第二章 魔哭穿つ誇弓

第45話 麓の村の少女


 転移の光が収束し、ラストの視界に通常の景色が戻る。

 それと同時に彼の身体はふわりとした浮遊感に包まれ――地面へと向けて落下を始めた。


「よっ、と」


 しかし、ラストに慌てた様子はない。

 それも想定内と言った様子で、ローブを翼がわりに広げてうまいこと風を掴みながら彼はやんわりと着地した。


「うん、成功だ。ちゃんと地面に埋まらずに出られて良かった。足元に生き物がいる、なんてこともなかったし」


 ぐっぐっと衝撃を吸収した両足の感覚を確かめながら、彼は周囲を見渡す。

 万が一転移先が地面の中だったり、魔物の巣だったりといったことも予想していたのだが、そんなことはなくて彼は一安心していた。それらに遭遇するよりかは、上空に投げ出された方がましだと想定よりも高めの位置を転移先に設定していたのが功を奏した形だ。

 彼が降り立ったのはユースティティアに存在する、王都からは徒歩で一月と半分ほど離れた場所に連なる山々の一つだ。アストレア山脈の名で知られるその場所は王国の重要な穀倉地帯の一つを守る自然の城塞として知られている。

 ラストがいるのはその中腹で、ごろごろと煤けた茶色の岩石が無造作に転がっている。

 しかし下を見渡せばふもとに近づくにつれてきちんと緑が広がっており、その中にはぽつぽつと畑らしきものに囲われている集落が存在している。

 家々からは煙が細くたなびいており、遠目にも人々が息づいていることが伺える。


「ひとまずはあの麓の村のどこかに行って、厄介にならせてもらおう。ここの空気に身体を慣らしてからじゃないと、王都に行って色々と怪しまれそうだし」


 エスとの生活で身についた習慣が色々と常識を超えているのは、彼も承知の上だ。

 それらを一度身体から落として、ユースティティア人らしい生き方を覚え直す。そうすれば、多少は田舎らしいと笑われても王都へ行ったときに悪目立ちすることはないだろうというのが彼の算段だった。

 あらかじめ決めた予定通りに、彼は荷物を背負いながらするすると山を降りていく。

 途中で差し掛かった麓の森には魔物を含めた多くの動物たちが息を潜めている。

 そのなわばりの隙間を縫うように歩いて先ほど視認した村の方向へと向かいながら、ラストはこの森の環境を分析して少しばかり首を傾げた。


「強くはないけれど、数がやたらと多いような気がするな。これじゃあしょっちゅう諍いが起きるだろうに」


 いくら雄大な自然であろうと、養うことのできる動物の量は限られている。

 十人分の食べ物では二十人を養えないように、一定の範囲に生息できる生物には限度がある。

 だが、この森の生き物、特に猿や熊と言った雑食動物は不思議と数が多い。一時的に数が増えているだけなのだろうかと思いながらも、ラストは一応心の中に注意書きしておいた。

