第49話 現実知らず
「まんず言っとくが、森の中では絶対喋んな。奴らは敏感だかんな。合図は手と指でやんだ。一通り見せたったるから一回で覚えろや。ぐずってると置いてっちまうぞ」
そう言ってルークが手早く見せた身振り手振りの意思表示を、ラストはさらりと一通り真似して大丈夫かどうかと確認した。
その覚えの良い生徒のすかした態度にルークはふんと鼻息を鳴らして、訂正することもなく森の中へと足を踏み入れていった。
それからというもの、彼は自分の言った通りに一言も口を開かなかった。
常に落ち着いた足取りで、慣れたように木々の枝葉を掻き分けて森の中を進んでいく。村で見せていたラストへの威圧するような気迫も嘘のように消え失せ、余計な力を抜いた自然体のまま歩いていく。
それはまるで、この森にあって当然の一つの存在として溶け込んでいるようだ。
「……」
「……」
その後ろを気配を消しながら歩いていくラストは、自身とは異なるルークの隠密技術に感心する。
彼よりも頭三つ分ほど大きい巨体の存在感を、ルークは完全に殺すのではなく自然に紛れ込ませている。
戦う者とは異なる、森と共に生きる者としてのあり方。
それを彼は無言の背中で語っていた。
時折罠の設置された場所や息を潜めて獲物を狙う場所などを示され、それらを損なわないような歩き方をラストは合図で教わる。
そうしながら進んでいくと、ルークが後ろ手に合図を送った。
一度開いて、握る――獲物が見つかったという合図だ。
彼の目の先に生い茂る藪の隙間から、僅かに茶色の毛皮が見え隠れしている。次いで、口元から伸びる短くも逞しい牙が見えた。その形状から察するに、いたって普通の猪だ。
「……」
ルークは鋭い動きで背負っていた弓を構えた。
更に体勢を低くして、万が一にも気取られないように己の身体を近くの草木に隠す。彼は地面にしゃがみ込んだままの特殊な姿勢から狙いを定め――静射。
ぶひぃっ、と不意打ちを受けた猪が悲鳴を上げた。
「……」
ルークの姿は、藪に隠れていて向こう側からはすぐに目に捉えることが出来ない。
前の膝を射抜いた不躾な来訪者を探そうと猪が首を左右へ振るったその時、音を立てずに腰の筒から引き抜かれていた二本目の矢が既に放たれていた。
鈍い音を立てて、ルークの矢が更に別の足へと突き刺さる。
悲鳴――同時に放たれる第三射。
猪が対応する間もなく、彼は立て続けに矢を放つ。
目標は脚部。警戒心の高い野生動物の、まずは逃げる機能を喪失させる。
およそ五矢ほど一気に打ち終えたところで、今度はルークはするすると低い姿勢のまま猪の前方へと回り込んでいく。
満足に動けなくなった猪の前方へと回り、ためらうことなくその両目に石鏃をみまった。
「……」
片手が開かれた状態で突き出される。待機の合図だ。
一度後ろへと下がって様子を窺うルークに倣い、ラストもまた息を潜めて見守る。
両目を砕かれて視界を失い、怒りに狂う猪は四方八方にどったんばったんと暴れ回る。それが耐えられない痛みによるものなのか、それとも攻撃を与えた相手への復讐心によるものなのかは分からない。
そうして少しの間暴れ続けていた猪は、やがて疲労と失血で膝を折って横に倒れた。
動けずにかすかな呼吸音だけをひり出す死に体に、ここでルークが動く。
ゆっくりと慎重な動きで弓を構え、狙いを定める。
その先に見えるのは、横倒しになったことで露わになった、白い毛に覆われた腹部。
その毛皮の内側でどくどくと脈打つ、生命にとって特別重要な肉の塊。
そこを見透かすように丁重に照準を定め、ルークはきりきりと弓の限界まで弦を引き絞る。
最後の一射が放たれた。
――けひっ!
