で大口を開けている。
前方のレイと、後方の湖。
本来なら左右のどちらかに逃げればいいだけなのだが、レイの瞳には絶対に逃がさないという謎の怪しい光が漂っていてラストは逃げるに逃げられなかった。
それらに挟まれたまま、ラストは少しずつ追い詰められて――その踵が、僅かに湖の淵へと突き出て体勢を崩した瞬間。
「ほら、文句を言わないの!」
「うわっ!?」
その隙を見逃さず、レイは彼に向けて勢いよく飛びついた。
どんっ、と彼女はそのまま自身を受け止めたラストを押し倒すように倒れ込む。
さしものラストと言えど、支えるための地面がなければその場に留まることなど出来ず。
ばっしゃーん! と大きな音を立てて、二人の身体は透き通った水の中へと落下したのだった。
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