 そんなことを考えながら普段の【深淵樹海アビッサル】と同じ歩調で進んでいると、あっさりと開けた道に出ることが出来た。

 足元がしっかりと踏み固められており、所々には人のものらしき足跡がきちんと残されている。

 ただの獣道というわけではなく、人々が交通に使用している証拠だ。

 この道を辿れば、いずれは人間の生活圏内に辿り着くことは間違いない。


「……さて、どっちに行こうかな」


 記憶を辿れば、ラストが今いる場所から繋がっていそうな二つの村はどちらも大して距離が変わらない。

 どちらを選んでも変わりはないのなら適当に即決するのが一番なのだが、そこまで時間に追い立てられているわけではない。

 ラストが近くの岩に腰を下ろして少しばかり悩まし気にしていると――。


「きゃぁあああっ! 誰か、誰か助けて!」


 最初の悲鳴が聞こえたと同時に彼の足はすぐさま駆け出していた。

 ラストは素早く風を切って、一直線に悲鳴の響いた場所へと向かう。

 彼の視線の先には腰を抜かしたらしき赤毛の少女がへたり込んでおり、その周りを五匹の狼が取り囲んでいた。

 唸りながらじりじりと追い立てるように迫る彼らは、魔力を身に纏っているわけではない通常の獣だ。

 ラストからしてみれば大したことの無いように思えるが、それはより凶悪な獣に慣れているからだ。自分が敵わないような相手に睨まれていては、身体が竦んでも仕方がない。

 一刻も早く助けないと――そんな思いと共に、ラストの踏み込んだ脚に力が籠る。

 ぱぁんっ、と地面が弾けた。


「せい、やっ!」


 しなやかな足捌きで踏み込まれたラストの身体が、宙を駆ける。

 そのまま彼は全体重をかけて、少女を今にも食い殺そうとしていた主格らしき一匹の首を思いっきり蹴り飛ばした。

 筋肉の詰まった、生態系でも上位に位置する獣の肉体がおもちゃのように軽く吹き飛ばされる。


「えっ?」


 がうっ? と、少女と残りの狼の疑問が重なった。

 そこにすかさず、ラストが地面を強く踏み鳴らした。

 ずんっ、と地震のような重い振動が彼らのいた場所を揺らす。


「余計に殺すつもりはないんだ。向こうへ行ってくれないかな?」


 同時にラストは、じわりと目に魔力を纏わせて狼たちを睨みつけた。

 脅威に敏感な獣たちは、それだけできゃうんと見た目にそぐわぬ可愛らしい鳴き声を上げて森の奥へと姿を消していった。


「えっと、大丈夫かな。怪我はないようだけど、歩けないなら村まで送っていこうか?」

「あ……ええ。お願いするわ。ごめんなさい、すっかり力が抜けちゃったのよ」


 差し出されたラストの手を、少女は素直に受け取った。


「失礼するよ。あいにくと背中は荷物で塞がってるんだ」


 彼はそのまま彼女の身体を軽く引き上げて、膝裏へと手を回す。

 そのままもう一つの腕を背中に回して、自身の胸の前にすくい上げるように抱き寄せる。

 少女の身体は驚くほどに軽く、まるで羽根のようだった。

 抱き寄せたことで自然と顔が近くなり、ラストは彼女のことを観察する。

 薄い小麦色に焼けた健康的な肌に、浮かんだそばかすが純朴な可愛さを見せつけている。白いリボンのついた麦わら帽子を被れば、それだけできっと多くの村の男たちの眼を惹くに違いない。

 ただ、残念なのは頬が僅かにこけており、肌が荒れていることか。

 身長に反して軽すぎる体重から察するに、栄養が足りておらず色々なところに脂肪が回りきっていないようだ。

 だが、初対面から相手の村の食事情まで指摘するのには中々に勇気がいる。

 ラストはひとまず、当たり障りのなさそうな適当な話題を選んだ。


「始めまして。僕はラスト・ドロップス。この辺りは初めてで、道に詳しくないんだ。早いうちに道を知ってそうな君に会えてよかったよ。じゃなきゃ寂しくて泣いちゃってたかもしれない」

「ふふっ、そんなに強いのに泣いちゃうなんて、変な人ね。あたしはレイ。レイ・スピカ。この近くのスピカ村に住んでるの。困ってるならそこまで案内するわ。よろしくね、ラスト」

「助かるよ。よろしくレイ。それで……」

「あ、ちょっと待って」


 ぎゅっ、とラストの口が直接彼女の手で押さえられた。


「まだ余裕があるなら、あの狼を持っていけない? 実は今、村にあんまり食べ物が無くて。少しでも食べられそうなものがあるなら、回収しておきたいの。元々ここに来たのだって、それが目的だったし。図々しいお願いだって、分かってるわ。無理にとは言わないけど……無理かしら?」

「……そんなことを言われたら、持っていかないわけにはいかないな」


 ラストは手元から伸ばした魔力の糸で、狼の身体を縛って鞄の裏側に括り付けた。

 その光景を見て、レイが驚く。


「きゃっ!? 狼が勝手に動いたわ!?」

「ああ、大丈夫だよ。あれは魔力を使って引っ張ってるんだ」

「えっ? ってことはもしかして、ラストって魔法使いなの?」

「まあね。とは言っても、大した魔法は使えないけれど」

「嘘をつかないでよ! 狼を蹴っただけで倒しちゃうなんて、まるでおとぎ話の主人公みたい! 凄いわ!」

「あ、ありがとう……」


 目をキラキラとさせるレイに、ラストは反応に困った。

 純粋に憧れられるという経験が少ない彼にとって、彼女の素直な称賛は眩しかった。


「ねぇ、魔法についてのお話を聞かせてちょうだい! 村に魔法を使える人なんて誰もいないんだもの!」

「うん、良いよ。僕に答えられることなら」


 そのまま色々と魔法についての話を聞かれては答えてを繰り返しながら、彼はゆっくりと歩を進めていく。

 やがて木々のなくなった場所に出れば、そこには青々とした穀物畑が広がっていた。


「着いたわ。ようこそ、ここがあたしたちの村――スピカ村よ。もうちょっと行けば……ほら、見えるでしょ? あそこが村の中心部。みんながいる所よ。おーい!」


 ラストの腕の中でレイが手を振った。

 すると、村の中に居た人々が二人に気づいたようで慌ただしい動きを見せる。

 その一団から一際早く、矢のように飛び出してきた人物が二人。

 顔立ちから察するにレイの家族のようだが――。


「レーイー! そちらの方は――」

「おんどりゃあああっ、ワシの娘を誰の許可なしに抱いとんのじゃぁあああっ!」


 母親らしき女性の声に被さって、野太い男性の絶叫が飛んでくる。

 しかもその手には、先ほどまで使っていたらしき鎌がぶんぶんと振り回されている。


「……ごめんなさい。ああなった父さんはちょっと、簡単には収まらなくって。更にお願いすることになって本当にごめんなんだけど、止めてもらってもいいかしら。なんだったら肋骨の一つや二つは折ってもいいから」


 レイが顔を真っ赤にさせて、恥ずかしそうに訴える。


「いや。娘のことを大切に想ってる、良いお父さんだと思うよ。そんな人に怪我をさせるわけにはいかないな。ちょっと地面に座ってもらうことになるけど、ごめんね」


 彼女を地面に置いて、ラストは苦笑いしながら激昂するレイの父親へと向き直った。

 彼は先ほどの狼ですら姿を見れば逃げ出しそうな般若の顔を浮かべている。

 ――さて、その大切な家族の怒りを傷一つつけることなく収めるには。


「やっぱりこれが一番かな」


 拳を握るのではなく、ラストは腰の薬袋に手を伸ばした。

 その指先が摘まんだのはただのお薬だ。

 そう。彼の師匠お墨付きの、怒りとか争いなんてどうでもよくなる……ただの、お薬である。

 これから起こるちょっとばかりおかしな光景に既に・・笑ってしまそうになりながら、ラストはその薬の封を解いた。

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