か細い断末魔が漏れ出て、これまでの傷よりも明らかに多くの血液が赤い池を作っていく。
ぴくぴくと動いていた四本の足が、徐々に動きを遅くしていく。
そして、止まった。
「……」
どうだ、と後ろを向いて自慢するように顎をしゃくるルーク。
だが、そこにはいるはずのラストの姿が見えない。
驚いて目を見張ると、申し訳なさそうな顔でラストが音もなくミミズクのように降り立った。
万が一にも狩りの邪魔にならぬよう、彼はいつのまにか木の上に登ってルークの様子を見守っていたのだ。
「……っ!」
びっくりさせられたことに、ルークは思わずせき込みそうになった。
それに文句をいうように彼の胸を一度叩いてから、ルークは更に指を動かして次の指示を出した。
指で猪を指して、それから手首を返して来た道を指す。
――得物を回収して、退散する。
それだけだ。
ラストは若干不満げな顔をするが、それでもすぐにルークの言う通りに猪の回収作業に取り掛かった。あらかた血が流れ出たのを確認してから運ぶのに邪魔な内臓を取り出す。そして、四肢を前と後ろで二つずつ、持ちやすいようにくくる。
血に塗れるのも厭わずに作業するラストをちょっとばかり見直しながら、彼も同時に作業を進める。
――そう、それでいい。
手早く獲物を持って立ち去らなければ、騒ぎと血の匂いを嗅ぎつけた奴らがやってくるから。
そう考えている内に、ルークの作業を進める手の動きが早くなっていく。
今この瞬間にも近くをうろついているであろう脅威どもに見つかるわけには、いかないのだと。
だが、もう遅い。
――ア゛オ゛オ゛オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ォ゛ン!
「くそっ、もう気づかれちまった!」
遠くに聞こえる恐ろしき声にルークは作業を放棄して立ち上がる。
狩人として数年森で過ごしてきたからこそ、彼には絶妙な鳴き声の違いを聞き分けられる。
腹の底に響くような、呪いのような重音が混じる今の声はまず間違いなく魔物のものだ。
こうなってしまえばもはや無言の禁も何もない。
手早く獲物を放棄して、彼は撤収の体勢を整えた。
もったいないが、死体を置いておけば魔物どもは先にそちらへと食らいつく。獲物は失おうとまた取ればいい。だが、命は人生においてたった一つしか得られない。
――だというのに。
「おめぇ、なしてそいつをしょってやがる!」
隣のラストは、呑気に猪を持っていく準備を整えていた。
はらわたの抜けた猪の両足を掴んで肩のところに背負い上げ、これでいいかとルークを見る。
「っ、そんなん持って逃げられるわけ――」
思わずルークは、ラストの胸倉を掴み上げそうになった。
ことここに及んで、彼は魔物の気配を悟ってもなお逃げる素振りを見せない。
なんとも生意気で現実知らずな馬鹿を心配する方が馬鹿だったと、ルークは心の中で吐き捨てる。
「ったく、少しは見直してやったっちゅーのにこれだから
彼を詰る時間もこれ以上は惜しくて、ルークは一足先に逃げ出した。
それも仕方がないことだ。なにせラストは村人全員の前で魔物が倒せると言っていたのだから、ルークが置いていったところで問題はない。
――そう、
「あんにゃろうの言い分を仕方なく聞いてやっちょったんだ、責任取って囮くらいやってもらわにゃななぁ! ったく、やっぱ来ん方がよかったわい!」
森の中を走って、ルークは急ぎ村の方へと向かう。
久々の森での全力疾走に腹を空かしていた身体が悲鳴を上げるが、そんなことは知ったことではなかった。
ラストと猪の肉を食えば魔物は十分に腹が満たされるだろう。次に腹が減る前に相手の感知圏内から外れてしまえば、襲われることはない。
ルークの頭の中にふと、今頃首元を噛み千切られているであろうラストの姿が浮かぶ。
きっと彼の身体は見るも無残なことになっているに違いない。いたる所を食われ、原型が残らないほどにズタズタな骸となって残される。太腿や腹と言った柔らかい所はがらんどうになり、逆に食べにくい口周りなどの肉が薄い所は残される。
獣の気の赴くままに蹂躙され、尊厳など何もなく踏み躙られる。
――そんな、かつて
「……けっ、どーせ嘘っぱちのくせによぅ!」
見栄を張るがために自ら死を選ぶなんて、馬鹿な奴だ――そう、ルークはラストのことを嘲笑う。
だが、これはこれで彼にとっては都合が良かった。
己の邪魔となった鬱陶しいラストが消えれば、村も元通りの静かなものに戻るだろうからだ。
彼にとって余計な奴が消えて、レイを取り合って友人たちと馬鹿話を繰り広げられるというルークにとっての安寧が訪れる。
しかも彼が出掛けに想像したように直接手にかけたわけでもない。
ルークはラストが宣言した通りのことをやらせただけなのだから、罪悪感はなかった。
――己の大切な弓を血に汚すこともなく、余計なものを排除できた。
魔物に見つかってしまい獲物を捨てることになったのは、狩りとしては大失敗だった。
それでも結果的には自分の都合の良いようになったものだと彼は浮かれていた――だからこそ。
「……は?」
森の外のあぜ道へと転がるように飛び出た彼を出迎えた、無傷のラストに。
ルークは絶頂の真っ只中から奈落へと引きずり落とされた。
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